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【小説】幻獣病理医パトロギの事件簿 第八話

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第八章「転機」

 パトロギが鍵を回したのは小鳥のさえずりも妖精たちの軽やかな笑い声も響いていない、早朝のことだった。外はしっとりとした濃紺の帳が包んでいる。
 パトロギは明かりをつけ、ずらりと並んだ分厚い本の背に手を伸ばした。

「おはようございます先生。早いですね」

 挨拶と共に茶を置いてくれたパフィンにもろくに返事を返せなかった。机の上はいくつもの本が開きっぱなしになっており、さらに床にまで分厚い学術書やファイルが山となっている。しかし文章は滑るばかりでろくに頭に入ってきていなかった。
 一瞬、専門用語が並ぶ文字の塊に視線を落としたパフィンだったが、栞を挟んで脇にどけた。あまりにもよどみない動作に止める暇もない。

「パフィン君」
「でもあまり無理をしても体に障りますよ。適度な休憩も必要です」

 咎める声はそれを上回る強い語気によってかき消された。じっとこちらを貫く緋色から逃れるようにカップに手を伸ばしたそのときだった。

「おはようございまーす。……ゲホッ」

 咳と共に入ってきたのはもう一人の職員、ウィローだった。昨日よりも毛艶が悪く、咳までしている。パトロギとパフィンは揃って眉をひそめた。

「珍しいね、ウィロー君。いつもは始業ギリギリにやってくるというのに。まあその心構えは感心だが、体調が悪いなら無理してくる必要はない。今日はもう帰りなさい」
「そうよ。変にこじらせて倒れたりしたら目もあてられないわ」
「大丈夫ですよう。昨日ちょっと夜遅くまで調べものしていただけなんで。こんなの薬飲めばすぐによくなります」

 ウィローは腰に提げたカバンから小瓶を取り出した。クリーム色の粒が転がり出てくる。肉球の上にきっかり三つのせて、ウィローは一気に飲みこんだ。

「すいません、水もらってもいいです? やっぱり水ないときつかったんで」
「飲みこむ前に頼みなさいよ、まったく」

 顔をしかめて舌を出すウィローに呆れたため息をついて、パフィンは給湯室に入っていった。

「僕、薬飲むの苦手なんですよね。たいてい苦いし、特にかぜ薬なんて気をつけないと、猫系には禁忌って薬結構ありますしね。間違って飲んじゃったら大変なことになっちゃいます」
「それは君の宿命だろう。かぜ薬の成分の中には猫にとって有害な成分を含んでいるものもあるんだ」

 猫の要素をもつ幻獣は一部の薬の成分を分解する力を持たないため、裏に書かれた注意事項を確認するのは常識中の常識だ。
 そこまで考えたところでパトロギの手が止まった。
 ふと何かが頭に引っかかったのだ。痛風様の症状。腎臓にみられた組織壊死。鳥人。訴えていた喉の渇き。――そして一週間前の発熱。

「ほら持ってきたわよ」
「ありがとうございます」

 喉を鳴らしてウィローは水を飲み干した。パフィンが小さな子どもにするように口元を拭いてやりながら、小言にも満たない注意をしている。
 パトロギの手からカップが滑り落ちた。突然の物音に二人が目を丸くしてパトロギを振り返った。

「どうしたんですか先生。ああ、私拭くもの持ってきます!」

 駆け寄ってきたパフィンに目もくれずパトロギはウィローの手を握りしめた。

「ウィロー君ありがとう」

 ぽかんとウィローが口を開く。

「え、先生本当にどうしちゃったんですか」
「君のおかげで謎が解けたかもしれん」

 沈黙が落ちた。一拍おいて悲鳴が響き渡る。

「え、ええええ!? 先生それ本当ですか?」
「先生、どういうことか説明してください!」

 二人が飛びかからんばかりに詰め寄ってくる。パトロギは手で制しつつ戸口へと足を向けた。

「それを今から確認しに行くんだ。急いで準備したまえ。もう一度ベスティアに行かなければ」

 パトロギは白衣をはためかせ、足早に玄関へと歩き出す。背後から大きな物音と困惑の声がしたが、頭の中は既に思い浮かんだ仮説でいっぱいで、それは右から左に通り抜けていくだけであった。


