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【短編小説】花の肖像

私を変えてくれたあなたへ。
三人組シリーズにでてくる細波さくらと後輩の話。

 下校のチャイムが鳴り響き、少女ははっと顔を上げた。机に置かれたフラスコの輪郭が長い影を作っていた。
 いつの間にか実験室に残っているのは少女だけだった。締め切った窓の隙間から忍びこむ冷気が肌を撫でる。

「いけない。もうこんな時間。そろそろ帰らなきゃ」

 そそくさと荷物をまとめてカバンをつっかけた。いつもなら誰かしら残っているはずだが、今日は早かったようだ。せめてひと声かけてくれればよかったのに。小さなぼやきは心にしまいこんで、代わりに深く息を吐く。
 窓の鍵の閉め忘れがないか確認し、少女は扉を閉めた。
 茜色の廊下は人気ひとけがない。間の抜けた上靴の足音だけが響いている。一人で帰るのは久しぶりだ。普段は友達と連れ立って行くし、去年まではもっと騒がしい存在がいた。
 窓の外に目をやると夕陽が目を刺す。彼女のように鮮烈なきらめきが。先輩は嵐のような人だった。
 高校生になった一つ上の先輩は有名人だ。高校が同じ町内にあるというのもあるが、卒業した今でも彼女の名は轟いている。人は彼女のことをいかれているだの、変わり者だの好き放題言うが、少女は先輩のことを尊敬していた。

『まーたしけた面してんのな。もっと口角上げなって』

 乱暴にかき混ぜてくるのに、不思議と優しさを感じる手つきを思い出す。光の加減によっては金にもみえるライトブラウンが視界の端にひらめいた気がして振り返った。当然映るのは自分の影一つ。

「まったく一年たてば同じ学校に行くのにね」

 苦い笑みが口元に浮かぶ。この年になってホームシックならぬ先輩シックになるとは。彼女が聞けば腹を抱えて大笑いするだろう。
 台風のごとく常に物事の中心にあるような彼女とは対照的に、昔から教室の隅に縮こまっているような子どもだった。人目を気にして、息をひそめて目立たぬように、悪意にさらされぬように影で身体を小さくしていた。だから彼女と接点をもつことができたのは奇跡といっていいだろう。


 彼女と出会ったのは小学校高学年のとき。
 その日は居残りでナップザックを縫っていた。本来ならば裁縫は得意なほうなので居残りなど有り得ないのだが、運悪く風邪をひいてしまい、しかもこじらせて長引いた。おかげで少女は一人寂しく家庭科室でミシンを動かす羽目になったのだ。騒々しい機械音が断続的に落ちる。端まであっという間に縫い上げた少女は、針を突き刺したまま布を九十度回転させた。
 ナップザック作りとはいえ対象は小学生。周りを縫い終わればあとは上端を三つ折りにしてヒモを通す部分を仕上げるだけ。少し簡素すぎるが要は完成させればいいのだ。一つではあるが飾りをつける予定であるし、もっと作りこみたければ別に自分で作ったほうが早い。もう一辺で周辺の縫い付けは終わる。針の向きを確認し、ペダルを踏みこもうとしたそのときだった。

「あーほんと面倒くさ。なんたってわざわざ雑巾とりに戻らなきゃいけないのよ。一年も気づいてなかったんならもう使うなり捨てるなり勝手にすればいいのにさ」

 ガラッと扉が開き、殺風景な部屋に鮮やかな色彩が入りこむ。頭をかきながら大股で歩いていく少女は真っ直ぐ教卓に向かうとガサゴソと机の下を漁り始めた。
 次に彼女が顔を出したとき、その手に握られていたのは少し線が斜めになった雑巾一枚。たしか今作っているものの前段階の課題としてだされたものであるはずだ。全員持ち帰るよう先生に言われたはずだが、彼女はどうも持ち帰るのを忘れていたらしい。
 と、次の瞬間。

「あ? なんだ人いるじゃん」

 ばちり。効果音が鳴ったと錯覚するほどはっきりと目があった。一対の夏空がじっとこちらを見つめる。かっと頬が熱くなった。
 何か話さなくては。このままでは不躾にじろじろ見ていた不審者だ。

「あ、あのすみません。べつに見てたってわけじゃなくて、その突然さくらさんが入ってきたものだから、ちょっとびっくりしちゃってごめんなさい」
「……私アンタと会ったことあるっけ? なんで名前しってんの?」

