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どこみる五徳

0.はじめに

2022年12月20日正午、NHKからの発表が乃木坂のオタクを騒がせました。

久保史緒里、大河ドラマ出演決定!

私も度肝を抜かれました。
黄金世代1期生ですら、現役時代は11thシングル十福神が『花燃ゆ』にゲスト出演を僅かの時間果たしただけ。齋藤飛鳥さんの卒業を控え、新時代を呼び込むにふさわしいビックニュースは、朝の連続テレビ小説『舞いあがれ』に山下美月さんが出演していることと共に、大いに歓迎されました。

と同時に、こんなコメントが私のTwitterでは確認されました。
「歴史知らない」
「五徳って誰?」
「何した人なの?」

確かに、五徳という女性はそんなに有名ではありません。
織田信長の娘で徳川家康の息子に嫁いだというかなりのサラブレッドな血脈を持ちながら、B〇SARAとか〇双とかの歴史アクションゲームにはまず出演しておらず、歴史の番組で紹介されることも稀な存在です。
ということでこのnoteでは久保さんの演じる五徳がどんな人だったのか、何をした人だったのか、どんな運命をたどったのかを紹介し、事前に基礎知識を蓄えたうえで大河ドラマ『どうする家康』を視聴していただきたいと思っています。
つまりある程度ドラマのネタバレになるので、それが嫌な方は回れ右でお願いします。ページを覗いていただいただけでもありがとうございます。

1.五徳とは?

ここでは五徳のプロフィールと久保史緒里さんが演じるうえで見どころになりそうなところをあげていきたいと思います。

五徳(おごとく)
1559年  誕生
1560年  桶狭間の戦い(大河第一話)
1562年  清洲同盟(織田徳川が仲良くなる)
1567年  徳川信康に嫁ぐ①
1576年  登久姫が誕生②
1577年  国姫(熊姫)が誕生②
1579年  信康事件③

1580年  織田家に帰る
1600年  関ヶ原の戦い(徳川家に世話になる)
1636年  死去

五徳は織田信長の長女で徳姫という名前も知られています。
母親は生駒氏の娘、吉乃。
生駒というと乃木坂のファンからすれば生駒里奈さんですが、生駒さんのご先祖はこちらの生駒氏だと言われています。

ちなみに五徳が生きていた時代の人は「おごとく」と呼んでいたそうです。五徳は、ガスコンロにある、鍋を支える金物のことです。当時は囲炉裏で使われていました。将来の旦那さんを支えて欲しいってことなのでしょうか。
そして①~③で表した期間が五徳が徳川家にいた期間に起きた出来事でしょうか。同時に久保さんの演技が見られる期間ともいえます。

①「信康に嫁ぐ」に関しては当時8、9歳なので子役さんが演じる可能性も大いにあります。8、9歳役の久保さんが出てきたら大いに喜びましょう笑

②では17歳で母親になります。当時としては早いわけではないと思います。
この頃から久保さんもドラマに出てくるものと思われます。初の母親役でしょうから、また新しい演技を見せてくれるかもしれません。

そして③、五徳がキーパーソンとなる「信康事件」を迎えます。久保さんも重要な役柄となってきますので、この前後の回は推している皆さんは絶対に視聴したいですね。
ここでは章を変えて、少し詳しく解説していきましょう。

2.信康事件とは?

五徳と結婚することになる徳川信康を演じるのは乃木坂ファンには『もしイケ』やチョコラBBのCMでおなじみの細田佳央太さん。長男なのですが、江戸幕府の征夷大将軍にはなっていません。
結論から言うと信康は自害してしまったのですが、その経緯について書いていきたいと思います。登場する人物の後ろにある()では今回の大河ドラマ『どうする家康』で演じる方を紹介しています。

徳川家康(松本潤さん)の妻である築山殿・瀬名(有村架純さん)は今川義元(野村萬斎さん)の養女で、その後信康を生みます。ドラマの第一話で語られる桶狭間の戦いで今川義元は織田信長(岡田准一さん)に討たれる訳ですが、その仇の娘が自分の息子の嫁になるわけです。
当然、五徳と瀬名の仲は良くなかったようで、資料によっては家康や信長が嫁姑問題を仲裁に入ったとするものもあるようです。そのようなシーンもドラマの中であるでしょうか。

