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ドラマ「俺の家の話」【第5話感想】時間を悔やむ反抗期と、時間を取り戻す家族旅行

第5話は、苦しみ葛藤する寿限無(桐谷健太)が描かれた回だった。
過ぎた時間を“悔やんで”反抗期を迎える寿限無と、過去の時間を“取り戻す”ための家族旅行に挑戦する寿一(長瀬智也)という“2人の対比”が鮮やかだったので、そのあたりを中心に書きまとめます。

※過去回の感想はこちらに格納↓


時間は取り返しがつかない

前週の第4話の感想記事で私は最後、こうした文章で締め括った。転載する。

くしくも、ふざけたイベントタイトルは、今回勃発した寿三郎問題への“返答”を暗示していたのである。
寿限無にだって感情がある。長い歴史がある。養子だから我慢してきた事も沢山沢山あったのだ。つまり「子供だってNo」なのである。
家族だからこそ、許せない事がある。

さあ寿限無がどう出るか?
どんな大蛇が鐘の中から登場するのかは、それは来週に続くようである。(おわり)

「鐘の中から恐ろしい大蛇が登場するぞ」と思わせぶりに予言をしたが、実際、念仏が唱えられて重い鐘がゆっくりとあがったとき、中から出てきたのは「反抗期のヤンキー」だった。(苦笑)

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演目通り、踊り子は“化け物”へと変幻してしまった。
寿限無はこの25年間、稽古熱心に過ごしてきたからお能以外の知識が足りず、子供の頃の古い記憶に頼るしかないので“昭和風な”カルチャーでグレる。
ラジカセ・デスメタル爆音、ファミコン徹夜、立て膝・味噌汁片手飲み、出身中学の確認、リーゼント・グラサン、ボンタン・短ラン、がんがんやってるゲームもドッチボール以前の元祖のほうの熱血硬派くにおくん。(これって、ちょうどSMAP中居君がバラエティでよく演じるヤンキーと時代感覚は同じくらいだよと説明したいが、スマスマもとっくに終わった2021年にその説明だと余計伝わりにくそうだ)

見かねた寿一は「いつまでもガタガタ言ってんじゃねえぞこの野郎」と、これも“昭和風な”父親か先生のように、裸で(本音で)ぶつかってこいよと寿限無をプロレスのリングに引きずりあげて、不満や怒りを吐き出させようとする。
こういうシーンって、21世紀的には流行らないし、汗臭いし、何かのハラスメントの領域だし、ホモソーシャルな面も垣間見えるけれど、でも、長瀬智也にはほんとに心底よく似合う。感動できる。
あーだこーだと誰かに突っ込まれたところで「細かいことはよくわかんねえけどよ」と跳ね返す説得力があり、器が大きくて熱くて大胆で。「やめろよ相手は素人だろ」と止めにはいる先輩後輩のプロレスラーたちに、「ただの兄弟げんかですから」とさらりと言って返すところも感動的だ。

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そして寿限無は、溜まりに溜まった葛藤を寿一にぶつけて吐露する。「ずっとずっと、血がつながってない俺じゃ駄目だからどうにかしようと支えてきたのに、・・・俺でも良かったんじゃねえかよ」ボロボロと寿限無が泣きながら叫ぶ。寿限無は人生の長時間すべてをお能と観山家のために捧げてきたのに、それが180度ひっくり返されて、歩いてきた時間がすべて無意味だったのかと感じてしまっていて、それを独りで抱えきれなくて溺れている。過ぎた時間は戻らないから。時間はとりかえしがつかないから。

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演目「道成寺」の踊り子は、積年の恨みから蛇へと変幻し、自分の身ごと周りを炎で焼き尽くしてから川に身を投げてしまう。寿限無もまさに今がそうだ。やれもしない反抗期を演じて当たり散らそうとしたところで自分自身を苦しめてばかりで、いずれは川に身を投げるだろう。そうなったらまさにとりかえしがつかないのだが、こうして“苦しみを吐露させてやること”はできても、過ぎた時間は“巻き戻して返却”してはやれない。

