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【短編小説】極北の秋

どんなに遠く離れても世界はつながっている。
ある男と北極と紅葉の話。

 どこまでも見渡せるような、だだっ広い丘が眼前に広がっている。短い夏を謳歌した草葉が青々とした緑から生命の終わりを表す鮮やかな赤へと変わっていた。

「まさか北極圏でもこんな景色が見られるなんてな」

 雄大な自然を前に男は呟いた。延々と続く枯れ草の絨毯は美しいが、どこか単調で終末的だ。さすが世界の果てである。
 同時に瞼の裏に赤ん坊の手のひらのような真っ赤な葉がひらめいた。そうだ、紅葉といえば子どもの頃、舞い散る葉を捕まえようと手を伸ばして、それをみた両親が笑って――
 湧き上がる記憶はそこで中断した。郷愁の後に隠し切れない苦々しさがこみ上げる。男は首を振った。
 いけない。郷里の思い出に浸るためにここに来たわけではないのだ。

「吞気にこれをみている暇はないがな」

 誰が聞くわけでもないのに言い訳じみた言葉を口にし、男は車に乗りこんだ。
 カナダ、ノースウエスト準州。カナダの北西部に位置し、北西準州とも呼ばれる。一部が北極圏に属しており、一年の大半を厳しい寒さが支配している土地だ。
 男はその北極海を目指していた。なぜ、と尋ねられると言葉に窮す。強いて言うなれば祖国くにの欠片もない、世界の最果てとやらを目に焼きつけたかったからだろうか。
 まあそれも先ほどの光景で無に帰した気がするが。それでもせっかくここまで来たのだ。どうせなら北極海をみてから帰国したい。男はアクセルを踏みこんだ。
 世界の果てを見てみたい。それは幼いときから心に抱いていた夢だった。
 しかしそのためだけに辞表を叩きつけて、上司の怒声も両親からのメッセージも全部無視して遠い異国の地へと飛び出すなんて、当時の自分は考えもしなかっただろう。だが今思えば、スマホで何気なくカナダへの行き方を検索していた時点でそのはあったのだ。当時は無意識下の行動だったが。
 まあそれを抜きにしてもいかれている。狂っている! とヒステリックに叫ぶ母親の声が耳元でつんざいた気がした。車のスピードメーターが大きく右上に動いた。
 この突発的な逃避行にあてた金は学生時代に貯めた貯蓄だ。まさか大学時代に詰めに詰めこんだバイトの貯金がここで活きるとは思わなかった。月並みな言葉ではあるが、本当に人生予想外のことばかりだ。

「まあ一番予想外なのは今の俺か」

 男は自嘲した。
 いったい自分はどこで間違ってしまったのだろう。学生でいた頃はまだ普通の幸せを享受していたはずだ。一般的な家庭で育って、他と同じように大学に入って、彼女もできて、他と同じように就職したというのにどこで差がついてしまったのだろうか。
 毎日上司に怒鳴られて頭を下げて、同僚から投げかけられるのは冷ややかな視線か冷笑。身体も心も疲弊して帰宅するのは日をまたぐ寸前。これでも前よりはよくなったのだ。だがそれは雀の涙程度の慰めにしかならない。できて、その場しのぎの痛み止めだけだ。
 実家に帰省すれば、飛び出てくるのは結婚か孫のどちらか。他人と付き合う余裕もないのに結婚、ましてや子どもなど夢物語だというのに、両親はいつまでも諦めきれないらしい。
 やっぱり茉莉香ちゃんと続いていれば……。と、頬に手をあてて嘆息する母の姿が浮かび、男は唇をかんだ。そう言って彼女との関係に口を挟んだのはどこの誰だ。高卒だから釣り合わないと激しく糾弾した母と、黙って見て見ぬふりをする父親。最後に謝罪と別れを告げた彼女の声は涙に濡れていた。
 いや違う。わかっているのだ。本当に悪いのは誰かなんて。今の職場を選んでしまったのも、母から彼女のことを守れなかったのも、誰の責任であるかと言われれば答えは決まっている。
 極地の道は真っ直ぐで単調だ。一年の大部分が氷点下であることが当たり前の極寒の地が許すのは僅かな植物のみ。長い旅路を共にする相棒はすっかり土埃まみれだ。
 一度ガソリンスタンドを逃すと、次に補給できるのは数百キロ先のため、補給場所には注意を払う必要がある。
 時刻はすでに祖国ならば夕暮れに差し掛かる時刻。しかし、夜が長くなってきたとはいえ、少し前まで白夜だったこの地はまだ明るい。灰色の雲と鮮やかな赤。そして道路の土色。だがどこか色あせてみえるのは、色にグラデーションがないからだろうか。
 行き違う車もほとんどなく、ただどこまでも続いていく一本道を男は走り続けていた。