五徳が二人の娘を産んだ後は信康との仲も徐々に冷え込んでしまったようです。これは戦国時代が男子優先の社会だったということが大きいようです。女の子しかできない五徳の代わりに側室、新しい妻が瀬名によって用意されます。戦国時代では当たり前のことでも、当時20歳にも満たない五徳の心は揺れたことでしょう。

1579年、ついに耐えきれなくなった五徳は「12ヶ条の手紙」を、使者として父・信長の元へ行く徳川家の重臣・酒井忠次(大森南朋さん)に託します。手紙には信康との不仲の他、信康の荒れた性格や瀬名と信康が家康に対して謀反を企てていることなどが書かれていたとのことです。
忠次はそれを信長に渡し、信長から内容について問い詰められますが、言い訳することなくすべてを認めてしまいます。
これに関して信長は信康に死を命じたとも、家康に処分を任せるとしたとも言われています。瀬名について信長は何も言いませんでした。

忠次の報告を受けた家康は、家臣に瀬名の殺害を、信康にも切腹するように命じます。信康の死を受けて、五徳は娘2人を徳川家に置いたまま、翌1580年に織田家に帰ることになりました。

以上が現在「歴史」とされている説を大まかに説明したものです。
よく分かっていない点も多いので、ドラマの中で久保さんが五徳をどう演じていくのか楽しみな”事件”でもあります。

3.五徳、その後

五徳のその後から、信康事件より後にドラマに登場するか見てみましょう。

織田家に帰った後は現在の滋賀県、安土や近江八幡で過ごしました。1582年本能寺の変が起こり、父・信長だけでなく、兄・信忠を失った五徳はもう一人の兄・信雄のもとで生活します。

戦国時代によくあるケースなのですが再婚はしませんでした。有名な例として市(北川景子さん)は織田家によって滅んだ浅井長政(大貫勇輔さん)と死別した後、有力な家臣の柴田勝家(吉原光夫さん)と結婚します。
五徳は20代で政略結婚の可能性も十分にあったと思うのですが、それさえありません。信康の一件から敬遠されていたのか、もしくは彼女自身が拒否しつづけていたのか。

徳川家康と豊臣秀吉(ムロツヨシさん)の戦いである小牧・長久手の戦いでは信雄が家康と同盟を結ぶことになります。その後、信雄が秀吉と講和を結び、仲直りの証として、五徳は秀吉の治める京都に移り住みます。実質的な人質でした。

秀吉が亡くなり、1600年に関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、家康の息子・忠吉から1761石を貰っています。これは現在の価値で年収1億円以上。離婚しているとはいえ、徳川家の姫の母を丁寧に扱う姿勢が見受けられます。

1630年、70歳を超えた五徳ですが、判断能力ははっきりしていたようで、曾孫が生まれた際には、乳母<うば・育ての親>を選ぶようにお願いされています。しっかりしたおばあちゃんだったということでしょうか。

そして、1636年死去。家康並みに長生きした人生でした。

あるとすれば、小牧・長久手の戦いで織田と徳川の関係を表す人としての登場があるかもしれませんが、歴史上は信康事件以降の存在感は薄いので、久保さんの登場は期待せずにドラマ本編を楽しむことにしましょう。

ここまでお読みいただきありがとうございました。久保さんから歴史に興味が出て、大河ドラマを楽しんでいただければ幸いです。



Plus.謎多き信康事件【歴史が好きな方向け】

ここからは歴オタとしてのよしあきらです。
自分の考えを書いていきたいと思います。
この事件は謎ばっかりなので、とりあえず書き出してみます。

①五徳の手紙の影響力は?
②信長の指図はあったのか?
③忠次は信康をかばわなかったのはなぜか?
④家康が築山殿まで殺害したのはなぜか?
⑤信康家臣団の粛清がないのはなぜか?
⑥信康・築山殿死後すぐに神社等に祀られているのはなぜか?
⑦五徳が徳川家から嫌われていないのはなぜか?

