「表現の不自由展・その後」についての自分の考えと答え

少女像の展示が再開されている(2019/10/13現在)。私は基本は表現や芸術は自由な精神上であるべきだと思う、ただ、この問題は興味を惹いたので考えてみたことを整理する。

※自分なりに調査し、まとめたが、情報の間違いもあるかもしれないので鵜呑みにはせぬよう。

今ここにある最低限の事実

正直、問題となっている日韓の従軍慰安婦問題の真偽や程度は色々な説があって、よくわからない。
そのうえで、今「事実」なのは、日本と韓国で事実や結論や根拠が分かれていることそれ自体だ。

それによって、
そういう認識である韓国側の人々は、その歴史を日本が認めないことに心を傷めているし、
逆にそういう認識である日本側の人々は、韓国が事実をねじまげていると思い腹を立てるのである。

どちらが真実かを今論じるつもりはない。これ以降は歴史的な史実がどうのこうのは置いとく。

ここで大事な事実は、上述した
>日本と韓国で事実や結論や根拠が分かれていることそれ自体
である。

少女像の事実

少女像は、実際に自国の歴史上おこった悲劇について、韓国の人が心を傷めた結果表現した芸術作品であること。この心の動きが事実である。
(人によっては故意に作った可能性云々と言いたいかもしれないが、それは心を傷めてる可能性を否定するものではないし、それらは今ここでの話では問題ではない。)

表現の自由の限界点について

表現の自由だからと言って、全くの自由でなく、規制されているものがある。

個人のプライバシーの侵害に当たるものや、個人の名誉を傷つける名誉棄損、全くの嘘の噂を流す風説の流布、放送禁止、教育上に不適切かどうか、治安の問題など、なんでもかんでも自由であるわけではない。というのが表現の自由との折り合いのようだ。

表現の自由とはもともとは、国が独裁となった時、独裁者の都合の悪いような国民の言論や表現を弾圧した歴史があるので、その独裁に対する自由のようだ。

「表現の不自由展・その後」の問題

あいちトリエンナーレ2019の出展の「表現の不自由展・その後」は、表現の自由であるにも関わらず、何らかの不当と思われる理由で規制されたものを集めたり、政治的に過剰に規制されたりで、本来の正当な表現の自由が奪われているのではないか、という問題提起や社会風刺を内包している。

ならば、少女像の展示については何が問題か?
最初に述べたように、韓国にとっては史実かもしれないが、日本にとっては史実ではない部分、ということである。

この少女像を、さも当たり前のように「日本国内の、しかも自治体が市民の税金によって公式に開催している展示」に出すと何が起きるか?
そう、あたかも韓国側の史実が事実ですよと言わんばかりの形になり、その史実を日本人に刷り込むことにもなりえる。と考える人も出てくる。(何度も言うが、どちらが真実かを今論じるつもりはない。)
日本の史実を信じていて、日本にそのような汚点は無い、と思っている日本人はきっと激昂するであろう。

つまり、「日本」に対する名誉棄損や刷り込みという教育問題になりえるのだ。そう、表現の自由の規制対象に引っかかりえるのだ。と私は考えた。

私の答え

(再三言うが、どちらの史実が真実かを論じるつもりはない。)
上述までをふまえたうえで、きっとその少女像は韓国内の展示であれば、芸術として問題なかったのであろう。

あいちトリエンナーレ2019は国際芸術祭なのだから国外の芸術があること自体はいいので、作品自体の出展は問題ない。
しかし、日本人への名誉棄損や刷り込みによる教育問題をはらんでいることを考慮すれば、日本国内でしかも市税などで少女像を展示する場合、せめて説明文にて、それらの誤解をあらかじめ解くような注釈、結果的に今の日韓で問題となっていること自体という事実を記載する必要があるように思う。(現地に行ってないので、実際にこれに類する注釈があるかは知らないが。)

たとえばだが、
「日本と韓国での史実の違いがある。~~」などの事情や背景を明記したうえで「そのうえでその歴史に心を傷めた韓国人の作った平和像」などのような注釈を入れる。なぜなら、それら全てこそが今の事実であるから。(韓国側からすると、自国の史実が史実と思ってるのだから押し付けたい気持ちはわかるが、それは逆に日本側も然りなわけで。)

韓国人作者が日本の謝罪しない態度に心を傷めるのも事実だし、日本人はその史実の押し付けによって名誉を傷つけられ心を傷めるのもまた事実なのである。どちらも自国の史実を信じていて、押し通そうとしているともいえるかもしれない。

真実を探るのはもちろん大事なことだけど、現時点において分からないような真実を、もし、もはやお互い都合の良いように解釈し合って押し付けようとしているのだとしたら、それはもう真実の探求でもなんでもない、大変に醜い。相互理解、解り合う気0っ。

まずはお互いに史実が違う、という今結果的にある真実を認め合わねば先に進まないのではないか。

(ただ、それによってもし、一方が嘘ばかり付き押し通そうとするのなら、それは統計的に信頼を失うし、そのなかで今回は真実というものがあっても信憑性にかけるというツケが回ってくるだろう。だからといって、普段信頼あるからたまの嘘が通るというのもまたおかしいが。)

そのうえで、国やもしかしたら何らかの陰謀を企てている権力者を恨むのは正当かもしれないが、そういう教育を受けざるをえなかった両国民に罪はなかろうと思う。もちろん作者が悪いわけではない。

まとめると、
史実が違う国同士においての芸術を相手国に持っていけば、国レベルの名誉棄損や教育上の刷り込み問題になるので、それらの差を相互理解するための架け橋のような展示方法が必要、だと私は思った。

これは語弊のある表現をあえて使うと、ある意味現地の宗教や思想や文化を尊重するようなことにも近いのではないかな。異文化交流の場合は、お互いの良さだけど、これは責任問題のようなところが、全然違うと言えば違うのだけど、何か、似てるところがあるように思う。

たとえば、仕事で上司とのやりとりや、男女間の揉め事で、記憶違いや言った言わなない問題がよくあるが、それも近い。
証拠がないのなら、今相手にとっては、それが真実と思っているのだと、大変難しいけど、公平な認識や尊重ができるのが国際社会での文明人ではなかろうか。そういった自分の真実を持ちつつ、相手の真実や、心的リアリティを尊重するべきというところに共通点があるように思う。(ちなみに私はなかなかできないので、努力はしている。)

もちろん、真実なんかどうでもいいと言いたいわけではなく、絶対的に探ったほうがいいと私は思う。現時点で真実が不明な場合の話である。

しかし、少なからず展示ができるという点では、かなり表現の自由があるのかな。私は昔のことはよくわからないが、国によっては展示自体だめってところもありそうだ。

最後に、このようなことを考えるきっかけとなった「表現の不自由展・その後」の展示と開催者に感謝する。


あとがき

国際的なことなので出来るだけ公平に書こうとしたが、あらためて推敲すると書き直しが多い。なので部分的に何度か編集した。多角的に公平な書き方ってのは難しいなと思った。

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