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【短編小説】大海踊る鯉のぼり

いつか世界に飛び出す最愛あなた
三人組シリーズに出てくるさくらの姉、るりからみた妹のひとり立ちの話。

「子どもの日も終わっちゃったわね」

 空はぬけるような青が広がり、太陽は爽やかさを越えていっそ暴力的なまでに強い日差しを向ける。生温い風が豊かなライトブラウンを揺らした。

「なんだよ突然。五月病か?」

 前の席で吞気に肘をついていた青年が振り返った。硬質な黒髪は汗か湿気のせいでややへたっている。それにしてもからかうような眼差しを送ってくるのが苛ただしい。
 少女は唇をとがらせて窓の外を向いた。

「あなたと一緒にしないでくれる? 私はただ今年の子どもの日が終わったことを感慨深く思っていただけよ」
「なんだよ。俺はてっきりゴールデンウィークが終わってセンチメンタルな気分なっているかと思って気にかけてやったのにさ。今からへばっているようじゃあ受験乗り越えられないぞるり」

 青年の手元には分厚い参考書が積まれている。年季が入っていくつもページが折りたたまれたそれは、部活の先輩からのお古らしい。表紙には誰もが知っている有名大学の名が連なっている。もっとも授業聞いていれば頭に入るとのたまう彼にとっては肩慣らし程度にしかならないだろうが。
 るりは鼻を鳴らした。
 相変わらずこちらの気に障ることばかりする幼馴染だ。彼の従弟は真っ直ぐで心根の優しい子だというのに、年上のこいつはどうしてこちらの毛を逆立てるようなことばかり言うのだろう。頭はいいはずなので感情の機微がわからないはずではないと思うのだけど。従弟とこいつを足して二で割ってやれば成績面でも性格面でもちょうどいいのではないだろうか。

「余計なお世話よ。たとえ私がちょっと憂鬱な気分になっていたとしてもデリカシーのないあなたに相談するわけないじゃないひびき
「最近俺に対して当たりが厳しくないか、るりさんよ。もしかして生理か?」
「最低。あなたそれ美優紀みゆきに言ったら承知しないからね」

 思ったよりも低い声が出た。響は肩をすくめる。

「流石に彼女に対してそんなこと言わねえよ」
「どうだか。彼女自身に言わなくてもそうやって他人に言っていたらいつかポロっとこぼすかもしれないわよ」

 友達の美優紀は何に惑わされたのか、信じられないことに目の前の男と付き合っているのだ。しかも仲はとても順調である。両側から惚気話を聞かされている身にもなってほしい。特に幼馴染のほう。いちいち彼女自慢しなくてもよろしい。彼女の良さはちゃんとわかっている。
 陽光に照らされた木々は青々と茂り、葉を天に向かって広げる様はまさに生命の輝きそのものだ。その上に広がる空にとある光景が重なった。

「へいへい悪かったよ。じゃ、何を思い出していたんだ?」

 幼馴染は気配りの欠片もないが、馬鹿ではない。このように心の内を見透かすような一言を放てるのは流石を通り越して一瞬どきりとすらする。しかし素直に褒めてやるのは癪だった。

「……海を思い出すじゃない。こんな天気だと」
「ああ、なるほどね。妹のこと思い出していたわけ。ほんとシスコンだよなお前」

 呆れたと言わんばかりに響は頭を振る。るりは無視を決めこんだ。この男に言い返すために使う力も勿体ない。るりはそっと瞼を閉じた。
 思い返すのはまだ自分も妹も今よりずっと小さかった頃の一幕である。

 妹は昔から海が好きであった。聞けば姉さんの色だからと胸を張って答えられる。るりだから青。だから歯ブラシの色も靴もお出かけ用のカバンも青ばかりだった。もちろん元々青は好きだったから嫌だと思ったことは一度もないが、このときほど親から授かった名を感謝したことはないだろう。
 否定されるなど露ほども考えておらず、当然だとでも言わんばかりに胸を張る妹が愛しくて愛おしくて。気づけば思い切り抱きしめていたことを覚えている。そのとき彼女はきゃらきゃらと甲高い声を上げて笑っていたのだっけ。
 昔こそ家族そろって出かけていた海水浴だったが、いつの間にか子どもたちだけで行くようになり、妹の小さな手を引くのは自分の役目になっていた。妹にいつも付き合ってくれる光太は従兄である響が手を繋いで、もう一人の妹の幼馴染の龍は妹か光太が引っ張っていたものだ。
 妹も光太も元気あり余るくらいの子どもだったから、どちらかと言えばおとなしい龍が引きずられるように連れて行かれるのは当然のことであった。
 しかしときどきばてそうになる龍を気遣って日陰につれていってくれる光太はともかく、全く彼の体力なんてお構いなしに駆け回る妹に振り回される色白の少年を可哀想に思ってしまうのも事実で。

