【小説】兵士怪談 第一夜
見張り番をする兵士たちが暇つぶしに怪談話をする話。第三夜で終わります。
「今日も特に何も起きなさそうだなぁ」
欠伸をしつつ一人の兵士が呟いた。周囲は寝静まって時折フクロウの鳴き声が聞こえるだけだ。見張り部屋には赤々と暖炉の炎が燃えている。
「逆に何かあったほうが困るだろうよ」
ため息交じりに傍らの兵士が返した。兜の隙間から白髪混じりの髪がのぞいている。彼はこの中でも一番年上で、もう何十年もこの砦に務めていた。
「ま、でも先輩の言うこともわからんでもないですけどね。確かに暇だし」
向かいに座っていた兵士が返した。その翡翠にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。彼はこの中でも兵士歴が浅い新人だった。
「夜の番なんてそんなものだろう」
老齢の兵士は呆れ果てたが、もう一人は違った。
「だろだろ! やっぱり何か面白い話でもしようぜ!」
身を乗り出して先輩兵士は向かいの彼の手を掴んだ。あまりの勢いに新人は若干腰を引いている。
「面白い話をすると言ったって何を話すというのかね? ここ最近何か事件があった訳でもあるまいし」
老いぼれた兵士は深々とため息をつくと言った。
「そりゃそうですけど、でも何かあるでしょう? 例えばこの前ジョンが花屋の娘に振られた話とか」
「それは二週間前の話の上にお前たち若いもんが散々からかっていたじゃないか。今さら何を語ることがあるというのかね」
「そういっちゃそうですけど……。おい新人なんかないのかよ」
老兵の言葉に言葉を詰まらせた先輩兵士は唐突に新人へ話を振った。急に話を振られた彼は顎に手をあてて考えこむ。
「……じゃあ怪談とかどうですか? 俺一ついい話ありますけど」
しばらく逡巡した後、新人はそう言った。老兵は顔をしかめる。
「いや私はその手の話題は何も持ってないぞ」
「いいじゃないですか! 面白そうだし!」
しかし渋る老兵とは対照的に先輩兵士はすっかり乗り気になってしまった。
「だがなお前は何か持っているのか? 話一つではあまり時間はつぶせないだろう」
「持ってないですけど?」
即座に返ってきた答えに老兵は嘆息したそのときだった。
「……じゃあ俺も一つもっているのでそれを話しますよ」
三人が一斉に振り返るとそこには一人の若い兵士が立っていた。この兵士も新入りだったと記憶している。
ただ彼は寡黙な男でこのような話に乗るような印象はなかったのだが。
老兵が内心驚愕していると先輩兵士が突っかかった。
「おい、お前どこ行っていたんだよ。休憩にしては長すぎやしねえか?」
「……ちょっと野暮用で」
目も合わさずに寡黙な彼はぼそぼそと答えた。
「ああ”? なんか怪しいな。どっかで女連れ込んでいたんじゃねえのか? てめえは顔がいいからな」
「ま、まあまあ。そんなに怒らないでくださいよ。女としけこんでんならもっと遅くなるはずでしょうしさ」
慌ててよく喋るほうの新人が二人の間に割り込み先輩兵士を宥める。
「すみません」
無口な彼は小さく会釈するとおしゃべりな新人の隣に座った。老兵はその様子をじっと眺めていた。視線に気づいた二人が片眉を上げる。
「どうしたんですか? そんなに見つめて。なんか俺の顔についてます? あっ、それともこっち?」
おしゃべりのほうが無口な新入りの肩に腕を回すとぐいっと引き寄せて彼の顔を指差した。
「いや、お前たちいつの間にそんなに仲良くなったのかと思ってな」
先輩兵士にいちゃもんをつけられていたときにも一瞬目配せを交わしていたし、現に今も距離が近い。この二人が特段仲良くしていることは聞かなかったから、意外だったのだ。
「ああたしかに。お前らそんなに仲良かったか?」
先輩兵士も首をかしげる。
二人の言葉に新人たちは目を瞬かせた。が、すぐさま無口なほうは真顔に戻り、おしゃべりなほうはにっこりと笑みを作る。
「いや新人同士仲良くしようと思いましてね。あっもしかして先輩、コイツと仲良くしていたから寂しくなっちゃいました? 心配いりませんよ。俺、先輩のことも好きですからね。なんだったらハグでもしましょうか」
