中編小説『東洋の忘れ形見』①

母から譲り受けたもの。
飴色の髪に、マルセイユの海のような瞳、少しそばかすはあるけれどきめ細かな肌。セピア色の家族写真、鍵盤の柔らかいアップライトピアノ、手書きの不完全な楽譜。
それが私の知っている母の全てであった。
 
私の音に深みがないと誰かが言った。また別の誰かが、私の演奏には愛もないと続ける。師匠は良くても、弟子はお粗末だと誰かが笑う。
事実だ。
 認めてしまえば、案外すんなりと受け入れられた。ただ、ピアノを弾いていない自分を想像できなかった。だから、そのまま叔父であるユーゴの助手として働くことを選んだ。
 私は車の車窓から、土埃の舞う汚い街を見る。長い溜息は窓を少し白く曇らせた。車を降り、レンガ造りの建物に入ると風がない分寒さは和らいだ。
 廊下に並んだ私と同い年くらいの人たちを横目で見て、私は案内された部屋に入った。
 挨拶を軽く済ませると、私は椅子に座った。一人、また一人とピアノを奏でていっては出ていく。三人目に差し掛かるところで、今来た三人よりまだ私の方が上手いとどこかで思いながら、早く終われと願った。十人に差し掛かるところで段々と眠くなってきた。私はあくびを噛み殺しながら「次の方」と言った。その様子に、目の前でピアノを弾く学生は涙目になりながら、演奏をやめて席を立った。そそくさとその部屋を後にする学生に一瞥もくれず、再びあくびが出そうになるのを我慢する。
私は苛立っていた。日本になんて来たくなかった。ましてや日本人が弾くクラシック音楽なんて聴けたもんじゃない、と心の中で思っていた。そして、日本に来る理由になった元凶の隣に座る師匠を睨む。ユーゴは私の視線に気づき困ったように笑いながら、次の人は良いかもしれない、と苦笑いしながら言った。
手元の書類の枚数を確認した。手元の書類は最後の一枚だった。私は大きくため息を吐く。
「今ので十人目よ、あと一人でオーディションが終わるわ」
私はピアノの椅子を調節する最後の一人の女子学生を見ながら、ユーゴにしか聞こえないよう、フランス語で耳打ちした。
ピアニストのユーゴが日本に行かなければならなくなったと、弟子の私に言ったのはフランスを発つ一週間前だった。本当は数か月前から日本の帝都音楽院という新設される音楽学校で教えることが決まっていたのだが、私に言い出せなかったのだ。日本は終戦してから十五年は経っているとはいえ、首都でさえ道も舗装されていないような田舎だった。行くのを嫌がるだろうということを推測してのことだろう。だから、ユーゴはぎりぎりまで私に日本行きのことを伝えなかった。
私は昔からヨーロッパ生まれにしか、クラシック特有のリズムを理解するのは難しいという考えを持っていた。ユーゴはそのことを知ってはいたし、幼い頃の音楽教育というものが音楽家には何より大事な事も理解していた。
十一人目の女子学生の演奏が始まる。私とユーゴは微かな期待をかけ、耳を澄ませた。けれど、ピアノからした音は濁った泥水のようなものだった。私は座っている背もたれに寄りかかり、大きなため息をついた。
落胆しているのは私だけではないようで、ユーゴも力なく笑った。
ユーゴと私は三か月後の帝都音楽院の設立記念音楽演奏会でオーケストラと演奏するピアノ弾きの生徒を探していた。ユーゴと私が演奏をするのではなく、あくまで帝都音楽院の生徒が演奏をして欲しいというのが帝都音楽院の会長からの依頼だった。
私は十一人目の演奏を聴きながら、日本に来るんじゃなかったと師匠のユーゴを心底恨んだ。
「私、ちょっと外の空気吸ってくる」
そう言うと、ユーゴの引き留める声も聞かず、部屋を後にした。
部屋を出て廊下の真ん中で四角い缶に入った飴を口の中に放り込むと鼻に抜けるミントのような香りがした。当たりだ。私は毎日ドロップ缶から一粒ずつ取り出してその日の運勢を占う。ゲン担ぎみたいなものだ。ハッカ以外ははずれ、イチゴやレモンは私にとって甘すぎて味が好きになれなかった。
