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【短編小説】真昼の残照

たとえ天高く照る真昼の太陽でなくとも。
三人組シリーズに出てくる剣道部コンビの片割れ森田迅介の夕暮れ時の独白。

 赤みがかった西日が窓から差しこんでいる。心地よい温度は眠気を誘うのに十分だ。これが昼食後の日本史だったのならば、自分も舟をこいでいたかもしれない。
(いやないな)
 即座に否定した自分自身に、迅介は苦笑をこぼした。
 きっと眠るくらいなら資料集のコラムやら教科書の隅に載っている歴史上の人物のちょっとしたエピソードを読んでいるだろう。教師の話が冗長でも、内容自体は興味ひかれるものだ。
 特に幼い頃から歴史漫画やら小説やらに親しんできた自分にとっては、睡眠時間を増やすよりもちょっとした豆知識を仕入れるほうが心躍る。当時の文化や偉人の意外な一面がわかるエピソードは純粋に面白い。が、残念ながらあまり周囲の同意は得られたことはなかった。同年代の大半はやはり三大欲求に勝るものはほとんどないらしい。
 真夏よりも色素の薄い光が己の机を照らす。転がったシャーペンの下には黒々とした影がぽつんと浮かんでいた。
 同じ太陽の光でも、冬のほうが寂しさを感じるのはなぜだろうか。日射量が違うからか。はたまた外の冷気で体が冷えこんでいるからだろうか。

「迅介どうした? 今日は部活も日直もないだろ? 帰らねえの?」

 ひょいと覗きこんできたのはクラスメイトの炎野白海だった。黒い双眸は不思議そうに己を見つめている。その後ろに見えるシンプルな壁掛け時計の長針はとっくにホームルームの終了時刻を通り越していた。

「あ、総助待ってんのか。隣のクラスみて来ようか? 日直でもそろそろ終わってんじゃねえの?」
「いや別に総助を待っていたわけじゃねえよ」

 白海は目を瞬いて迅介の顔を見た。今度はこちらの真意を探るように、慎重に迅介の動向をうかがっている。

「……どうした? ケンカでもしたか?」

 迅介は笑い声を上げた。乾いた空気が震える。どこか作り物じみていてわざとらしい笑い声だな、と他人事のように思った。

「そうじゃねえよ。今日はアイツ用事あったから先に帰っただけ」

 白海は口をつぐんだままだった。訝しむ色は消えていない。しかしこちらが何も話す気がないと見るや、ため息をついて鞄を背負い直した。

「んじゃ一緒に帰るか? とわも一緒だけど」

 ちら、と白海が廊下に視線を向けた。つられて向けた先には穏やかな笑みを浮かべた少年がひらひらと手を振っている。白海の親友、心見とわだ。
 基本的に温和な彼なら、さして交流がない自分が混じったところで嫌な顔一つせずに輪に入れてくれるだろうし、自分も人の輪に溶けこむのは苦手ではない。きっとそれなりに楽しい帰路になるはずだ。いつもならば好意に甘えて、二人の間に入らせてもらっただろう。――そう、今でさえなければ。

「いや誘ってくれたところ悪いけど、やめとく。もう一人で帰るのが心細いって泣くほどの歳でもないしさあ」
「……大丈夫か?」

 白海は軽口に流されてはくれなかった。それどころかでかでかと顔に心配の二文字を掲げている。

「いやね、白海ちゃんったらとわちゃんだけじゃなくて私まで誘おうっていうの? とんだプレイボーイじゃない。もう悪い男」

 しなを作って寄りかかれば、ようやく白海は距離をとった。ただしその目には不服と呆れが浮かんでいたが。

「まあそれならいいけどさ。何かあったら言えよ。愚痴くらいなら聞いてやるからさ」
「もしかして俺の真似? 俺がいつもお前にやってるみたいにさ」

 にやっとからかい混じりに己を指し示せば、白海はやれやれとかぶりを振って、とわのほうへと歩いていった。
 並び歩く二つの頭が視界から消えて、明るい白海の笑い声もそれを受け止める穏やかなとわの相づちも、二人分の足音すらも聞こえなくなってようやく迅介は立ち上がった。
 差しこんだ光の中で、無数の粒たちがきらめいていた。だが今は宝石の欠片のようにきらめく粒たちも、いずれは床に這いつくばって薄汚い埃と化すのだ。
 ふと見れば足先に灰色の小塊が転がっている。迅介は数秒それを見つめていたが、その塊を踏みつけて、教室を後にした。