「いやなんで野郎と抱き合わなきゃいけないんだよ。やめろ!」
ふざけて大きく腕を広げるおしゃべりな新人に、先輩兵士は心底嫌がって距離をとった。
「じゃ、大先輩がします?」
くるりとこちらをむいて、彼が腕を広げてみせる。老兵は静かに首を振った。
「いや私も男と抱き合う趣味はないんでね、遠慮しておくよ。ところでその怖い話とやらを話さないのかね?」
「ええーお二人とも冷たいですねえ」
大げさに肩を落とした後、不意に彼は笑みを消した。
「じゃ、早速話しましょうか。とは言っても、これは怖い話とよんでいいのかわからない、ちょっと不思議な話になるんですけどね」
「はあ? 怖い話じゃないならつまらねえだろ」
口をとがらせる先輩兵士に彼はにやりと笑った。
「ま、本当に怖い話はコイツに任せますよ。きっと夜も眠れなくなるような恐ろしい話をしてくれるはずなんで」
「ちょっと、変に期待を吊り上げないでくださいよ」
無口な新兵は咎めるように言ったが、彼は軽く手を振っただけであった。
「そういうことなんでさっさと話しましょうかね。これは少し前の話なんですけど――」
ジジと炎が揺れる。彼はゆっくりと話しだした。
俺、ここに兵士としてくるまでは傭兵やっていたんですけどね。それで何度か戦場に駆り出されたこともあったんですよ。
「はあ!? お前戦地帰りだったのかよ!?」
ぎょっとして先輩兵士が声を上げる。老兵も声は上げることこそしなかったが、目を大きく見開いた。
この国は長年大きな戦が起こっていないため、戦地に行った者など見たことがない。まあ他の国、特に山を挟んだ隣国などは戦争好きの軍事国家として有名だから各国を放浪する傭兵ならば行ったことがあるのだろうか。
「なんで戦地まで行った奴がこんな辺鄙なところにきたんだよ」
老兵も心の中で先輩兵士に同意した。戦場帰りならばもっと都に近いところに行けただろうし、ここは国境境にある要所の砦とはいえ、険しい山に隔てられて隣国から攻めてくることもない。平和といえば聞こえは良いが、変化のない日々が流れる辺境の田舎など酷くつまらないだろう。
しかしおしゃべりな新人は緩く笑みを浮かべて言った。
「いやいや、むしろこのくらい何もないほうがいいんですよ。戦場はうるさすぎますからね。おまけに俺たち傭兵は薄給だし」
あの国の奴らは危険なところは俺たちに任せるくせに金は渋るんですからね、全く割に合いませんよと芝居がかった動作で彼はやれやれと首を振った。
「お前のことはわかったから早く続き言えよ」
先輩兵士がせっつく。彼はしょうがないなとでも言いたげな顔で先輩兵士を見やり、再び口を開いた。
ええ、早く続きを知りたい先輩のために話しましょうとも。まあそんなこんなで俺はいろいろ戦場を巡ったわけなんですけどね、その日はかなり酷い戦いになりました。
おしゃべりな新人はふっと遠い目を向ける。その顔がいつもの明るい表情ではなく、やけに儚げな表情で老兵は思わず息をのんだ。
戦地帰りの者はどこか変わってしまうというがこの新人もそうなのだろうか。見てもいない戦場の凄惨さの一片に触れた気がした。
が、たじろぐ老兵に一瞥もくれることなく、彼は続ける。
味方も敵もどちらもかなり死んでね。土まみれの汚い野戦病院に入りきらないほど怪我人が出ました。周りなんて死んでいるんだか生きているんだかわからない体たちが転がっているんです。控えめに言って地獄でしたよ。
でも運がいいのか悪いのか濃い霧が出てきましてね、戦いどころじゃなくなっちゃったもんで、両軍とも引いて一旦休戦状態になったんです。
「お前はどうだったんだよ。無事だったのか?」
「えっ先輩心配してくれるんですか? やっさしいですねえ」
感激の涙を拭う振りまでしてみせて、おしゃべりな新人はけらけらと笑った。
「心配した俺が馬鹿だったな……」
死んだ魚のような目で先輩兵士はおしゃべりな新人を見やった。その様子を見て彼はさらに手を叩いて笑う。そして笑みを浮かべながら続きを話し始めた。
俺は幸運なことに怪我なんてほとんどしていませんでしたよ。
