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【短編小説】2元1次方程式Yの解

Xが求められればYを求めるのはずっと楽になる。
前回書いた「兄弟のねじれ連立方程式」

の別視点の話です。弟が思うほど兄は嫌っていない話。

「一つ相談があるんだが」
「おうどうした」

 ぐるりと向き直った友はにんまりと笑う。こちらの言いたいことなどお見通しなのだろう。彼の飲み込みの速さと器の広さには脱帽する。彼の柔軟さの十分の一でもあれば今のような状態までならずに済んだのだろうか。

「おいおい、勝手に落ち込むなよ。まずは口に出してみな? 俺も一緒に考えてやるし、何よりちっとは気が楽になるだろ」

 知らず知らずのうちに表情に出ていたようだ。苦笑しながら彼が頭をかき混ぜる。

「ああ、すまない。つい」
「いいって。で、弟君のことか?」
「ああ。俺は弟を全く見ていなかったんだなと思って」

 空はいっそ寒々しいほど青く澄んでいる。あの日もそうだった。弟が幼馴染たちと共に無断欠席した日は。追い詰められた弟をすくい上げてくれた少年少女の後ろ姿が脳裏をよぎる。

「でもお前の家庭の事情もあんだろ。お前だけが悪いわけじゃねえよ」
「だからといってこのままじゃいけないだろう。俺は龍とも腹を割って話しあえるような関係になりたいんだ。重大なことじゃなくてもいい。その日あったどんなに小さいことでもくだらないことでも、何でも話せる仲になりたい」

 あの日、率直に思ったことを口にしたとき、弟は信じられないようなものを見る目つきでこちらを眺めていた。まるで否定されるものと決めつけていたかのように。自分のことを認識していたのを初めて知ったかのように。
 ――ああ、弟にこんな表情をさせるまで俺は何をやっていたのだろう。
 思えば振り返ったことなどなかった。理想高い父の望みを叶えることで、それで母の負担を減らせるものだと思っていた。弟の手本になれると信じこんでいた。己の背を見つめる弟の眼差しがどのような色だったのか確かめもせず。
 一度弟が潰れてしまったときも、その手を引っ張り上げたのは自分ではなく、弟の幼馴染たちだ。テストの答えを素早く弾き出す頭は、解決策の一つすら導き出せず、教師のどんな質問にも滑らかに答えてきた舌は錆びついてしまった。藁屑つまったカカシのほうがまだまともな脳みそだっただろう。

「なるほどねえ。つまり弟君ともっと仲良くなりたいと」
「ああ。そのためにはどうしたらいい」

 自分たちの冬は長すぎて、降り積もった雪の壁は互いの姿すら見えなくなってしまった。もう手遅れなのかもしれない。だが何もせずにただ立ち竦んでいるだけでは何も変わらないではないか。

「うーん、じゃまずはさ、挨拶から始めたら?」
「挨拶?」
「そ。おはようとかおかえりとか。一言でいいからさ、まずは弟君とふれあう時間を少しでいいから作っていこうぜ。長期戦になるかもしれねえけど千里の道も一歩からっていうだろ?」

 そんな簡単なことでいいのだろうか。もっと何かしたほうがいいのではないか。

「とーらーちゃーん。その簡単なことが実は大切だったりするんだぜ? というか今無理に構ったところで逃げられるだけだろ」

 突然伸びてきた手が己の頬を引っ張り、強制的に口角が上げられる。眉間に皺をよせれば、元凶はあっさり離れていった。

「虎ちゃんと呼ぶな」
「悪い悪い。虎徹こてつがあまりにも辛気臭い顔していたから笑顔にしてやろうと思って」
「だからといって物理的に笑顔にする奴がいるか。……でも助かった。お前の言う通りだ。まずは小さなことからしっかりやっていかないとな」
「おう! いい知らせを期待しているぜ」

 友は快活に笑って手を振った。


 下校時間を知らせるチャイムが鳴り響く廊下。視界の端に金にもみえるライトブラウンがひらめいたような気がして目を向ければ、靴箱の前で弟の幼馴染二人が話に花を咲かせていた。外気とは対照的に二人に流れる空気は春のひだまりのようであった。
 ふいに彼らが振り返る。青と黒が同時に瞬いた。

「さっきからじっと見ているヤツ誰? お前の知り合いかごん?」
「いや知らない人だけど。お前の知り合いじゃねえなら俺たちが騒がしかったんじゃねえの?」
「そんなに声出したつもりないけど」