 冬の空気は角がある、と言い表したのは一体誰だったか。たしかに冬の空気を例えるならば、丸ではなく三角か四角だ。
 ぱりっと冷たい空気を破るように、竹刀を打ち合う音がそこかしこから聞こえる。
 胴着を着ても忍びこむ冷気から逃れる術はなかったが、それも打ち合いが始まれば、気にならなくなるので問題ない。
 蒸れる兜を脱げば、もうもうと湯気が上がった。のせた手巾をタオル代わりにして、流れる汗を拭く。
 そのとき、切り裂くような掛け声と共に竹刀が打ちこまれた。鋭く勢いがある。太刀筋は剣道をかじっていない人にとっては到底目で追える代物ではない。

「相変わらずすごいな、総助は」

 上から感嘆の声が降ってきた。いつの間にか傍らに打ち合いを終えた先輩が立っていた。

「来年の主将はあいつかもなあ」

 ぽつりとこぼした言葉に、迅介は微かに目を見開いた。迅介の表情が変わったのに気づいていないのか、先輩は前を向いたまま続けた。

「なんたって一番強いのはあいつだし」

 冷たい痺れがてっぺんから爪先まで駆け抜ける。ついにこの時がきてしまったと思った。
 目の前では双方が頭を下げ合っている。面の隙間から覗く親友の目は依然としてこちらを映してはいなかった。

「ま、来年はよろしく頼むぜ、お前にも期待してるからな」
「えーもう引退考えてるなんて気が早すぎませんか、先輩」

 ぽんと肩に置かれた手をやんわり振りほどきながら答えた自分の顔は、上手く笑えていただろうか。引きつってはいなかっただろうか。不自然に思われなかっただろうか。
 ははは、と笑った先輩の瞳にはいつも通りの自分が映っていたように思うが、確信は持てなかった。
――お前は悔しくねえのかよ。
 と、ふいに吐き捨てる他校の少年の声が耳の奥で反響した。後からきた奴に先を越されて、なんでへらへら笑っていられるのか。お前にはプライドがないのか、と顔を歪ませた彼の言葉には逆恨みにも似た詰りが透けてみえていた。
 ギリッと奥歯が擦れる。
 悔しくないかだと? 悔しくないわけがないだろう。悔しさを感じていなかったら、とっくにこの竹刀を捨てている。
 総助をこの道に誘ったのは自分自身だ。ずっと彼の隣に立ち続けてきたのも自分自身だ。だから彼の持っている才能が自分の持っているものよりも優れていて、既に自分が追われる側から追いかける側に転落したこともわかっている。わかってはいたが、現実を突きつけられて、平然といられるほど達観してもいなかったらしい。
 無論、総助でも勝てない相手は存在する。高校トップに立ったわけではないし、まだまだ改善点も多い。今まで上げた黒星だって数え切れないほどある。
 それでもこの部の中で頭一つ抜きん出ているのは事実だ。この前の大会の個人戦の表彰式で平然とした顔で立つ姿を思い出し、焼けつくような苦さがこみ上げた。
 もう彼の前を走っているわけでもなければ、並走しているわけでもない。速度を上げて伸びやかに走り続けていく背を、見つめ続けることしかできない。
 道場に差しこむ眩い光は先ほどよりも陰っている。壁掛け時計の短針は頂点を超えていた。正午を過ぎれば夜に向かって輝度を下げていくしかない。上りきってしまえば、後は転がり落ちていくしかないのだから。
 傾き始めた陽の光を、迅介はじっと見つめ続けていた。


 角を曲がれば、眩い陽光が目を刺し、過去に沈んだ意識を否が応でも引き戻した。
 一人帰る道はいつもと全く変わらない景色のはずなのに、冷たさがいつもより体にしみるのはなぜだろうか。迅介は手元のスマホに視線を落とした。