 しまった。墓穴を掘った。少女の顔色は赤も青も通りこして真っ白になった。

「す、すみません」
「いや謝罪が欲しいんじゃないから。なんで私の名前しってんのって聞いているだけ」
「そ、それはさくらさん有名人なので……」

 声は先細りしていき、最終的にほとんど空気に溶けかかっていた。床の木目でさえ自分をせせら笑っているような気がした。無意識のうちに指をこすり合わせる。
 沈黙が落ちた。肌を刺す居心地の悪さが心臓を焦らせる。しかし顔を上げる勇気もない。

「そんなに怖がらないでよ。これじゃ私がワルモノみたいじゃない」

 はっと彼女の顔を見ると、彼女は笑っていた。入道雲が浮かぶ真夏の昼下がりのような笑みだった。

「ね、これアンタが作ったの?」
「え、あ、そうです」

 ひょいと指さされたのはナップザックに唯一つける飾り、イルカのアップリケだ。この学校では余裕がある子はアップリケなど飾りを一つ付け加えてもいい決まりだった。
 少女は予想外のトラブルで居残りになってしまっただけであり、通常通りにいけば時間内に終わったはずだったので事前に先生に申請してあったのだ。型はもう切り抜いてしまったし、どうせもうすぐ終わるので、机の隅に置いておいたものである。
 とは言っても水色のフェルトから切り出しただけのシンプルなイルカだ。合格をもらったら家で目玉くらいつけてあげたいとは思っているが。
 頷くと、なぜか碧眼のきらめきが増した。

「へえいい趣味じゃん。ね、これのやり方ちょっと教えてよ」
「え、でも教えるほどのものじゃないですよ?」

 事実、型紙を作りそれに沿って切り取っただけだ。つける過程だってそう難しいものでもない。困惑する少女にさくらはずいっと顔を近づけた。

「それを決めるのはアンタじゃなくて私。で、教えてくれるの。くれないの」
「お、教えますんでちょっと待ってくれますか。私これ終わらせないといけないんです」
「ん、待ってる」

 さくらは満足気に頷いて背後の机の上に腰を下ろした。先生が見ていたら立腹ものだろう。ただあいにく先生は席を外していた。
 少女はできる限り早く手を動かしてナップザックを完成させ、アイロンでイルカを布地に密着させた。華麗なジャンプをみせるイルカはこちらまでわくわくしてきそうだ。
 しかしやはり味気ない。目は持ち帰った後につけることにしよう。と、そこで顔をあげた少女は固まった。さくらが両肘をついてこちらをにこにこしながら眺めていたからだ。いつの間に正面の席に移動していたのだろう。

「えっと……な、何かご用でしょうか」
「いやべつに? よくそんなにスイスイやれるなって思って。姉さんみたい」

 さくらは席を立つや否やこちらの脇まで来て手を差し出した。おずおずと彼女の手をとると力強く引っ張られる。反動で立ち上がった少女にさくらは笑いかけた。

「ほら早く行くんでしょ? ……えーっと、アンタ名前は?」
ゆうです。白浜優しらはまゆう

 さくらはにぱっと効果音が聞こえるほど満面の笑みを浮かべて腕を引っ張った。

「そう。優ね。じゃ、荷物まとめてさっさと出しにいこ」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 さくらは駆け出した。通りかかった先生の注意も右から左に受け流し、風が運んでくる子供たちの笑い声を背に駆ける。もつれる足を動かして必死に優もついていった。暖かな縛めは職員室に着いても解かれぬままだった。
 ランドセルを一旦とりに戻り、二人で帰路につく。偶然にも彼女と帰る方角は同じであった。西に傾いた太陽に透かされると彼女の髪は美しい稲穂色に染まった。口を何度も開閉し、ようやく優は切り出した。

「それでなんで私なんかにアップリケの作り方教わりたかったんですか」
「イルカが好きだから」

 きらっと何かが反射する。ランドセルの横に揺れる青いイルカのストラップ。その滑らかな肌に陽光がきらめいたのだ。

「あ、だから青いイルカを?」
「それもあるけど、青は姉さんの色だし、バッグにもあったら姉さんがより感じられるかなって」

 横についたイルカを指先で軽く弄んで、さくらは答える。ストラップのチェーンが明るい音を立てた。

「あ、じゃあそれお姉さんのものなんですか?」
「そ。前に水族館に行ったときにお互いの色のストラップを贈りあったの。姉さんにはピンクのイルカがついてる」
「お姉さんが好きなんですね」
「当たり前でしょ。私の姉さんだもの。最高に決まっているじゃない」