で、その次の朝のことでした。急に小便行きたくなっていつもより早く目が覚めたんですよね。まだ辺り一面は濃い霧で覆われていてほとんど見えませんでした。
「こぉーのくらいまでいかないと、顔も認識できないんですよ」
突然鼻先が触れあうくらいまで距離を詰められて、老兵はぎょっと顔を引いた。
「いきなり何をするんだ、お前は」
「いやあ大先輩にもどれだけ深い霧だったのか分かってもらいたくて。ただ聞いているだけでは退屈でしょう?」
小首をかしげてのたまうが冗談ではない。老いぼれの心臓を無駄に働かせて何が楽しいのか。
「はあ……お前はふざけたいだけか?」
「いえいえ、ちゃんと話しますって。だからそんなに怒らないでくださいよ」
老兵の冷ややかな視線も気にする素振りもなく彼は笑う。老兵が咳払いを一つすると彼は笑みをひっこめ続きを話し始めた。
ちょっと森に入ったところで用を足して、さて戻ろうと思ったんですけどね、ふと急に周りが明るくなりましてね。いえ、明るくなったといっても相変わらず霧が立ち込めているからただ真っ暗から真っ白になっただけなんですけど。
そのとき俺は気がつきました。遠くのほうに誰かが立っていることに。今振り返ってみると、一歩先の物の輪郭すらぼやけてしまうような状態だったので、普通人影なんてよほど近くなきゃ気がつくはずないんですよね。
でもなぜだかその人影ははっきりとわかったんです。
傍らの先輩兵士が唾を飲み込む音が聞こえた。おしゃべりな新人の顔にはいつものおちゃらけた雰囲気など欠片もない。三人はただ彼の言葉を待った。
最初は敵なんじゃないかって警戒しました。腰の剣に手をやりながら一歩ずつ近寄っていったんです。
だけどその影は指先一つ動かす素振りも見えない。後一歩踏み込めば剣の間合いに入る、そのときに俺ははっとしました。その人影がつけている剣の鞘の飾りに見覚えがあったんです。――それは俺の軍の小隊長でした。
「なんだよ、味方じゃねえか」
先輩兵士が口をとがらせたが、おしゃべりな新人は視線を一度よこしただけだった。
まあ待ってください。まだこの話には続きがあるんですから。
それで正体がわかった俺は胸をなで下ろして小隊長に話しかけました。
『一体こんなところで何をしているんですか? 安心してくださいよ、こんな霧じゃ奴らだって攻め込めません。さあ帰りましょう。まだやることはいっぱいありますよ。昨日の被害だって甚大なんですから』
いつものように声をかけたんですけどね、小隊長は何も返しませんでした。小隊長は生真面目な人で俺がどれほどくだらない話を振っても必ず一言は返してくれるんですけど、そのときは何の反応もなかったんです。
俺は変だなとは思ったんですが、昨日は激戦だったし疲れているのかなと思ってもう一度声をかけました。
『あの、小隊長聞いてます? 戻りましょうよ。そんなところに突っ立ってたって意味ないですよ』
でもやっぱり顔を向けることすらしない。ただずっと敵陣の方向を見つめているだけなんです。
表情は霧のせいでよく見えませんでしたけど、顎が盛り上がるほど唇をかみしめてじっと向こうを見つめているのは分かりました。
何度か呼びかけても動く気配すら感じなかったものですから、俺はだんだん腹がたってきちゃって、もう俺だけ帰ることにしたんです。
『はあ、わかりました。もういいですよ。そんなに気がかりならそこにずっと突っ立っていればいいんです。俺は帰りますからね』
そう言い捨てて俺は陣地に戻りました。
で、陣地にいた一人に小隊長があっちでずっと突っ立っているんだ、あんなところで見張りしても意味ないのにさと愚痴をこぼしたんです。ソイツは震えた声で聞き返しました。お前本当に小隊長を見たのかって。俺は頷きました。
だって、腕を伸ばせば届く距離まで近づいていたんですよ。鞘の模様が見えるくらいまで。そうしたらソイツは無言で俺の腕を掴むと野戦病院のほうまで引っ張っていったんです。
『これを見ろ』
そこには小隊長が横たわっていました。ところどころに包帯が巻かれていて血が滲んでいるそんな状態で。
これは助からないなと一目でわかりました。いや、すでに体は冷たくなっていましたが。