 このまま街につかないで夜になってしまうかと内心ひやりとしたものの、無事にたどり着くことができた。
 イヌビック。シロクマが出迎える空港もかかえているものの、人口三千人程度のこぢんまりとした小さな町だ。
 ガソリンスタンドによって燃料を補給した後、ホテルを探しに向かう。ホテルの数は片手で収まるがどこも割高であった。背に腹は代えられないのでここは諦めるしかない。
 男は適当なホテルの一室を借り、町を散策することにした。殺風景な景色を少しでも明るい気分で過ごすためだろうか。家々の壁はカラフルなオレンジや緑に塗られていた。
 町の象徴であるイグルー型の教会も見た。なるほど、たしかに白いドーム型の上にちょこんと十字架がのった建物はイグルーをモデルにしていると言われれば納得できる。先住民族は定住してしまったため本物を目にすることはできないが、教科書でみた雪のドームが建てられていた土地に、こうして足をつけて立っているというのは何とも不思議な気分であった。
 ハスキーを何頭もつれている人も見かけた。冬になれば犬ぞりに使うのかな、なんてぼんやり考えながら地元のスーパーに入った。
 思ったよりも品数が少ない。てっきり北国なのだから魚介類が豊富だと思っていたのだが、並ぶのは肉ばかり。魚介類は缶詰しかなかった。
 結局買ったのは冷凍のピザで、ホテルの電子レンジを借りて侘しい食事を済ませた。

「これじゃ普段と変わらないな」

 苦笑いがこぼれ落ちる。しかし常とは異なる点が一つ。九月でもさすが極地。夜は息が白くなるほどだ。これでは夜に出かける気もおきない。
 異国の地で自分はいったい何をしているのだろうか。いやこんなことを考えるのさえ馬鹿馬鹿しい。もうすでにカナダ行きの便に飛び乗った時点で十分馬鹿げている。
 こういうときはとっとと寝てしまうのが吉だ。幸い長旅で疲れきっていた体は瞼を閉じた瞬間、夢の世界へ旅立った。


 次の日。車で行ける最北端、トゥクトヤクトゥク村を目指す。
 相変わらず平坦な道だ。ただし昨日とは違って曲がりくねった道である。店はおろか家一軒も見当たらない。青空が広がり、遠くのほうには鮮やかな赤が見える。海と紅葉。奇妙な組み合わせだ。
 ああ、赤といえば、赤とんぼを指先にとめる遊びをしたことがある。あのとき一緒に遊んだ彼らは元気だろうか。刹那、夕陽を目指して駆け出す子どもたちが脇を通りすぎていく幻覚がちらついた。ずきりと胸が痛んで男は顔をしかめた。
 百四十キロ以上も離れているので現地についたときにはずいぶん日が高くなっていた。途中で同じ旅行者らしい団体とすれ違う。こんなところでも旅行ツアーやっているのかと、素直な驚きが顔を出した。なんて物好きなのだろう。もっとも人のことは言えないが。
 トゥクトヤクトゥク村は道路も舗装されていない寂しい村だった。広大な土地の中でぽつんと一か所にまとまっているせいか、まとまっているのにどこか家々の間が寒々しい。そのまばらさは北海道の田舎町を連想させる。
 観光客向けの施設は数軒のゲストハウスと一軒のレストランのみ。ちらりと流し見したところ鯨やらベルーガやら他では見かけない食材が使われているようだったので、場所を心の中に書き留めておいた。
 男は本来の目的である北極海を真っ先に目指した。そこまで歩かないうちに目的のものは姿を現した。
 目の前に広がる青灰色の海。冬国の海らしい暗い青だ。九月は氷が少ない時期なだけあって氷山は遠くのほうに白い点がぽつんと浮かんでいるだけだった。氷雪に覆われていない裸の大地は禿山のような色合いで、寂寥感を強めるのに一役を買っている。
 てっきり大きな氷山がひしめいて、轟音とともに崩れ落ちるような壮大な光景がみられると期待していただけに、失望感が否めない。地球温暖化を舐めていた。男は内心舌打ちした。