 パトロギが真っ先に向かった先はグリドゥラが訪れた薬局であった。一直線に解熱剤コーナーに向かい、並べたてられた箱をひっつかむ。箱の裏にさっと目を通し、そのうちの何個かを買い物かごに放りこんで、踵を返した。

「またあんたか。何か用?」

 サルの獣人は頬杖をついて、けだるげに問いかけた。

「ああ。例のガルダの青年が買った商品を教えてもらえるだろうか」
「そんなの覚えているわけがないだろ」

 彼女は煙管を吸って、紫煙を吹き出した。煙草独特の匂いが鼻腔にこびりつく。視界の端でウィローが思い切り鼻をつまんでいた。

「ではこの中にあるもので見覚えのあるものはあるかね?」

 かごを突き出す。煙管を灰皿に叩きつけて、店員は箱に手を伸ばした。一個とってはかごの中に放り投げ、また別の一個を手にとる。数度同じ動作を繰り返し、店員はやがて一つの箱をパトロギに投げてよこした。白地に青の文字で解熱鎮痛剤と書かれているシンプルな箱だった。

「多分これ。で、満足?」
「ありがとう。いくらだ?」

 店員は素っ気なく値段を告げた。パトロギは値段きっかりの銅貨をトレイに置き、箱をカバンにしまうと駆け足で店を飛び出した。

「パフィン君、すまないが郵便局まで一走り行って速達便を頼める妖精族がいないか聞いてきてくれるかい? 妖精族がいなくても獣人の中でとびきり足が速い者がいればそれでも構わない。それからウィロー君、ちょとそこの雑貨屋まで行って封筒を買ってきてほしいんだ。頼む」

 ウィローの手に銅貨を握らせながらパトロギは鬼気迫る表情で頼みこんだ。

「え、あ、はい。わかりました。今すぐに」
「後で説明してくださいよ、先生」

 二人は風のように去っていく。その間にパトロギ紙を取り出し、壁を机代わりにペンを走らせた。

「持ってきましたよ先生」
「すまないなウィロー君。ありがとう」

 手紙と一緒に、解熱鎮痛剤のカプセルを数個封筒の中に入れて封をする。宛先を書き終わったちょうどそのとき、パフィンもやってきた。

「連れてきましたけど、この方でもいいですか?」

 息を切らしてパフィンが連れてきたのは俊足で名高い風の精だった。金髪に尖った耳。葉で作られたワンピースが巻き起こる風にそよいでいる。

「ああ。十分だ。すまないが、この住所宛てにこれを届けてもらえないだろうか」

 人間の幼子よりも小さな手に何枚もの銀貨を握らせた。妖精は目を大きく見開き、何度もパトロギと己の手のひらを見比べた。当たり前だ。渡された金は相場よりもかなり高い。喜色満面の笑みを浮かべて今すぐにも突風に乗って走り出しそうな妖精に、パトロギは低い声で呼び止めた。

「ただし、いたずらは厳禁だ。というより君が今から届けに行くところは高額なものがたくさん置いてあるのでね、いたずらを起こした時点で、今渡した金額の何倍もの弁償をすることになるだろう。いいかね、決してやるんじゃないぞ」

 妖精は神妙な顔でこくこくと頷いた。

「そうか。では行ってくれ」

 身体が思わずかしぐほどの風を巻き起こし、風の精はあっという間に空の彼方へ消え去った。パトロギはそれを口元を緩めて見送った。そして二人のやり取りを黙って見守っていた助手たちを振り返る。

「さてパフィン君、ウィロー君、後は結果を待つだけだ。帰りがてら私の話でも聞くかね?」
「そうこなくっちゃ! 満足のいく説明期待してますからね、先生」
「ええ。私も是非とも聞きたいです」