時間を取り戻す挑戦

いや、しかしだ。
しかし、寿一が今やろうとしていることは、“時間を取り戻す”ことへの挑戦
だ。

子供の頃にたった一度だけ行ったハワイへの家族旅行。あの時しか親父と家族が一緒に映って笑ってる写真なんて残ってないし、何十年も前のあの時が観山家の幸せのピークだなんてさみしい。あのハワイ旅行を越える家族旅行を、寿三郎が生きているうちに実現するのが“寿一の夢”になった。寿一は熱い思いをぶつけ、ひとりずつをその気にさせていき、ついに常磐ハワイアンセンターへの家族旅行を実現にこぎつける。

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考えてみれば、寿三郎のこの間の“行動”も、“時間を取り戻そう”としている活動にもみえる。
寿三郎はさくらに勧められて「エンディングノート」を書きつらねているが、エンディングノートというものの機能にはそもそもそういう目的もあるのだろう。
「やりたかったけど、まだやってなかったこと」を生きているうちに叶える事もシンプルな目標設定だけど、「人生で歩んできた道に、置き忘れた物がずっと気になっていて、死んだらもう取りにいけないので、最後に自分で戻って掃除しにいく」といった事を洗いだす機会になるのも“エンディングノートの在り方”の一面なのだろう。それは寿三郎の言葉でいうと“人生の畳み方”とも呼べる。

とはいえ、その頃のまま時間が止まっている場所へ戻れるわけではないので、あちら側もこちらと同じように平等に時を刻んでいる。だから、掃除をしにいった時に、思いもよらない形に変化していたり消滅している可能性もある。
それならいっそ近づかないで、置き忘れたままでいたほうが良い事もある。そのリスクを充分に覚悟しながら、それでも“掃除しにいく”のなら、それは「人生の畳み方」だ。

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寿三郎は亡くなるか?

ところで寿三郎は、このドラマの最終回に亡くなるだろうか?
私はそろそろそれが気になり始めている。
観山家に愛着がわいてきた視聴者としてはそれはとても悲しい出来事だが、でも「介護」とは、本質的には“そういう事”だとも言えるのに、重いドラマにはしたくないからといって、奇跡的な回復を描いたりするだろうか?
長生きして欲しい気持ちとともに、今回の題材からしてあまりにフィクションすぎると“しらけて”しまう気もする。

その議論のためのヒントとして、脚本家のクドカンが、初回放送前に応えたインタビューから一部を引用する。

「もう、現実の家族はいっしょにご飯も食べないし、テレビを観る人も、今は誰かといっしょに観ないですよね。みんな一人で好きな時間に観る時代だけど、だけどテレビの中で見る家族は、みんなでご飯を食べているし、みんなでテレビを観ている。
せめて、テレビの中の世界はこうだといいなと思って
作っています。」

せめてテレビの中の世界くらいは“夢がみたい”とクドカンは言ったのだった。それは希望が込められたメッセージだ。たしかに、とも思う。

もし「リアリティがない」となにもかも切り捨てるなら、そもそも今回の記事で書いてきたような寿一の「俺を殴れ」というアプローチにも21世紀のリアリティなんて全然なくて、でも“せめてテレビの中の世界ではそうであって欲しい”と願って書いた。

プロレスだって、能楽だって、今が決して人気のピークではないが、時を戻せるかもしれない。反抗期なのに、揃っての朝食にも家族旅行にもきちんと顔を出すヤンキーも高校生も実際にはいないかもしれないが、この観山家の世界にはたしかにいるし、現実だってそうであって欲しい。

つまりテレビドラマという存在とは、この“フィクションとリアリティのあいだのバランス”を絶妙に調整することによって、ぼくら視聴者に“明日を生きる元気”を分け与えてくれるのである。

(おわり)

※過去の回の感想記事はこちら↓


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