「おい、まさかお前日本人か?」

 ふいにかけられた言葉は祖国の言語。男は弾かれたように振り返った。そこには一人の中年男性が立っていた。肌は日に焼けたように黒く、白髪混じりの短く刈りかまれた髪に笑い皺の刻まれた顔。北極海よりも大阪の繫華街で飲んだくれているほうが似合う見事なおっちゃん顔だった。

「こんなところで、しかも団体じゃない同胞にあえるなんてなあ」

 中年男性は増川と名のった。初対面にもかかわらず馴れ馴れしく肩を組んで、増川は海岸の岩に座るよう促した。

「んで、あんちゃんはなんでこんなところに一人できたんだい」

 隣の岩を叩きながら増川は問う。周りを見渡してみたが、あるのは砂利やススキのような草、後ろにはぬかるんだ道路。男はため息をついて増川の隣に腰を下ろした。


「へえ! 仕事辞めて北極海を見に単身ここまで乗りこんでくるとはな。なかなかロックな生き方しているじゃねえかあんちゃん」

 増川がバシバシと肩を叩く。男は眉根をよせつつ、それを黙って受け入れた。
 増川の言うことは間違っていない。海外旅行の経験が皆無ではないとはいえ、久しぶりの旅行で、しかも慣れない長期運転をし続けたのだ。舗装されていない道路も多かったというのに、だ。事故も起こらず、トラブルにも巻きこまれず、ここまでたどり着いたのは奇跡という他ない。

「んで、どうよ。憧れの北の果ては」
「……正直、期待外れでした」
「ん?」

 増川が顔を覗きこむ。その目は興味で輝いていた。

「俺、ここにきた理由、小さい頃からの憧れっていうのもあったんすけど、こんな世界の果てまできたら、国のことなんか思い出さないだろうって思ってたんです」

 男は前髪をかきあげた。

「でも、こんな最果てにも紅葉はあるし、故郷と同じ赤さだし。なんで、なんで今になって昔のことばかり……」

 髪をくしゃりと握りつぶす。奥歯がこすれて嫌な音がした。
 そうだ。それが嫌で仕方がなかったのだ。何もかもから逃げ出そうと思ってわざわざ世界の果てまでやってきたのに、なんで煩わしい祖国の記憶を突き付けられなければいけないのか。天に唾を吐きたい気分だった。
 増川はそんな男の様子を眺めていたが、ふいに事もなげに言い放った。

「そりゃあそうだろう。おんなじ世界に生きてんだから」

 まるで今日の夕飯を告げるような気楽さだった。男は増川をきっと睨みつけた。

「は? おんなじ世界って、あんたここをどこだと思ってんだ。地続きで繋がっている場所じゃねえんだぞ」
「そりゃあ大陸と島じゃあつながってないかもしれねえがな。でも」

 増川はすっと前を指差した。

「海は繋がってんじゃねえか」

 男はとっさに返す言葉が出てこなかった。ただ酸素を求める鯉のようにぱくぱくと口を開け閉めすることしかできなかった。

「い、いや、それはそうですけど……。でも俺が言いたいのはですね……」
「あんちゃん、なんかごちゃごちゃと邪魔なもんばかり背負ってんな」

 増川は唐突に立ち上がると、足元の石を拾い上げるや否や、思い切り投げた。ぽちゃんと落ちた小石はあっという間に波間に飲みこまれて消えてしまった。

「そういやトゥクトヤクトゥク村のレストランにはよってみたか?」
「いやまだですけど……」

この後行く予定だった。が、そこは飲みこんで、戸惑いを隠さぬまま増川を見上げると、彼はにっと笑いかけた。

「じゃ、俺がおごってやらあ。あそこのベルーガの干し肉は一度食べたら忘れられねえぜ」

 何がおかしいのかげらげらと下品な笑い声を上げて増川は手招いた。男は逡巡したが、特に予定もなかったので、結局増川の後をついていった。


 増川おすすめのベルーガの干し肉は何とも言えない素朴な味だった。自分はもう一度食べたいとは思わない。
 増川はまだトゥクトヤクトゥク村に用があるようで、もう一日ほど滞在すると話した。

