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冒険がしたい

冒険がしたい。
こう書くと「藤岡弘、に憧れているんですか?」なんて言われそうだが、そういう意味ではない。
いや、藤岡弘、さんには実際憧れているのだが、この記事に限ってはそういった意味ではない。
チェーン店で冒険がしたいのだ。

僕はチェーン店で決まったメニューしか頼まない。
吉野家ではねぎ玉牛丼、マクドナルドではえびフィレオセット(ドリンクはQooすっきり白ぶどう)、丸亀製麺ではかけうどん(温)とかしわ天、サイゼリヤでは半熟卵のミラノ風ドリアと若鶏のディアボラ風、なか卯ではとろたま親子丼。
毎回必ず同じメニューを注文する。これはその時の気分やお財布事情に左右されることもない。決まったメニューを食べる気分でないならその店には行かないし、決まったメニューを注文する財政的余裕がないならその店には行かない。

「同じ滑り台を延々と滑る子供」や「同じ曲を飽きるまでずっとリピート再生する人」といった話とは似て非なるものだと思っている。恐らくこれらは目の前の1つの物事に集中・執着しているから引き起こされる行動である。しかし僕は決まったメニュー以外もしっかり認識しているし、そのメニューを頼むか検討するときもある。その上でやっぱり決まったメニューを注文している。注文しているというより、注文のタイミングになると口が勝手に決まったメニューの名を唱えるのだ。
僕が決まったメニューしか注文しない理由は、「そのメニューが美味しいから」に尽きるのだが、そこに辿り着くまでにはいくつかのメニューを注文してみる"冒険"のフェーズが多少なりともあったはずだ。なのに僕は、美味しいメニューに辿り着いたことにすっかり満足しきって、ぱたりと冒険を辞めてしまった。冒険の過程も、冒険をする方法すら、僕はもう覚えていない。

なぜ僕が再び冒険に踏み出すことができないのか。自分なりに分析・考察してみたいと思う。

まずは「後悔したくないから」という思いが根幹にあるからだろう。
僕は食べることが大好きだが、舌が肥えているわけでもなければ、「一生のうちにできる食事の回数は決まっているから1回も無駄にしたくない」と言うほど食事にストイックなわけでもない。しかし、お金を払って食事をする以上は確実に美味しいものを食べたいという思いはある。
食べたことのないメニューは、自分が想像しているより美味しい可能性がある。新しい発見ができる可能性がある。しかし同様に、期待外れな味である可能性もあるのだ。美味しいかどうかは注文して食べてみるまで確定しない。シュレディンガーの猫、食べたことのないメニュー、というわけだ。
それに対して繰り返し食べているメニューは、新鮮さには欠けるものの、美味しいという事実が確約されている。確実性と安心感があるのだ。
もし食べたことのないメニューを注文して、それが期待外れな味だった場合。ポジティブ思考な人なら「このメニューは美味しくないということが今回で分かったから、次は別のメニューを頼んでみよう」と、新たな冒険に意欲を湧かせるはずだ。しかし僕はネガティブ思考の人間である。きっと「だったら最初からいつものメニューを食べればよかったなぁ…」と後悔の念に駆られながら店を後にすることだろう。それは絶対に避けたいのだ。
可能性より確実性が欲しい。後悔したくない。その思いが、僕を冒険から遠ざけている。

そしてもう一つ、「別れが怖いから」である。
もし冒険をした結果ハマったメニューが期間限定だった場合、販売期間終了という別れが必ずやってくる。それが毎年恒例の期間限定メニューだったとしても、販売終了から次の販売期間まで一年近くはそのメニューを食べられないのだ。その期間は別のメニューで妥協してやり過ごさなければならない。そんな時を過ごすのが怖い。
そして期間限定メニューというものは、季節が一巡しても必ずまた会えるというわけではないのだ。毎年恒例になっているメニューであれば翌年もまた会える可能性は高い。しかしその年に新しく販売がスタートした期間限定メニューは、販売期間での売れ行きが芳しくなかった場合、二度と再販されることなくそのまま姿を消してしまう。僕がそのメニューにハマっていても、大衆から高い評価を受けなければ簡単に淘汰されてしまう。残酷な世界である。「また来年」と手を振って見送ったはずなのに、いくら待てどもそのメニューと再会できる日はやってこないのだ。想像しただけで切なすぎて涙が出てくるし、怖すぎる。
僕が恐れているのはもはや「別れ」ではなく「出会ってしまうこと」なのかもしれない。
対して、僕がいつも食べているメニューは長年にわたって定番メニューに君臨してきた重鎮たちで、唐突に別れを突き付けられることはまず無いと言ってもいいだろう。いつでも僕を温かく迎えてくれる存在なのだ。もう少ししたら僕は各チェーン店のことを「実家」、いつも食べるメニューのことを「お母さん」と呼び始めるかもしれない。

ここまで理由を書き連ねてきたが、冒険をしたいという意欲はあれど、冒険に踏み出せないことに後ろめたさなどは感じていない。だから原因が分かっていたとしても、余程のことがない限りは冒険しないだろう。

「余程のこと」とは、注文のときに藤岡弘、さんが隣に居てくれるとか、そういうレベルのことだ。
「人生とは挑戦、冒険の連続。だから発見することも多い。」という格言を残している藤岡弘、さんが隣に居たら、誰だって冒険がしたくなる。
冒険に踏み出せなかった僕に、藤岡弘、さんは言ってくれるはずだ。

「冒険ってのは青春なんだ。さぁ、青春をしようじゃないか。」

その一言で僕は、重かった一歩を踏み出せるのだ。
僕はまだ食べたことのないメニューを注文し、それを頬張る。
そんな僕を見て藤岡弘、さんは言うだろう。

「どうだ、冒険っていうのは気持ちが良いだろう。新たな出会いはどこに転がっているか分からない。だからこそ俺たちは冒険を続けるんだ。死ぬまでが冒険であり、青春なんだ。合掌。」


あぁ。そんな「余程のこと」が実際に起きたりしないだろうか。
藤岡弘、さんと一緒に冒険がしたい。
藤岡弘、さんとチェーン店に行きたい。
藤岡弘、さん。ご連絡お待ちしております。

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