『昨日の戦いが終わったときには意識すらない状態で運ばれてきたんだ。息を引き取ったのは昨日の真夜中だ。……だから今朝お前が小隊長を見たなんてことはあり得るはずがないんだよ』
俺はそんなことはないと思いました。だって確かに見たんです。小隊長の姿を。血と埃にまみれた鎧も端が少し欠けた鞘の装飾も。寸分違わないそれをたしかにこの目で見たというのに。
「その後急いで小隊長の場所まで行ったんですけど、誰もいなかったんです。ただ、小隊長が立っていた場所は草が倒れてへこんでいました。まるで直前までそこに誰かが立っていたような跡がね」
おしゃべりな新人はふっと息を吐いた。
「小隊長は俺がいた隊に一人いるだけだったんで、あの飾りを他の人のものと見間違えるはずがないんです。それに背格好も同じでしたしね。でもそうするとつじつまが合わない。誰かが死んだ小隊長の鎧をわざわざ借りて濃霧の中一人立っていたというのも意味がわかりませんし、第一そんなことしたら野戦病院にいた誰かが気づくはずなんです」
翡翠の目が伏せられる。
「だから今でも謎なんですよ。あのとき俺が見たのはなんだったのかってね」
その場は静まり返っていた。火のはぜる音だけが響いている。
「何がちょっと不思議な話だよ! 立派な怖い話じゃねえか!」
静寂を振り払うように先輩兵士が大声を上げた。おしゃべりな新人はその剣幕に肩をすくめて答える。
「俺はあいにく幽霊なんて信じないので。ただこれだけは説明できない事象だったんですよ。戦場だと精神がおかしくなって幻覚を見るとか、まあそんな話は耳にしますが、俺は少なくともまだまともだったはずなんです。記憶だって朝飯の果物を何個とったかは忘れても先輩たちの顔はちゃんと覚えてますしね」
「もしかしてお前の仕業か? この前一つ俺の果物が足りていなかったのは」
青筋を立てる先輩兵士に彼は舌をだした。
「いやーどうでしたっけ? 忘れちゃったのでわからないですねー」
「この野郎……」
今すぐ胸ぐらをつかみかかりそうな先輩兵士を押しとどめたのは別の青年の声だった。
「あの、俺の話はじめてもいいですか」
感情の読めない深緑が二人を見つめていた。
「あ、ああ。すまないな。こら、お前たちもくだらないことで喧嘩するんじゃない」
老兵も戸惑いながらも二人の仲裁に入った。
「はーい。すみませーん」
「いや、元はといえばコイツが……」
「その話は後でやれ。ほらお前の席はここだ」
老兵はまだ何か言いたげな先輩兵士の肩を掴むと、やや強引に自身の隣に座らせた。
「ごたついてしまってすまなかったな。さあ話をしてくれ」
「ありがとうございます」
目だけで礼を伝えた無口な新入りはぽつりぽつりと話しだした。
これは俺の子供の頃の話なんですけど、実は俺、孤児院出身なんです。
「は!? お前孤児院育ちだったのかよ!?」
老兵も思わず無口な新入りの顔を見た。その整った顔はやはり真顔のままだ。そこには憐憫の情など抱いてほしくないとでもいうかのような拒絶を感じる。
見た目以上に新人二人ともなかなか苦労してきたのだなと老兵は思った。これから二人を見る目が変わりそうだ。
事情を知らなかった先輩兵士は気まずそうに頭をかいたが、彼は気にかける様子もなく、一つ頷いただけで視線すらよこさない。
「続けていいですか」
「あ、ああ、構わないぞ」
愛想は悪いが、先程のこともあるので老兵は聞き役に徹することにした。
俺の孤児院では年長のほうになると年少者たちの世話も任されるようになるんです。その日も俺は同年代の女の子と一緒に玩具の片付けを任されました。
小さいと活力もすごくて、四方八方に玩具がとっちらかるんです。俺と彼女で手分けして片付けていたんですが、一つ球が転がって部屋を出ていくのが見えました。
『ごめん、悪いんだけど、あれとってきてくれる? 私ここで他の片づけとくから』
『わかった』
俺はその球を追いかけて部屋を出ました。球はてんてん、てんてんと跳ねながら転がっていきます。すぐ捕まえられると思ったのですが思いのほか速くて。
