【小説】神の贄 上
たとえ神であろうと許さない。
妹を奪われた兄が人外相手に奮闘する少年の話。全3話で終わります。
陽気な音楽が朝から絶え間なく流れている。薄汚れた石壁は色とりどりの花々や紐で繋がれた三角旗によって化粧され、いつもの面影は全くない。
「ジル! 早くいこうぜ」
仲間に呼ばれ、少年は顔を上げた。擦り切れた服に、そこから伸びる細い手足。髪はところどころ飛び跳ね、頬には煤がついている。通行人が思わず顔をしかめてしまうほどのみすぼらしさだ。もっともこの街の掃き溜めに暮らす孤児は誰も彼も似たようなものなので、気にする者はいないが。
「おい何ぼーっとしているんだよ。祭りだぜ? 早くしないと”客”を逃しちまう」
「ああ今いく」
頷いて少年も駆け出した。
今日は年に一度の祭りである。この街を守っているカミサマとやらの。
かつてこの街は疫病が流行り、年に何度も洪水など天災にも見舞われる忌み地だったらしい。ではなぜそんなところにわざわざ街ができたのか。それはこの街の位置が関係している。
ちょうどここには大河の傍流として細かく入り組んだ川が多数存在しており、しかも上流にある大きな街と下流にある港のちょうど中間地点にある。要するに中継の拠点とするにはもっとも良い場所であった。
だが前述のように厄が降り注ぐこの地は住むには厳しい場所である。そこで困った王は教会の大司教に命じ、なぜここまで厄災が起こるのか調べさせた。
一歩足を踏み入れ、大司教は顔をしかめた。訝しんだ王に彼は答えた。
「王よ、ここは呪われておりますゆえ、この呪いを祓わなければいつまでもここは忌み地のままでございます」
ではどうすればよいと尋ねる王に大司教は少し時間をくれと請うた。
一週間後、一月の間晴れることがなかった雨が晴れた。一体何をしたのかと問われた大司教は微笑んで言った。私は王の前に姿を現す前まで飲まず食わず一心に神への祈りを捧げて参りました。そしてついに昨日神が私の願いを聞きたまってくださったのだと。王は改めて神に感謝を捧げ、そしてその日を祝祭とした。
「でも本当にカミサマとやらはいんのかなあ」
「災害が数百年起きていないのは本当だろ」
そうだけどさあ、と手を頭の後ろで組みながら仲間はぼやいた。
「もしカミサマがいるってんなら、俺らのことも救ってほしいよなあ。べつにぜいたく言ってんじゃないぜ? ただ年中すきま風の吹かないあったかい寝床と空腹とは無縁の生活がほしいだけなんだ」
少年たちの顔に曖昧な笑みが広がる。それは誰もが願うことで、決して叶わない夢であったからだ。
裏路地に潜むしかない者たちが就ける仕事は少ない。特に身体のできあがっていない子どもたちがやれることなどたかが知れている。一日身体を酷使してももらえるのは雀の涙程度。明日のパンを買えば消えてしまうものだ。
「まっ、いるかもわかんねえカミサマにすがってもしょうがねえや。俺たちはカミサマのおこぼれをもらうだけだしな」
そうだなと少年たちはにやりと笑った。事実、この日が一番“儲け”がいい。さてどいつを狙ってやろうかと底に刃のような光をたたえて、少年たちは街へ繰り出すのであった。
祝祭なだけあって、街はとても華やかだ。普段質素な三日月型の細長い木舟にも花があしらわれている。中には宝石で飾りたてているものや吟遊詩人を雇って歌を歌わせているものまであった。常日頃から混んでいる運河はもはや対岸を渡れそうなほど、舟で覆いつくされていた。
「あいつなんかいいんじゃないか?」
リーダー格の少年が指差したのは、いかにも世間知らずな若者であった。大方観光にきた裕福な商人の息子といったところだろうか。何も苦労していなさそうな若者を見るとジルたちの腹の底から黒い蛇が鎌首をもたげる。
「よしいこうぜ」