 首をひねる二人に虎徹は慌てて口を挟んだ。

「いや微笑ましいなと思って眺めていただけなんだ、すまない」
「あっそう。ならいいけど」

 少女はあっさり背を向けたが、もう一人の少年は違った。

「あっ、もしかして龍の兄ちゃん?」
「え、ああそうだな」
「だよなあ! なんとなく雰囲気にてんなーって思ってたんだ」

 ぱっと顔を輝かせ、少年は一気に距離を詰めた。輝く瞳で見つめられて、虎徹は一歩後ずさる。

「なに? アイツの兄さん?」

 少女も踵を返してこちらに寄ってきた。しかし見上げる碧眼にはやや北風が吹いている。

「えっと俺に何か?」
「別に私は何もされてないけど」

 即座に返された言葉には棘がむき出しだ。だが彼女の態度が分からない。当人が認めたように自分は何もしていないのだ。

「でもアンタ龍になんかしたでしょ。最近アイツ変なのよ」
「そういやそうだよな。なんかまた難しそうな顔しているし。まあ前みたいにヤバそうな感じじゃないけどさー」

 少年はこーんな感じでと目までつぶるほど眉間をよせてみせた。

「あ、あと龍は日直だからちょっと遅くなるって。探してたらごめんな」
「おいごん、そんなことはどうでもいいだろ。今は私の質問が先」

 で、どうなのよと言わんばかりに少女が一歩詰め寄る。

「いや何もした覚えはないが……。強いて言うなら反省か?」
「反省?」
「はんせい?」

 全く同じタイミングで二人が首をかしげる。

「ああ。今まで弟にはちゃんと向き合ってこなかったから、今さらかもしれないが兄弟らしいことをしてやりたくて」

 もっとも彼らにとっては鼻で笑うようなことだろう。一番辛いときに支えたのは二人であるし、何より弟に寄り添ってきた二人に顔も覚えられていない時点でたかが知れている。何だったら自分よりも彼女の姉や彼の従兄弟のほうがよっぽど世話をしてきたはずだ。
 彼らの瞳に自嘲する己が映る。と、突然彼女が口をへの字に曲げたと思った瞬間、背に衝撃が走った。パンッと乾いた音が響き渡る。

「お、おいさくら!?」

 ぎょっと少年が目を見開いたが、彼女は彼に一瞥も投げず、仁王立ちのまま言い放つ。

「兄弟そろってなよなよジメジメ鬱陶しい。私らにそんな顔向けるくらいならさっさとアイツの腕引っ張って引きずり出すくらいのことはしろ。どうせ何取り繕ったところでやることは決まっているんだろ」

 鼻を鳴らした少女はさっと髪をたなびかせ、外へ行ってしまった。

「あ、ごめんなさい。背中痛くない? 大丈夫? アイツ本当とんでもないことを」
「いやいいさ。むしろ発破をかけてもらって礼を言いたいくらいだ」

 顔を真っ青にして謝り倒す少年を押しとどめて虎徹は小さく笑った。後ろはじんじんと痛みを発しているが、胸を覆っていた暗雲はきれいさっぱりなくなっていた。

「おーいごん。早くしろー! 何ぼさっとしてんだ」
「お前のせいだろ! 今行く!」

 彼女の呼び声が伸びやかに響く。もう一度頭を下げ、彼は駆けていった。


 平凡な住宅街を歩く。慣れ親しんだ道は幼い頃からほとんど変わらない。ふいに虎徹は足を止めた。ここに本来いるはずのない人物が紛れこんでいたからだ。

「輝生さん?」

 その人物がおもむろに振り返る。思い描いた通りの描いていた顔を認めた瞬間、虎徹の脚は動き出していた。

「やっぱり輝生さんでしたか。お久しぶりです。帰省ですか?」
「僕が帰省ってなんかダジャレみたいになっているよ」
「えっ、あ、すみません。そんなつもりじゃ……」
「わかっているからいいよ」

 微かに微笑んだ青年は炎野輝生えんのきせい。在校していた頃、彼は自習室の常連で、同じく自習室の常連だった自分はよく分からない問題などを教えてもらったものだ。

「三連休だから帰ってきたんですか? やっぱり弟さんに会いに?」
「それもあるけど、ちょっと必要な書類を取りにね。みんな忙しいし、僕は時間あるから」
「そうなんですね。弟さんには会えました?」

 たしか二人の弟のうち上の子は自分の弟と同い年だったはずだ。もし会えたならばどんな話をするのだろう。
 輝生はすっと目を遠くに向ける。その横顔は冬の木立のようで、どきりとした。