数え切れないほどの角を曲がり、廊下を走り、階段を下り、ようやく球に追いついたのは薄暗い地下へと続く階段の前でした。俺の孤児院は昔からあったとある建物をそのまま譲り受けていたものですから、建物の構造が複雑で何年も暮らしている子でも時折迷うことがあるくらいなんです。
そこでようやっと俺は、知らず知らずのうちに全くきたことがない場所に迷い込んだことに気が付きました。立ちすくんでいるうちに、球はころころと階段の方へと向かっていきます。てん、てんと飛び跳ねながら階段を降りて行くんです。誘うようにゆっくりと。
俺もここで呆然としている暇はないと思って階段を駆け下りました。駆け下りていくとき、妙に生ぬるい空気がまとわりついたのを覚えています。薄暗い階段を下っていき、やがてついに球は止まりました。――誰かのつま先の前で。
壁を蜘蛛がつたっていく。だがそれにも気がつかずに、老兵は彼の話に聞き入っていた。
そこで俺は初めて目の前に誰かが立っているのだとわかったんです。俺が顔を上げると見知らぬ男の子が立っていました。やせ細って、血の気のない肌に目だけが異様に大きい子でした。
『足元にあるその球拾ってくれない? それ、玩具箱に戻さなきゃいけないんだ』
『あそぼ』
ニタニタと薄笑いを浮かべて彼は言いました。
『でももう遊びの時間は終わったし、早くしないとごはんの時間に遅れちゃうだろ。また明日遊んでやるから』
『あそぼうよ。みんなだってあそびたがっているよ』
『みんな? お前しかいないだろ』
俺は改めて部屋を見渡してみました。子供二十人はゆうに入る広い空間でしたが、男の子の後ろにある巨大な鏡以外には何もないのです。
ただ隅のほうに苔らしき緑がところどころ存在しているだけでした。その鏡もよほど放置されていたのか、薄っすらと埃をかぶっています。
俺はその子が何らかのごっこ遊びの設定で話しているのかと思いました。
『ふざけてないでさっさと帰るぞ。遊びの時間は終わったんだから』
『ふざけてないよ。みんないるじゃない。ほら』
彼はくるりと鏡のほうを指差しました。俺は鏡に視線を移して――凍りつきました。
そこにはずらりと鏡一面にたくさんの子供たちが並んでいるんです。皆、彼と同じように薄笑いを浮かべてこちらを見つめていました。振り返っても誰もいません。
でも鏡の中には依然としているんです。流石に俺もぞっとして一歩後ずさりました。
『頼むからその球返してくれよ。俺は遊んでいる暇ないんだ』
『やだ。あそぼ』
俺が一歩後ずされば彼も一歩近づきます。二、三歩下がったところでふと思いました。鏡の中の子供たちは俺の後ろに立っているんです。俺が後ろに下がれば、彼らとの距離が近づいてしまうんじゃないかと。
俺は鏡に目をやり、思わず硬直してしまいました。鏡の中の子供たちとの距離がおかしいのです。いくら俺が下がってきたとしても彼らとはまだ距離があるはずなのに、鏡の中の彼らはもう数歩近づけば俺に触れそうなほど近くまで来ていました。
俺は極度の混乱と恐怖に陥ってしまって、今すぐ踵を返して逃げ出そうとしたんです。
が、体は強張ったままなんです。暑くないのに喉は乾ききっていました。目の前の男の子も、鏡の中の彼らも、不気味な笑みを貼り付けたままこちらから目を離しません。
俺は頭を必死に働かせ続けました。何か、何かあるはずだと。
そしてもしや、とある考えが頭に浮かびました。
片足をゆっくりと下げます。目の前の男の子は一歩踏み出します。
ですが俺はそれには目を向けず、鏡を睨みつけていました。彼らは俺が足を下げても動きません。
やはり気のせいかと一瞬視線をそらした瞬間でした。
視界の端で何かがうごめきました。はっと鏡を見ると、やはり俺のほうに近づいているんです。俺が視線を外したら、彼らはこちらに近づいてくる。俺は確信しました。
『ねえ、なんであそんでくれないの?』
不意に男の子がいらだったような声をあげました。谷型の口元が一気に山型へと変化します。
『もしかしてにげる気? にがさないよ』
男の子は急にこちらへ早足で距離を詰めてきました。俺は駆け出したかったのですが、後ろの彼らも気になります。
そうこうしているうちに、彼はもう目の前にきていました。青白い指先が俺の体に触れる、その時でした。