 ウィローは顔を輝かせ、パフィンは真剣な顔つきでパトロギを見つめた。パトロギは微笑みを返し、並木道を歩き出した。

「今朝まで全く気づかなかったが、この事件の鍵は発熱なのだよ。ガルダの青年が一週間前にだした熱がね」

 ウィローが片眉を跳ね上げた。

「熱? でもその原因は風邪だったって判明したんですよね? それに熱だけじゃあ全然説明がつかないじゃないですか」
「ああ。私もまったく気がつかなかった。だが君の薬の下りでひらめいたんだ。この事件の真犯人にね」
「もう先生ってば焦らさないでくださいよ!」

 ウィローが拳を天に上げる。隣でパフィンも深く頷いていた。パトロギは苦笑して話を続ける。

「すまなかったな。では結論から言おう。犯人はこれだよ」

 手の中にある箱を振ってみせると二人は啞然と足を止めた。傍らのウィローの瞳の奥からゆっくりと炎が立ち上がる。

「ふざけないでくださいよ。解熱鎮痛剤がどうやってガルダを殺すっていうんですか」

 既に耳は倒され、口から牙が覗いている。早く弁明しなければ数秒後には強烈な一発がおみまいされるだろう。パトロギは手を広げてウィローの前で緩やかに振った。

「まあ待ちたまえ。それを順に追って説明する」

 等間隔に植えられた街路樹から葉がひらひらと舞い落ち、道を彩っている。獣人が多い街だが、丁寧に整備されているところをみるに、木を住処とする精霊でも住んでいるのだろうか。

「まずは時系列を整理しよう。一週間前、バジリスクたちとの会合を控えたグリドゥラさんはこの街ベスティアにやってきた。そして滞在先のホテルで発熱。そこまではいいかね?」

 二人が頷く。

「普通ならば熱がでた時点で引き返すだろう。だが今回は話が違った。やっとのことで取りつけた蛇族たちとの会合だからな。だから彼は無理しても行こうと考えたのではないか。そして熱を下げるためにこれを購入した。――それが最大の過ちだったことに気がつかずに。この表示をみたまえ」

 パトロギは箱の裏面を二人に見せた。両側からあっと声が上がる。

「これ鳥系の獣人には禁忌ですよ! 私でもとったら副作用でるかもしれないやつじゃないですか」

 裏には成分や効能が書いてある文面の最後の段に、鳥系の幻獣は服用しないでくださいと注意書きがあった。

「その通りだ、パフィン君。彼が手にとってしまったのは一番作用が強い代わりに鳥人は使ってはいけない薬だったんだ」
「ええ……何年ガルダとして生きているんですか。後ろの表示をみるのは常識でしょ。鳥だけに鳥頭ってことですか」

 心底呆れた顔でウィローが吐き捨てた。

「いや彼がすべて悪いわけではないよ。ベスティアは鳥人が少ないと言っただろう? 獣人が中心のこの街で、わざわざ鳥人用の薬を取り扱うのはまずないだろうからな。しかも熱で判断が鈍っていたのかミノタウロス用のものを買ってしまったようだね」

 ふうんと呟いてウィローは小さな箱を弄んだ。

「でもたかがこんな熱さましがガルダを殺すとはやっぱり思えないんですけど」

 中身が微かに揺れ動く音をたてながら箱は左右の肉球を行ったり来たりしている。パトロギは小さく息をついた。

「たとえば、私や草食動物系の獣人たちが口にする解熱剤に含まれる成分はとても優秀だが、ある種の肉食動物系の獣人たちにとって致命的な中毒を引き起こす。君もそれはよく知っているだろう?」
「ええ、まあ……」

 困惑したような目つきでウィローは相槌を打った。

「それと同じようなものさ。この薬の中に含まれている成分はだね、ウィロー君。草食動物系の獣人や人間が飲んでもほとんど害がないが、鳥人たちには強い腎毒性を示すのだよ」
「腎毒性って……あ!」

 ウィローが手を打った。

「つまりその薬を飲んでしまったせいで腎臓が傷つけられ、働きが落ちてしまったことで、体内の老廃物を処理できず、痛風を起こした末に死んでしまったというわけですか?」
「まったくもってその通りだパフィン君。腎臓の働きが悪くなったから亡くなる数日前より喉の渇きを訴えていたのだったし、腎臓にみられた酷い壊死も全身に広がった石灰も嚙み跡の残らない身体も、そう考えれば全ての説明がつく」
「でも一週間前に飲んだ薬で本当にころっと死ぬなんてあり得るんですかぁ?」