「大丈夫? 今度から私と手をつなぐ?」

 パラソルの影で汗を垂らしながらチビチビと茶を飲む龍に問いかける。飲み物の表面も彼と同じくらい大粒の水滴がつたっていた。吹きつける風はぬるく肌にまとわりついて不快だが、下が焼けつくような灼熱でない分、いくらかはマシだ。
 妹と手を繋ぐと必ずと言っていいほど水かけっこやら砂浜かけっこやらに付き合わされるのだから、自分が繋いでいたほうがまだいく分か歯止め役になれるだろう。
 響は駄目だ。使い物にならない。あれは自ら二人に混じって遊んでしまうタイプだからだ。それでいて気が済めばいつの間にか年下の輪から抜け出して自分一人だけ休んでいる。ちょっとは引率者としての自覚をもってもらいたいものだ。

「ううん、いい。……あいつらと遊ぶのキライじゃないし」

 疲れたら勝手に休むし。付け加えられた一言は素っ気ないがどことなく暖かみがあるのは勘違いだろうか。るりは思わず龍の顔を見た。龍はまだ盛大に海水をかけあっている三人を見つめていた。その横顔に浮かぶ色があまりにもやわらかくて、るりは頬を緩めた。

「なに?」

 るりに己の胸の内を悟られたのを察したのだろう。ややぶっきらぼうに唇を突き出すも、色白の頬に朱がさしていれば、るりの表情筋は緩む一方だ。

「なんでもよ。余計なお節介かけて悪かったわね」

 顔を背ける仕草さえも可愛くて髪をかき混ぜてやれば、龍だけずるい、私もやって! と元気な声が飛んできた。自分と瓜二つの姿形をした小さな塊がこちらに向かってくる。るりは微笑んで腕を広げた。

 そんな妹が「姉さん海にいこ!」と誘わなくなったのはいつ頃からだっただろう。夏休みに入れば、海行きたいの大合唱で、たまに水族館行きたいと変化球を投げてくる可愛い妹は、成長するに連れて徐々におねだりを口にすることがなくなった。
 とは言え、海に興味がなくなったわけではない。言葉に出すよりも先に行動を起こすようになっただけだ。去年も光太と龍の腕を引っ張って海に行っていたらしい。あの二人も癖の強い妹になんだかんだ言いながら付き合って、もう何年経つだろうか。
 小麦色の肌に大輪の笑顔を咲かせる少年と二人の言い合いを横目に頬杖をつく素直じゃない少年の顔が脳裏に浮かぶ。今度お礼にクッキーでもあげたほうがいいかもしれない。
 るりはノートのページをパラパラめくりながら、新緑が風にそよぐ様を眺めていた。
 電車で一時間以上もかかるのに、ちゃんと行き先を間違えずに切符を買って、寝過ごしもせずに行けるようになったのだ。もう自分が手を引いてやらなくとも友達と好きな場所に出かけることができるのだ。
 自分よりも少し高めの温もりが離れていくのが、どことなく肌寒く感じてしまうのは気のせいだろうか。揃いの碧眼に映すものはいつだって両親や自分だけだったのが、月日が経つにつれてさまざまなものを映し、より一層輝きが増していった。それが誇らしくて、ほんの少しばかり寂しい。
 連休中に屋根の上で泳いでいた鯉のぼりが頭によぎる。一番大きくててっぺんにいる黒い鯉がお父さん、二番目がお母さん、その下が子どもたち。どこかで教えてもらった鯉たちの家族構成。
 空を泳ぐ魚たちはいつまで経っても変わりはしないけれど、現実は違う。繋がっていた糸から口を離して、大きくなった子ども鯉は広い世界へと飛び出していく。
 妹が向かう先にはきっと見渡すばかりの大海原が広がっていることだろう。美しくも厳しい世界が。冷たい海水は時として荒々しい波で小さな身体を押し流し、傷に塩水は沁みることもあるはずだ。それでもピンクの鯉はいつもの二人を引き連れて、荒波には大口を開けて笑い、さんさんと陽が降り注ぐ穏やかな海面では元気いっぱい跳ねまわっていることだろう。
 先に外に飛び出たお姉さん鯉はそれをどんな気持ちで眺めているのだろうか。いつも自分の下で守られていたはずの小さな存在が、自由に世界を謳歌する様を。
 きっと微笑ましさと愛おしさとひとかけらの寂莫を胸に抱いて、波間から覗く桃色を見つめていることだろう。
 まだ五月だが、既に夏の足音が近づいてきている。先に大海に飛び出す者として、下に誇れるような泳ぎ方を示したいものだ。
 るりは眩い光に目を細める。遥か彼方に浮かぶ雲の間からきらめく鱗が見えた気がした。


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