 私はハッカだったことが嬉しくて、先ほどまでの不機嫌が嘘のように口元を綻ばせた。
 ふと、前方から廊下を歩いてくる一人の男子学生がいた。日本人にしては身長が高く、めくり上げた袖から見える均整の取れた筋肉のついた綺麗な腕と、アンバランスなほど大きな手をしていた。私は真ん中から、彼が通れるように左に避けた。すると彼は、私の目の前にやってきて何か日本語の挨拶らしきものをしながら道を塞いだ。
 その男の行動を見て私はハッカのドロップを奥歯で思い切り嚙み砕いた。挨拶されているのは分かっていた、けれど口の中にハッカの味が広がろうとこの初対面の男に挨拶を返そうとは思わなかった。この建物の中にいるということは、帝都音楽院の関係者なのかもしれない。ただ、こういうよく分からない面倒な輩が私は大嫌いだった。踵を返し、師匠のユーゴがいる教室に戻ろうとした。
「matte」
さっきまで私に通せんぼをしていた男は焦った様子で、私を呼び止めた。しかし、それを無視し先ほどまで居た部屋に入る。窓から見える部屋の外に締め出された男は大きな深呼吸をした。耳まで赤く目は充血し、唇は一文字に結ばれている。男は私の入った教室の扉に向かい何かを叫んだ。
日本語がよく分からない私が困ったような怯えた顔をしていると、ユーゴの隣で何も言わずにじっとしていた通訳の伊藤さんが慌てて部屋の入口の方に行きその男を何故か連れてきた。
 私は通訳とその大きな声を出した変な男を交互に見て、険しい顔をした。深刻そうな顔で通訳は眉間の皺をもみながら、大きなため息を吐いた。「この男、本吉誠が、あなたに一目ぼれしたそうです」通訳はカタコトのフランス語でそう言うと、困ったように私を見た。
 私は自国で男に非常にモテた。生まれながらの色素の薄い肌に、真っ青な目、そして何よりブロンドの美しい髪を持って生まれ、異性に言い寄られることも少なくなかった。ただ、私は告白をされるといつも決まって言うのだ。「私よりクラシックピアノがうまい人間にしか惹かれない」雨露を手で払いのけるように興味なさそうな、嫌そうな顔で今回もその決まり文句を本吉という男に言った。
 本吉は一つため息を吐くと、英語で「俺はクラシックは弾けない」と言った。
 私はそれを聞いて、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「そう、残念ね」
私は本吉に子供をあやすような優しい声で言った。この男はあんなに大きな手を持って生まれたというのに、ピアノを弾けないなんてかわいそうな人、と私は心の中でそう思ったのだ。
 私はせめてもの餞別にと、部屋の真ん中に置いてあったピアノに向かい椅子に座った。ショパンの『木枯らし』、私にとって十八番とも呼べる曲だった。日本の冬の木枯らしは母国と違い土埃が道に舞う。道がレンガなどで舗装されていないからだ。私はこの国が嫌いだ。パリで仕立ててもらった、深緑色のコートは少し歩けば埃だらけになるし、その他にも私の持ってきたどの服もこの東京では派手で浮いた。
 まだ日本に来て三日しか経っていないが、私はもうすでにフランスに帰りたかった。しかし、帰る場所はなかった。故郷が懐かしい。帰りたい。私はそんな気持ちでピアノに触れる。
 『木枯らし』、という曲はセピア色だと常々私は思う。幼少期に両親と撮った写真がセピア色に色褪せて深緑色の少し埃っぽいコートのポケットに入っている。私はその写真を頭の中に思い浮かべながら、音数が増えていく楽譜に合わせるように指をより一層早く動かした。