『悪いけど、今日一緒には帰れねえわ』
『日直?』
『そう』

 会話はここで途切れている。液晶画面に映る既読の二文字だけでは、親友が何を思っているのか読み取ることはできない。
 こちらの言い分を信じてくれたのか、はたまた嘘だとわかった上で何も言わないでおいてくれたのか。
 恐らくどちらでもないだろう。違和感は覚えただろうが、わざわざ詮索するほど興味があるわけでもない。連れだって帰らないという事実を了承した時点で、あれの思考は完了している。それ以上先に進むことは絶対にない。
 常にぶれない基準をもつ奴は、試合ではそれが最大の強みとなるが、日常ではときに恐ろしいほど淡白な態度となることがある。あまり総助を知らない人にとっては、冷徹で可愛げのないガキと映ることだろう。
 もちろん冷血漢なわけではなく、こちらが切り出せばちゃんと耳を傾けるし、一度内に入れた者には愛情深い。ただ、こちらの機微を察して行動に移してくれるような繊細な優しさは一切持ち合わせていないだけで。
 それは百も承知であるし、変に気を遣われるのはこちらとしても遺憾なので、親友の対応に不満はない。が、言いようのないもやは胸の底に澱みをつくった。
 きっと自分は親友ほど剣道の神様に好かれているわけではない。もう天井が見え始めている時点でそれは明らかだ。
 だが、だからといって諦めるかと言われれば首を横に振る。それを選択してしまったら、多分己の最も大事な部分が音を立てて崩れ落ちてしまう。ただのくだらない意地だとしても、竹刀をとる以外道はなかった。
 馬鹿な生き方をしていると思う。身の丈に合わないと知りながら、なおもそれに手を伸ばすことを諦めきれない。それでいていちいち周囲の評価に左右されるのだから救いようがなかった。

「……いちど、距離とったほうがいいかもな」

 口からこぼれた一言はぎりぎりまで入ったコップの水が溢れる決定打となる最後の一滴だった。
 もういいか。無理に追いつこうともがかなくても。このままがむしゃらにしがみついたところで無様な姿を晒すだけじゃないか。
 ずっと認めまいとしていた考えが笑顔で手招いている。その手を掴めばきっと楽になる。諦観に似た虚しさが心を浸食し始めた。
 どうせ大学は別々になるであろうし、必然的に今よりも顔を合わせる頻度は落ちるだろう。それで何かの折に、飲みの席にでも「実はお前の才能に嫉妬していた時期があったんだぜ」などと冗談交じりに言うことができれば上々だ。……それまでにこの醜い感情を隠し通すことができたら、の話だが。
 自嘲じみた笑いが落ちた。いつから夢物語を思い描くようなおめでたい頭になったのだろう。それができたらこんな思考に陥っていない。あり得ない未来にもほどがある。
 ふいに尻に振動が走った。出所はポケットの中の長方形の端末だ。メッセージが一件入っていた。

『明日、居残り練してく』

 迅介はしばらくそれを見つめていた。真正面から差しこむ夕陽を遮るために覆った手が黒々とした影を落とす。
 風が強く吹いた。この時期特有の乾いた北風だった。ため息を吐き出すと茜色の空に浮かんだ水蒸気が輪郭を作る。が、すぐにほどけて何もなかったかのように空に溶けてしまった。
 再び端末が揺れた。新しい通知を知らせるマークが浮かんでいる。

『あと今週末妹の誕プレ選び手伝って』

 もう一度息がこぼれた。しかし今度はどちらかというと間の抜けたような吐息だった。
 白い水蒸気の向こうに太陽がきらめく。真っ赤な恒星は、地平の向こうに沈みつつもなおも命を燃やしている。最後の一片が消えるまで熱を発し続けている。
 落ちゆく太陽を目指して烏が一、二羽飛んでいった。小さな影はみるみるうちにオレンジの光に埋もれて見えなくなった。
 ――秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。

「……いや今は秋じゃねえけどな」

 なんならその古典に合わせるならば、今の季節は朝が一番だ。
 思わずしてしまった一人つっこみに苦笑する。
 乱暴に意訳すれば、秋は夕暮れが一番いいのだと、ただ秋のひと時を切り取ってその美しさに感動しているだけだ。それでも沈みゆく太陽に、大昔から人は美しさを見いだしている。

「まあいっか。たとえ真昼の太陽じゃなくたって」

 口に出すと体から余計な力が抜けた気がした。
 夕暮れには夕暮れなりの魅力がある。昼間にない輝きは人の心を離してやまない。
 空を彩るのは天辺に輝く恒星だけではないのだから。産声を上げる朝も、一日の終わりを知らせる夕焼けも、夜にひっそりと浮かぶ月や星にも人の心を打つように、何も総助だけが飛びぬけていても試合に勝てるわけではないのだ。剣道は個人戦かつ団体戦なのだから。

「……でもやっぱ、諦めるのはもうちょっとだけ後にしよ」

 それでももう少し、もう少しだけあがいてみたい。やはり自分は馬鹿で諦めが悪いみたいなので。

『時間は? あと俺も明日居残るわ』

 迅介はそれだけ打ってポケットにスマホを突っこんだ。
 正面からは夕陽が網膜を容赦なく刺してくる。いつも視界の邪魔をするだけのそれに、いつも以上の親しみを感じているのは気づかない振りをした。

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