合図を受けて少年たちは一斉に動き出した。
「ちょっとそこのお兄さん」
性根の良さそげな面立ちの青年は突然現れた子どもに目を向けた。貧相な姿を認めた途端眉をひそめる。だが邪険に振り払いはせず、かがんでジルに目線を合わせた。
「どうしたんだい?」
ジルは上目づかいで青年を見上げた。
「お兄さん、この街はじめてでしょ? 案内してあげよっか?」
「いやいいよ。ありがたいけど、もう行き先は決まっているんだ」
「お兄さんの行きたいところってこの街の中心にある大聖堂でしょ? でも今すごく混んでいるよ? 行ったところで見られるかわかんないよ。俺なら穴場知ってるしどう?」
「それは素敵な申し出だけどね、僕にはこの街の知り合いがいるから大丈夫さ」
穏やかに、しかしきっぱりとした口調で青年は首を振った。それでもジルは行く手を塞ぐようにまとわりつく。
「俺が知っている穴場ならぜったいだよ。ね? お兄さん」
「悪いけど……」
再度青年が断ろうとしたときにすっと後ろから手が伸びた。
「あっ、こら!」
気づいたときにはすでに時遅し。別の少年が腰につけた巾着袋をさらった後であった。
「じゃあな兄ちゃん! おしゃべり代はもらっていくぜ!」
手を振りながら少年たちは風のように去っていく。当然青年は追いかけたが、この街の道は迷路のように入り組んでおり、土地勘のない余所者が追えるはずもない。すぐさま見失って肩を落とすしかなかった。
「みろよこれ。けっこう入ってんぞ」
財布を逆さにふれば、大量の銀貨や銅貨が転がり出る。ずっしりした財布に胸をふくらませていたが、これは期待以上だ。これならば分けてもひと月は生活できる。少年たちは顔を見合わせて大笑いした。
「俺のおかげだろ」
「ああ、お前のおかげだぜジル。とったのは俺だけど」
「なんだとお前」
からかってくる少年の髪をつかめば、やめろよといいながら彼も髪をかき混ぜてくる。ゲラゲラ笑っていると大柄な少年が声を低めて言った。
「じゃあ分け前決めるぞ。ジルとラウルは銀貨一枚多くやる。あとは等分だ」
「はあいリーダー」
気の抜けた返事を返せば、彼の眉間に皺がよる。が、何も言わずに淡々と小さな麻袋に詰め込み、投げ渡してきた。
「お前はどうする? カールの店でなんか買ってくか?」
隣のラウルが囁く。ジルは肩をすくめた。
「そりゃ嬉しい誘いだが、それをやっちまったらひと月ももたなくなるから
やめとく。いつもの石パン買って帰るさ。ニーナの分もあるしな」
石パンとはジルが寝床にしている路地裏近くにある、この街でもっとも安いパン屋のパンのことだ。石のように硬く、食感もぼそぼそとしていてスープに浸さなければ到底食べられたものではない。だがその分他よりも圧倒的に安く、はした金でも二日はもたせることができる。今回は稼ぎが大きいのでスープ代と合わせてひと月分払っても釣りがでるくらいだ。
「あーお前妹いるもんなあ。悪かった。ま、ついでにお前の分も買ってきてやるよ」
ばつが悪そうにラウルは頬をかく。ジルは友の申し出をありがたく受け入れた。
「ありがとうな。今度なにかいい仕事があれば真っ先に紹介する」
「いいってことよ。お互い様ってことで」
他の仲間たちはすでに家路についている。ジルも麻の巾着を懐にしまって薄暗い路地を歩き出した。
大聖堂の方からいっそう大きな歓声が上がる。恐らく祭り一番の大目玉である神へ捧げる供物が登場したのだろう。大司教は加護を施してもらう代わりに、神へ供物を差し出すという契りを結んだと伝わっている。
それにちなんで教会は毎年豪華絢爛な花輪や果物、野菜を捧げていた。それは一種の芸術のようで、誰しもが感嘆の息をもらすという。
「ま、俺には関係ない話だけどな」
見物人は観光客や金持ちばかり。路地裏育ちの自分には縁のない話だ。
