美術館

 ある日突然、「タダでもらったんだけど、使いそうにないから」という理由で、同僚に美術館のチケットをもらった。

 「会社の人に野球のチケットをもらった」とか「映画のチケット偶然2枚手に入れた」だとかいう事象は、都市伝説かお金持ちの人たち界隈でのみおきる出来事だと思っていたので、私の心の中のオーディエンスはおおいに沸いた。

私は、美術品に興味があるわけでもなく、むしろどちらかというと、ちんぷんかんぷんの方なのだが、とにかくこの「会社の人からなんらかの券をもらう」というイベントが自分の人生にも発生したことが嬉しかった。加えて、「この人は美術館で芸術品を楽しむだけの感性を持ち合わせていそうだ。」と同僚に評価されたのではないかという勝手な予想も私の喜びに拍車をかけた。私は脳内で島人たちと酒を酌み交わし、指笛を吹いてこの出来事を喜んだ。


 日曜日になって、美術館に出かけた。土曜日も全くもって暇だったのだが、あえて一日待って日曜日に行ったのは、「なんだか土曜日に行くより、日曜日に行くほうがオシャレだぞ。」という謎の感性が爆発したからである。

 美術館の入口につくと、気品あふれるおばさまや若者が静かにお土産を選んでいた。なるほど、やはり美術館にくるような人々はお土産選びの際も、感性を研ぎ澄ませているため無駄なおしゃべりはしないのだ。中に入る前にもう感動した私は、「順路」の文字と↓に導かれ進んでいく。

 すごい。みんな真剣に絵を見ている。いや、見ているというより見つめている。でも、分からない。みんな一体なぜ一枚の絵をこんなに長い時間見つめているんだ。絵はすごい、すごく上手、たぶんだけど。でも、私は1枚につき1~2秒見れば十分だ。一枚の絵を何秒程度見れば良いのだろうか。絵の前で立ち止まるときは、やはり腕は後ろで組んだ方がいいのだろうか?絵を見るときの呼吸及び、表情は?これであってる?そうだ。前を行く、カラフル大ぶりネックレスを付けた女性を参考にしよう。あのネックレスのセンスは恐らく芸大生だ。げ!!やばい、学芸員さんと目があった。きっと、ここで長く働く学芸員さんには、私がニセモノであることはバレている。恥!

「美術館での正解」を探し求めるうちに私はプチパニックになった。「早くここから出たい!」とさえ思い始めたが、この厳粛な雰囲気の中、一人だけ速足で回るのもなんだか失礼な気がする。苦悩の末に作品を生み出した(「さらば青春の光」のコントの影響で、私は画家は苦悩の末作品を生み出していると思いこんでいる。)であろう絵の作者たちに敬意を示すためにも、私を選んで券を譲ってくれた同僚に
「普段はあまり美術館には行かないんですが、今回こうして機会を頂き行ってみましたら、すごく良かったです!譲っていただきありがとうございます。」
という模範感想をお届けするためにも、私はこの美術館の雰囲気に迎合し、楽しみ、そして、感動しなくてはならない。でも、もう無理だ。ギブアップ。


 誰にもかけられていないプレッシャーに勝手に押しつぶされたストイックアスリートな私は足早に美術館を出た。そして、入口に戻り、ふと自分が、どこにも招待券を提示していないことに気が付いた。おかしい。後払い制なのか。それとも私が料金所を見落としていたのか。いや、そんなはずはない。この建物についてから、ごく自然な流れで、私は順路を進むことになったのだ。でも、だとしたら料金所はどこ?あわてて辺りを見回すと、最初に入ったお土産屋の一角に確かに、チケット売り場が存在していた。
 しまった!自分が無賃鑑賞をしでかしてしまったことに気付いた私は、またもやパニックになった。でも、一体どうして?普通に館内には入れたし、一度も止められることはなかった。きっと、美術館とは高尚な人々が集まるので、係の方も無賃鑑賞をする者が現れるという想定は一切ないのだろう。まさに「よもやよもやだ」。いやいや、いくらなんでも年に一人くらいは、そのようなふとどき者の現れることを想定して、入口付近を見張るとか、時には、さすまたで取り押さえる研修なんかも取り入れて、もっと警戒した方がいいんじゃないの。とも思ったが、無賃鑑賞した自分にそんなことを指摘する資格はない。
 はやる鼓動を抑えながら「すみません。料金はこちらでお支払いすれば良いでしょうか。」と係の方に声をかけた。係の方は、美術館で働く人として百点満点の穏やかな笑顔で、「はい。そうです。」と答え、私から招待券を受け取り「これは、二回分あるので、一回分お返ししますね。」と一回分だけをはさみで丁寧に切り取り、残りの券を返してくれた。そして、「楽しんでください。」とパンフレットを渡してくれた。

ぎゃふん。

 私は二つの意味で打ちのめされた。この受付の係の人にとって私は「これから美術館を巡る人」なのだ。せっかく、やっとの思いで、ぎりぎり不自然じゃない速度で美術館を抜け出してきたのに、この人の手前、このまま入口で引き返し帰路につくわけにはいかない。そして、私にはもう一回分の券も残されているらしい。今日以外の日に、もう一度、この美術館を訪れ、教養ある鑑賞者を演じないといけない。
 体がぼぅと熱くなってきたように感じた。やばい、このままでは、入口に設置させているサーモセンサーに引っかかってしまう。「ありがとうございます。」私は、うすら笑いを浮かべ、優しい女性からパンフレットを受け取り、再び順路の↓に添って進んだ。

 少し進んだところに、木製のおしゃれなベンチが3つほど並んでいた。よかった。このベンチで時間をつぶそう。そして、受付の女性に怪しまれない程度に時間をつぶしてから、帰ろう。腰かけたベンチは、美術館に置かれるにしてはシンプルなデザインだったが、木の温かみが感じられる素敵なベンチだった。すぐ隣には、植物が植えられており、私は何の根拠もなく「オリーブだ。」と思った。植物にも詳しくないし、何の確証もないのだが、これはオリーブだ。きっとそうだ。もし、万が一これがオリーブじゃなくても、オリーブだと言うことにしよう。そうだ、今度、部屋にオリーブを置こう。こんなに疲れた私を癒してくれる。寄り添ってくれる。オリーブを買おう。そう思いながら、100%の信頼でベンチの背もたれに体を預け、私はそっと目を閉じた。

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