 ユーゴに付いて東京に来たことに何ら後悔はしていなかったが、迷いがなかったとは言えばそれは嘘だった。それでも東京に来たのは、ピアノの師匠であり、叔父であるユーゴを何より心配してのことだった。後悔はなかったが、やはり演奏にはその迷いが出てしまっている。音の響き方やペダルを踏むタイミングなどフランスにいたときとは違っていた。
 不意に「子供の学芸会」と自国の言葉が聞こえた気がしたのを、頭を振りかぶってピアノの音でかき消す。私自身が私のピアノが技術だけのハリボテだと叫んでいる。
 私は自分の演奏に納得がいかないまま最終節まで来た。やっと、終わる。この和音で、終わる。私はやっとのことで演奏を弾き終わると、暗い顔で席を立った。
「あんたは幸せか?」
本吉は私の演奏に一人だけ拍手をしないまま英語で話しかけてきた。私は「幸せなわけない、日本に来たくなんてなかった」と彼に答えた。
「なんで?」
「埃くさいし、虫は多いし、町は汚いし、音楽は微妙だし、色々よ」
私は口に出して泣きたい気持ちになった。本当はユーゴがいるこの場でこんなことを話すつもりはなかった。だが、本吉という男にはなぜかするすると言葉が出た。
「なるほど、あんたは故郷が懐かしいと」
「そうよ」
私がそう答えると本吉という男は目の前にあるピアノの椅子に勢いよく座った。そしておもむろにピアノを弾き始めた。『雨に唄えば』、彼が弾き始めたのは有名なアメリカ映画の音楽だった。
 軽快な音はどこまでも伸びていき、私に自由を感じさせた。そして何より、私の弾いた演奏と同じピアノなのかというくらい、本吉のピアノは音の響きが違った。
 日本人は西洋の音楽はできない、というのが私の見解だった。実際先ほどまでオーディションを受けていた十一人の人はそうだった。この本吉という男は何が彼らと違うというのだろう。
 本吉の音は私の暗く雲のかかった心を吹き飛ばした。そういう力があった。
 私は映画音楽に詳しくないが、彼の演奏は間違いなく一級品だ。後ろにいるユーゴが息を飲むのが分かった。ユーゴは私の視線に気付き頷いた。私もユーゴに頷き返した。本吉になら演奏会のピアノを任せられる。
 本吉のピアノには華があった。彼のピアノは舞台映えする。そして何より、彼とオーケストラの演奏が聴きたいと思ってしまった。
演奏を終えると、本吉は「少しは故郷が懐かしくなくなった?」と言った。
その言葉に私はつい笑いながら「私の故郷はアメリカじゃなくてフランス。でも、いい演奏だったわ、私マドレーヌ・ミシェルっていうの」と自己紹介をした。
「俺は本吉誠だ」
本吉は私の自己紹介に屈託のない笑みを返した。
「突然だけど、本吉、あなた今度の開校記念演奏会でコンチェルトを弾いてみる気はない?」
本吉は一瞬嬉しそうな表情をし、すぐに顔を暗くした。
「弾けない、俺はクラシックは弾けないんだ」
そういえば、先ほど私に断られていた時のことを思い出した。彼は確かにクラシックは弾けないと言っていた。ジャズしか弾けないという事だろうか。
「どういう事?」
「俺は楽譜が読めない。さっきの雨に唄えばも、耳で聞いて覚えたんだ」
私は納得した。本吉の音は自由だった。けれど、それは楽譜という縛りがなかったからだ。反して、クラシックの演奏はあくまで楽譜に従わなければならない。楽譜に従いながら、自身の解釈を表現するのだ。
後ろにいたユーゴもその会話に入ってきた。
「耳で聞けば覚えられるんだろう? 問題ない。本吉君に聞いて覚えてもらえばいい」
本吉はそれに助けを求めるような顔で私を見た。私はそれに「お願い」と本吉を見つめ返した。本吉は耳まで赤くしながら、最後には頭を掻きながら小さい声で「オーケー」と言った。少し間をおいて、本吉は思い出したかのように喜んでいる私たちに「ただし、条件がある」と続けた。
「俺はまだ実はこの音楽院に受かっていないんだ。入試までに俺がこの音楽院に入れるように、俺に楽譜の読み方を教えてくれ」