人の間をすり抜けながら家を目指していたジルはふと運河に目を向け――そのまま縫いつけられた。
一人の人物が舟の上を渡っている。髪は絹よりも艶やかな濡れ羽色の長髪、細やかな金糸が施された赤と黒の衣は司教よりも豪奢だ。笠を被っているため男か女かすらわからないが、笠についた長く白い紙がはためくたびに垣間見える輪郭は、広場に鎮座する噴水の神の像よりも彫りが深い。その空間だけ周囲から隔絶されたかのように厳かな雰囲気をたたえている。そして何より奇妙なのは、大人の倍はあろうかという背丈だというのに舟は一切揺れることなく、周りも気づいていないように振る舞っていることであった。
「おい突っ立ってんじゃねえぞクソガキ! 邪魔だどけ」
どつかれてはっと息を吐いた。息をするのも忘れていたらしい。周囲の喧騒が戻ってくる。頭を下げて脇に寄りつつ、再び運河に目を向けた。例の人物は運河を渡り終わり、街角に消えていった後だった。ちょうど自分の行き先と同じほうへ。
これ幸いとジルは謎の人物の後追った。
二階に届くほどの高さだというのに、それは細い路地裏を器用に縫っていく。謎の者はやはりジルにしか見えていないようだ。振り返る者は誰もいない。ただ無意識のうちにそれの進行を妨げないように避けているだけである。
それは足音もなく厳かに歩みを進めていく。それは自分の家の方向へとどんどん進んでいった。
――もしかして自分の家に向かっているのではないか。
頭から足に向かって冷たいしびれが走った。ジルは足を止め、迷うことなく脇の路に飛びこんだ。
「ニーナ!」
頼むから間に合ってくれ。あるいは自分の予想が外れていてくれ。
ごみが散乱する汚い道や腐った木の板にできた穴をかいくぐり、一直線に我が家へと駆け抜ける。あと少しでたどり着くと思ったそのとき、ジルは立ち竦んでしまった。
それは妹の前に立っていた。腰を折り曲げ、妹の顔を覗きこんでいる。妹は魂を抜かれたかのようにぼんやりとそれを見つめていた。常に生気に溢れた感情豊かな瞳は濁り、口はだらしなく開いている。
それの唇がゆっくりと動いた。
“お前にしよう”
声は聞こえずともはっきりとわかった。腕が伸び、妹を抱え上げる。そして左腕に抱きかかえた。ただでさえ小さな妹は軽々と収まった。
――ああ、いってしまう。あれに奪われてしまう。大事な妹が、世界でたった一人の家族が連れていかれてしまう。
そう思ったとき、糸が切れる音がした。
「おいお前!」
振り返ったそれがこちらを見た。驚愕がさざめきのように空気をつたってくる。
「妹を離せよ! 返せ! お前がもっていていいもんじゃねえんだよ」
がむしゃらに掴殴りかかりにいったが、触れる寸前でそれの体がもやのように揺らぎ、つんのめって転ぶ。しかしジルは諦めなかった。何度も何度も立ち上がっては挑み続ける。
それは黙ってジルを見つめていたが、徐々に視線に哀れみの色を強くした。
“お前はこの子の……なるほど。そういうことか。可哀想な子。哀しまなくてもよい。流れに身を委ねてしまえば苦しむことはないのだから”
頭に響く声はどこまでも無機質であった。
「うるせえ! 返せっていってんだろ!」
唐突にそれが天に向かって右手を上げた。ぐらりと視界が揺れる。自分の意思に反して、身体がかしいでいく。地につく己の身体を、一歩引いたところで眺めている自分がいた。焦っている自分と冷めた自分。まるで身体が分裂してしまったような奇妙な感覚だ。後者はともかく前者は必死にもがいた。
動け動け動け動け!
だがどんなに念じても指先一つ動かせない。悠々と去っていく後ろ姿を最後にジルの意識は途絶えた。
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