 彼女は真っ直ぐ前を向いたまま言った。照れも驕りもないごく平坦な声音だった。それでいて確固たる自信に裏打ちされた台詞だった。自分であれば絶対に言えない言葉を堂々と口にする人だ。日陰で俯くホタルブクロと太陽の日差しを浴びるヒマワリが異なるように生きる世界が違う。
 優の足が自然と止まった。

「……いいなあ」
「なにが?」

 さくらが振り返った。

「いえ、そういうことさらっと言えるのすごいなって。私だったら絶対に無理です」
「なんで? 好きなものを好きって言ってなにが悪いわけ?」

 さくらはきょとんと首をかしげる。ほらそういうところからして別物だ。ランドセルの紐がぎゅうっと悲鳴をあげた。

「さくらさんは」
「さくらでいいよ。なに?」
「人の目とか気にならないんですか。そういうこと言ったらみんなから変な目で見られるじゃないですか。私だったら……」

 コンクリートに横たわる自分の影ですら後ろ指を指さしてくるかのようだ。
 本当は。本当は自分だってさくらのようになりたかった。アップリケをつける許可だって授業終わりにそっと小声で伺うのではなく授業中に聞きたかったし、今回風邪をひいたおかげでみんながいるところでつけることにならなくてよかったなどと安堵する浅ましさを知りたくはなかったのだ。
 だが少しでも目立ってしまえば過度な期待や全身を凍りつかせる冷やかしが肌を刺す。みんなに倣って平凡に。みんなが望む普通に。自分の平穏は保つ代わりに心から目をそらして。こうして今日まで生きてきたのだ。
 これは八つ当たりだ。ぶつけたって彼女には自分の気持ちなんて一生わからないし、わかるはずもない。だって日向に咲く花は日陰の暗さを知らないのだから。
 ふいに新たな影が落ちた。

「そりゃちょっとは気にしたわよ」

 さくらは目の前に立っていた。真っ直ぐ貫く眼差しには一点の曇りもない。

「私こんな見た目だからさ、よく周りから言われたわ。変なの、なんで同じじゃないのって。私の母さんや姉さんとおそろいの自慢の髪と目なのに。ばあちゃんがくれたものなのに。なんでおかしいって指さされなきゃいけないのってね、怒ったときもあった」

 毛先をいじりながら彼女は淡々と話していく。

「でもね、あるとき姉さんが言ったの。なにも変じゃないわ。みんなと違っていいじゃない。私の大好きなかわいい妹には変わりないもの。あなたはあなたの心のままに動いていいのよ。私が保証してあげるってね」

 両手を広げてさくらは笑った。さながら大輪のヒマワリのごとく。

「なんでそんなどこの誰ともわからないヤツの言うこと聞かなきゃいけないのよ。私は私の大好きな人の言葉を信じる。だからアンタも気にせずやりゃいいのよ。私が保証してあげるわ。アンタのことを茶化すクソガキと私、どっちのほうを信じるのよ」

 優は大きく目を見開いた。喉が震え、いつの間にか笑い声が漏れ出る。泣き笑いのように引きつった醜い声だったが、同時に心にかけられた見えない枷を吹き飛ばす不思議な力をもっていた。
 今日出会ったばかりじゃないのかとか、信頼もへったくれもなかっただろうとかどうでもいい。そう、全てどうでもいい。こんなに自由に生きている人がいるんだったら自分なんてかわいいものだ。

「いい顔になったじゃん。さっきのしけた顔よりずっと気に入ったわ」
「そうですか?」
「うん。あっもうこんな時間じゃん。早く行こ。日が暮れる」

 先をゆく彼女の背が光り輝いてみえる。優は足に力をこめた。


 それからさくらを通じて彼女の姉とも知り合って。もっとも周囲をひっかきまわす彼女よりも家庭的で落ち着いた彼女の姉のほうが気はあったのだけれども、さくらを慕う気持ちは失われなかった。
 性格も何もかもまったく正反対だが、あれから何かと気にかけてくれた彼女には感謝してもし足りない。おかげで少しは自分に自信がもてるようになったし、振り回されるのも悪いことではなかった。

「そうだ、久しぶりに電話してみよっかな」

 夏が弾けるようなあの声が聞きたくてたまらなかった。きっと話題は他愛もないことだろうが、それでも構わない。むしろ中身のないやり取りは彼女らしいとも言える。家に帰ったら十一ケタの数字を打ちこんでみよう。少女の足どりは軽やかだった。

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