①基本的に女性の権力がない時代で、五徳の手紙の内容も夫への不満が第一だっただろうに、そういう手紙を信長が鵜呑みにするはずがないと思う。信長が秀吉の正室・お寧の手紙を丁寧に返したという話があるぐらいなので、女性を邪険に扱わないという姿勢だけはあったようなのだが。

②個人的にこれはあったと思う。でなければ、家康は信康を廃嫡したり、寺に押し込めたりできる立場にあったのだろうし、何も切腹ということはないと思う。ただ家康が憧れている武田信玄が同じことやってるんだよなぁ…

③忠次の意識としては「家康の家臣」であって「徳川の家臣」ではないのだろう。三河武士は忠義者というが、家康自身も扱いは非常に難しかったと思う。信康が不出来な人物なら、清洲同盟の強化という家康の利益になるために平気で見捨てる。そんなこともありえたのではないか。

④女性に可能かどうか分からないが、武田密通説が事実ならこれは正室であろうと死を命じたこともありうる。女性に外交権はない時代なのだが、家臣の供述でも築山殿は政治に口出ししていたようなのでそれなりの意思は信康に反映できたのではないかと思っている。ただ、長篠・設楽原の戦いで武田が負けた後で、信康が自分も打ち破った武田に関心を持つのだろうか。

⑤本当に謎。一部の歴史家の方は家臣団分裂を唱えているが、有力な石川数正や平岩親吉が処罰されていないのが謎。他の家臣も一時出て行っても戻ってきたりその後大名になっているケースがある。というか信康不行状説でも謀反説でも処罰されて当然だと思うのだがない。

⑥信康が祀られた若宮八幡宮を石川数正が建てたのが1580年だそうだ。怨霊を恐れてということかもしれないが、信長も生きているし、甲州征伐からの行き帰りで近くを通っただろうに何の言及もない。本能寺の変の後なら理解できるのだが、早すぎやしないか?

⑦あんな告げ口をしたのに、1700石も貰っている。さらに信康の異母弟・忠吉からもらっているのだから、実質徳川家から貰っているに等しい。娘たちも信濃の名門・小笠原家や本多忠勝の息子に嫁いでいるのだから待遇はそれなりと言える。家康は執念深いともいえる性格であるはずなのに、自分の息子の死の原因になった姫に対して、かなり温情をかけている。

あくまで超仮説であるが、自説を述べたいと思う。
信長はこのころ急激に家臣団の粛清を始める。荒木・別所・松永らの離反も相次ぎ精神的には不安定な時期でもあっただろう。それでも本願寺を下すなど天下統一へ邁進していく姿勢に変わりはなかったはずだ。次は武田か毛利、そういう考えは信長だけでなく、側近や家臣団も共有していたはずだ。
そんな時、五徳の手紙が届く。信長は呆れていたのだろうが、家臣はそう捉えなかったはずだ。織田・徳川の仲がこじれれば、徳川は終わり。
そして織田家中の何者かが忠次に囁いたのではないだろうか。
「”適切に”対処されますように」と。
当然、家康は忖度する。もはや同盟者ではない。こちらはせいぜい三河遠江の大名なのに対し信長は畿内一円に覇を唱えている。
そして家康は信康を切腹させるだけでなく”気を利かせて”築山殿を死に追いやったのではないだろうか。
信康の死は織田家にもメリットがある。後継者候補が一人減るということだ。このままでは徳川が織田の一門として発言権を持つ可能性すらある。秀吉も信長四男を羽柴秀勝として養子に迎えた。
①~⑦を違和感なく解釈するには、忖度の中で生まれた悲劇と考えるのがよいのではないだろうか。戦国時代を見ていると何もそこまで、ということがよくある。信長も家康の行動を意外に見つめていたのかもしれない。

これ以上続けていると本編より長くなってしまうので、ここで終わりたいと思います。読んでいただきありがとうございました。

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