「会えたよ。相変わらず元気みたい。まあ話をするまでもなく出ていっちゃったけどね」
「えっ」

 思わず声が漏れた。輝生と彼の弟はそこまで冷え切った関係だったのか。

「そういや君の弟君も元気?」
「あ、はい。でもうちも似たような感じですよ。今までろくに向き合ってこなかったので自業自得ですけど」

 気が動転して言う予定のないことまで打ち明けてしまった。慌てて輝生を彼の顔を見ると、彼は虚をつかれたように目を丸くしている。

「……そう。がんばってね。僕たちみたいにならないように」
「でも輝生さんだって、まだ遅くはないんじゃないですか? だって輝生さんは……」

 それに輝生は答えず、ただ寂しげな笑みを浮かべただけだった。

「そんなことよりここで油売っている暇はないんじゃない? 時間は有限なんだから。君はまずやるべきことがあるだろう」

 言い投げるや否や輝生は背を向け、歩き去っていった。

「そっくりそのままお返ししますよ……」

 呟いた一言が虚しく地面に落ちる。虎徹は知っていた。かつて彼の大学の志望理由を。
『僕の末っ子病弱だから医者になって少しでも楽になるようにしたいって思ったのがきっかけかな。あとは白海、うちの次男坊なんだけど、そそっかしくていつも怪我ばかりするからちゃんと診てやらなきゃなあなんて思ったんだよね』
 細められた瞳にはたしかに弟たちに対する愛情がこもっていたというのに。きっと彼の弟は知るまい。あの目つきを。あのときの温度を。
 落ち葉を巻き上げる乾いた風が鼓膜をひっかいていった。


「ただいま」
「おかえり」

 まずは友のアドバイス通り挨拶から。ぎょっと弟の目がこちらに向いた。

「……なに、いきなり」
「ただいまと言ったらおかえりと返すのが筋じゃないのか?」

 弟は一歩後ずさった。おかしい。何か変なことを言っただろうか。
 静寂が流れる。視線を彷徨わせていた弟はやがてきっとこちらを見据えた。

「兄貴はさ」
「なんだ」
「一体何がしたいわけ? いきなり態度変えてきてさ」

 睨みつけるその顔は毛を逆立てた猫のようだ。友に猫の扱い方について今度尋ねてみたほうがいいかもしれない。
 虎徹はその視線を真正面から受け止めた。

「そうだな。お前が不審に思うのも無理はない。だが、俺はお前とちゃんと話をしたいだけだ」
「今さら?」

 弟がせせら笑う。虎徹は表情筋一つ動かさず頷いた。

「たしかにそうかもしれない。俺たちは今までろくに会話もしたことがなかったからな。それは俺が悪い。お前には詰る権利がある」

 そこで一度呼吸を整える。

「その上で、都合のいいことをと思うだろうが請いたい。もっと腹を割って話しあえないだろうか。俺は普通の兄弟のように出かけたり共通の話題で盛り上がったりしてみたい」
「……そんな暇ないくせに。俺の趣味だって知らないだろアンタ」

 こちらから逃げるように視線を床に落とし、龍はぼそぼそと呟いた。

「だったら教えてくれ。お前の好きなことを」
「どうせ理解できないだろ」

 未だ視線は交わらない。根気よく虎徹は訴えた。

「そうとは限らないだろう。もしかしたら気に入るかもしれないし、そうでなくてもお前のことを知ることができるのは嬉しい」

 とうとう弟は小刻みに震え出した。と、次の瞬間突風が吹く。遅れて耳に届いたのは荒々しく階段を駆け上がる音。ドアを強く閉める音が終止符を打つ。それでも駆け抜けた際の一言ははっきりと聞こえた。

「兄貴は未知数Xか何かかよ」

 残されたのは冷え切った玄関に佇む自分一人。

「……つまり俺が理解できないということか?」

 無論答えてくれる人物はいなかった。


「で、それでどうなったんだって?」
「結局その日は夕飯になっても姿は見えなかったな。朝皿は洗ってあったから俺がいない間に食べていたと思うが」

 あっはっはっはと腹を抱えて笑い転げる友にそう返すと、余計に笑い声が大きくなった。口からひきつった息が漏れ、過呼吸寸前だ。ビニール袋は鞄の中にあっただろうか。虎徹が机の横の鞄に手を伸ばしたときだった。

「で、未知数Xの虎ちゃんはどうするんだ?」
「だから虎ちゃんと言うな。で、あの後考えたんだが」

 目尻に涙をためた濡羽色がこちらを見つめている。虎徹は息を吸い込んだ。

「弟は数学が好きだ。そしてXは式の中で値を求めようとする数。つまり今は分からないが、これから歩み寄っていきたいという弟なりの前向きな回答なのではないだろうか」

 眼前の黒が大きく見開かれる。ぽかんと開いた口はやがて弧を描いた。

「お前やっぱ面白いわ。お前のそういうポジティブなところ大好きだぜ」

 笑いながら友がバシバシ背を叩く。それを振り払いながら虎徹は今朝の一幕を思い返していた。
 すれ違っても目線は合わず、行ってきますにも返ってくる言葉はなかった。が、扉を閉める瞬間、いってらっしゃいと空気に溶けた一言は、たしかに胸を暖かくしてくれたのだ。
 寒風にも微かに梅の香が匂う。差し込む日差しは眩かった。

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