 ユーゴはそれに笑いながら、「いいだろう、マドレーヌ教えてあげなさい」と言った。私は「もちろん」と答え、本吉に笑いかけた。本吉は、さらに顔を赤くさせながら、私から目を逸らしつつ、「お願いします」と頭を下げた。
 演奏会のピアニストを決めたところで、帝都音楽院の会長に報告に行こうと、私とユーゴは本吉を引き連れて会長のところに向かった。音楽院の廊下はどこかひんやりとしていて、隙間風が気になった。
会長の部屋まで行くとユーゴはノックをし、こげ茶色した大きな扉の前で声がかかるのを待った。
「どうぞ」
中から声がして、会長自身が扉を開けた。そして、本吉を見て目を一瞬丸くした。しかし、それも一瞬ですぐにいつものにこにことした朗らかな顔に戻った。
部屋に全員が入ったことを確認すると、ユーゴは会長に英語で話し始めた。
「山際さん、コンチェルトのピアノの演奏者を決めました」
「僕が指定した候補者の演奏者とは違うようだが」
「候補者の演奏よりも彼の演奏の方が良かったので自分は彼にしたいと思います。彼は本吉誠君です。候補者全員の演奏を聴きましたが、彼の演奏が一番ピアノの音が生きていました」
ユーゴの言葉に山際会長はこめかみを押さえた。そして、悩んだ末に英語で話し出した。「本吉君と言ったかな、君はうちの推薦入試で課題曲以外の曲を演奏したというのを覚えている、違うかい?」
本吉は山際会長から、厳しい目を向けられた。しかし、答えないわけもいかずおずおずと口を動かした。
「間違いありません、ただ、あれは楽譜が読めなくて」
「楽譜が読めなくて、どうやってピアノを勉強するんだい。君は新設だからと言って、我が校を馬鹿にしているのか!」
山際会長は突然大きな声を出した。私は聞いていられず、「私が、私が彼に楽譜の読み方を教えます! 山際会長の言う事ももっともです。楽譜を読めなければクラシックピアノの勉強は難しい。ただ、彼には才能がある。帝都音楽院のことを考えるならば、本吉というピアニストの未来を奪うのは大きな損失です」と割って入った。
 山際会長はそんな私を見て今度は何か言おうとしたが、ユーゴが今度は大きな声を出した。
「自分が必ず、この本吉誠君を帝都音楽院を代表するピアニストに育てて見せる。五か月、時間をくれないか」
山際会長もさすがに有名ピアニストのユーゴには言い返せなかったらしく、「三か月だ、三か月後に帝都音楽院の入試がある、そこで本吉君が受からなければ、演奏者は別の者を選んでもらう」と渋々言った。
「分かりました」
ユーゴはその言葉に大きくうなずいた。山際会長の背には窓があり、枯れた木が木の葉を落としながら、風に煽られていた。山際会長は気まずそうに咳ばらいをし、本吉は下を向いていた。
 話がひと段落着いたので、私たちは「失礼しました」と言って部屋を出た。
 廊下を出て、本吉は一つ大きなため息を吐いた。
「すみません、俺のせいで」
ユーゴはそれに声を上げて笑った。
「何を謝っているんだい」
「だって、あんな」
本吉は申し訳なさそうな声を出した。建物のレンガに風が強く打ち付ける音が聞こえた。
「あんなのは大したことはない。僕は何にも不利益を被ったわけじゃないし、それよりもさっき、マドレーヌに言い寄った時の勢いはどうしたんだ?」
「あれは、こんな美しい人に会えるのは二度とないと思って、つい」
マドレーヌは聞いていて、少し靴下の足首のところがむず痒く感じた。本吉はマドレーヌを一瞬見て、そしてまたユーゴに視線を戻した。
「今起こっている事も二度とない事だ。君は今ピアニストになれるかどうかの瀬戸際にいる。あれくらいの勢いで楽譜や試験勉強もしてほしい」
本吉は「ありがとうございます」とユーゴに頭を下げ、もう一度私の方を見て「ありがとう」とお礼を言った。
 

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