『ちょっと何やっているの! こんなところまできて。ずいぶん探しちゃったじゃない。もうすぐごはんの時間なのよ!』
弾かれたように振り向くと腰に手をあてて睨みつける彼女とこちらを窺っているマザー、――ああ、俺たち孤児を世話してくれる女性なんですけど――その二人が立っていました。
『珍しいわね。あなたが時間を破ってまで遊ぶなんて』
『いや、違って、あの男の子たちが』
『男の子? そんな子どこにいるのよ。片づけを放って遊んでいただけじゃなく言い訳までするの?』
慌てて男の子たちがいたほうを見ましたが、そこには球がぽつんと転がっているだけでした。あの鏡もひび割れ、真っ白になっていて何も映していません。
『いや、だってたしかにそこに……』
『大丈夫? 顔色が悪いようだけど』
『早く出ましょ、こんなホコリっぽい場所。ほら、さっさとその球拾ってよ!』
マザーからは心配され、完全にお冠な彼女からは背中を押されて俺はその場所を後にしました。
「後から聞いた話ですが、俺がいた場所は昔病気などで亡くなった子供たちを置いておく死体安置所だったそうです」
誰も言葉を発しなかった。が、無口な新入りは周囲の様子を気にすることなく言葉を続ける。
「考えてみれば俺、孤児院の兄弟たち全員の顔を覚えているはずなのに彼らの顔は誰一人として見たことがなかったんです。だから俺と暮らしていた孤児院にいた子たちではないと思うんですけど、結局あれは何だったのか今でも分からずじまいなんです」
「それっきりその場所には行かなかったのか?」
老兵が尋ねると彼は頷いた。
「ええ。そもそもその部屋はほとんど使われなかった上に鏡もひび割れていましたから、危ないということで入口を土で埋めてしまったんです」
「っていうかその鏡はなんでその場所にあったんだよ」
「さあ。俺は何も聞いていないので」
先輩兵士の問いに彼はぼそぼそと答えた。相変わらず感情のわからない顔で床を見つめている。
「あーもう誰だよ怖い話しようって言った奴! これから寝られなくなるだろ!」
「でも暇だからなんか話せって振ったのは先輩のほうじゃないですか。了承したのも先輩ですし」
「確かにそうだけどな、怖い話じゃなく不思議な話といっておきながら、思いっきり怖い話をしたお前は有罪だ」
「ちょっと先輩! いくらなんでも横暴すぎやしません? どこの暴君ですか」
「うるせえ! 先輩の言うことは絶対なんだよ!」
先輩兵士が大げさなほど大きな声を上げた。それにおしゃべりな新人が応酬する。
普段であれば眉をひそめるところだが、今は注意しようとは思わなかった。むしろ感謝したいくらいだ。場を支配していた緊張がほどけ、一気に暖かみを帯びた気がする。
じゃれ合う彼らを見守っていると、唐突に無口な新入りが大きなため息をついた。全員の視線が彼に集中する。
「いつまでくだらないことやっているんですか。もう番の時間は終わったので俺は先に帰りますよ」
外を見れば空が白み始めていた。
「そうだな。もう私も帰るとするか」
「じゃ、俺も終わったんで帰りますね。お疲れ様でした」
あれほど騒いでいたおしゃべりな新人もあっさりと立ち上がる。
「えっこの状況で帰れんのかよ」
慌てたのは先輩兵士だ。うろたえる彼を尻目に三人は扉へと向かう。と、不意におしゃべりな新人が足を止めて振り返った。
「そういえば先輩、見張りの番がつまらないって嘆いていましたよね」
「そうだけど?」
その言葉に彼は口角を吊り上げる。
「それなら大丈夫ですよ。近いうちに賑やかな夜が訪れますから」
「はあ? それどういう意味だよ。なんか祭りでもあんのか?」
「俺は先に失礼しますねー」
先輩兵士の言葉には答えず、彼は手を振って去っていった。無口な新入りもそれに続き、さっさと出ていく。
「私ももう行く。……寝るときは誰か親しい奴にでも付き添ってもらえよ。私は付き合わんからな」
「ちょっ、ええ!? 待ってくださいよ」
背後で上がる悲痛な叫び声を聞き流して老兵もその場を後にした。
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