「そういやあんちゃんはもうオーロラみたか?」

 男は首を振った。この旅の目的は北極海をみることだったから、空なんて悪天候になるかどうかを確かめるくらいで能天気に星空観測する気はまるでなかったのだ。

「じゃあここにいるうちに見ておきな。もう白夜も終わったから見れるだろう」

 そんな簡単に見られるもんか、と思ったが、男は頷くだけに留めた。言い返して余計に話を引き伸ばされるのも御免だった。イヌビックまでの移動時間もある。ただでさえ食事中、増川のカナダ談義に付き合わされたのだ。もう満腹である。
 だから男が疲れた体を引きずって外に出たのは決してあの中年男性特有のウザ絡みに触発されただとか、そんなわけではないのだ。
 イヌビックの町はぽつぽつと明かりが灯るくらいで閑散としていた。町中で空を見上げるのもなんだからと、少しだけ町の外に出た。それまで意地でも上は見なかった。
 元々人口がそれほど多くない町だ。人通りは少ない。ましてや日が落ちた夜は推して知るべしだ。

「そういや結局あの人、何しにここに来ているんだか知らないままだったな……」

 増川は男から話を聞き出すばかりで彼自身のことは何一つ明かしていないことに今さらながら気がついた。まあいい。もう会うこともないであろう人間のことを考えても仕方がない。
 厚着をしても冷気は容赦なく隙間から滑りこんで肌を刺す。
 星の一つでも見られれば御の字だ。さっさと結果だけみて帰ろう。男は勢いよく顔を上げ、ひゅっと息をのんだ。
 夜闇に悠然とはためくのは虹のカーテン。目を凝らしてもその端を見ることは叶わない。澄み切った空気と相まって幻想的なその姿は、夢だと言われれば信じてしまうほど現実感がなかった。
 ああ、と男は吐息を吐き出した。なんだか今まで悩んでいたことが酷くちっぽけに思えてきた。この雄大な自然の前では、全てが小さくつまらないものに等しい。
 男は地面に大の字になって寝転んだ。視界を満たすのは星々の輝きと揺らめく極光だけだ。男の眦から熱いものがこぼれ落ちた。一度流れ出すと止まらなくなり、次から次へと雫が膨れ上がっては重力に従って地面に落ちる。
 でもちっぽけでつまらなくとも、自分は生きている。たしかにこの世界で息をしている。この美しいものと同じ世界に存在している。なんだかそれだけでずいぶん得をしている気がした。

『今度はそのめんどくせえもん置いてから来な。そうすりゃ見方も変わるってもんだろう』

 ふいに増川の言葉が反響する。
 ああ、そうだな。また来たい。自然とそんな答えが浮かんで男は苦笑した。
 今度行くときは北極海を巡るツアーに参加してみようか。そして今度は生きているベルーガを見よう。青に浮かぶ氷山の塊を見よう。ホッキョクグマやセイウチも見てみたい。もう一度ベルーガの燻製に挑戦してみるのもありだろう。

「ま、今は帰るか」

 男は尻を払って立ち上がった。
 昼間の青と赤のコントラストがよみがえる。それはいつの間にか色づくもみじへと変化し、懐かしく眩い思い出へと姿を変えていく。
 いや過去の輝きにすがっていては駄目だ。まだ自分の人生は終わっていない。自分の可能性は終わっていない。なんたって一人で北極海まで行ってみせたのだから。
 ああ、そうだ。祖国くにに帰ったらもみじをみよう。真っ赤に燃えるもみじを。
 町に向かって歩き出す男の足はしっかりと北限の大地を踏みしめていた。

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