 ウィローはまだ半信半疑だ。

「それは調べてみなければわからないから何とも言えないが、鳥の腎臓は少々特殊でね。腎臓の機能は私たちよりも弱いし、私たちにはない血管系があるおかげで流れこむ血液量も多い。つまり私たちよりもずっと薬の影響を受けやすい構造をしているんだ」

 ウィローはついに黙りこんだ。視線が落ち、無言を貫いたまま、足を動かしている。彼も頭の中で考えを整理しているのだろう。

「さらに言えば風邪による体調不良で腎臓に負荷がかかっていた可能性もある。そして無理を押し通した彼の身体は最悪のタイミングで限界を迎えてしまったんだ」
「それがバジリスクとの会合だったんですね、先生」

 パトロギは頷いた。

「とどのつまりこれは事件ではじゃなかったのだよ。事件にみえた不幸な事故だったんだ」

 折り重なった不運の末に起きてしまった事故。元々蛇族との仲を取り持ちたいと願っていた青年は会合を台無しにしてしまっただけでなく、余計に両者の溝を深める結果になってしまい、さぞかし草葉の陰で悔しい思いをしていることだろう。

「だがその後起きてしまった騒動は事故ではない。言わば人災……いや幻獣たちによる厄災だと言ってもいい。だからこそ私たちは真相を白日の下にだす必要がある」

 たしかにこの事故は不幸だった。だがこれ以上不幸の連鎖を繋げるわけにはいかない。
 おもてを上げてパトロギは行きかう幻獣たちを眺めていた。


「いやはや君の知識と観察眼には感服するよ。これを見てくれ」

 目の前に差し出された紙にはある数値とグラフが書かれていた。物質の横に数字が並んでいるだけの無機質な紙面の中に一つ、抜きん出た値。そしてその下にあるグラフには二つの山がぴったりと重なっていた。

「君が寄こしてくれた薬の成分と遺体から検出された成分が見事に一致したよ。それにしてもまさか解熱鎮痛剤が犯人とは恐れいった! 鳥人の薬害はたしかに症例報告でみたことがあったが、まさかそれだとは露ほども思っていなかったよ」

 サーナは額に手をあてて大仰に天をあおいだ。

「私はてっきり第三者が仕組んだ罠か質の悪い感染症にでもかかって倒れた線を疑っていたんだ。まさかこんな小さな粒がねえ」

 翼の中で器用に錠剤を転がしながらサーナは呟いた。

「しかし君たちにとってはとんだ悪魔であることは知っているだろう?」

 サーナの笑みに苦いものが混じる。

「ああ。それにしても熱に浮かされていたとはいえ、よりにもよってミノタウロス用のものを選んでしまうとはなあ。最悪の手を打ってしまったものだ」
「そんなに悪手だったんですか? 他のでも鳥人にとっては有害なものだってあるでしょ?」

 首をかしげてウィローが問う。パトロギはちらりとサーナと視線を交わし、ウィローに向き直った。

「そうだな。たしかにウィロー君の言う通りだ。だがこの薬にはさらなる問題点があるんだ。まず始めにミノタウロスの特徴を思い出してみたまえ。ミノタウロスはどんな特徴をもつ幻獣だね?」
「え、牛と人間でしょ。それが一体どうしたっていうんですか」

 無礼な態度で押し入ってきた警部補を思い浮かべたのか、ウィローはうげえと顔をしかめて舌をだした。すかさず隣のパフィンが肘で小突く。ウィローは小さく頭を下げて再びパトロギに催促の視線をよこした。後ろからサーナの笑う気配がした。パトロギは苦笑して続ける。

「実は人間というのはね、全体でみると毒に対してかなり強い動物なんだ。そしてさっきも言ったように草食動物である牛も毒には強い。それが掛け合わさったミノタウロスも強くて当然じゃないか」
「でもヒュドラには負けるじゃないですか」

 ウィローが唇を突き出す。パトロギは苦笑いを深めて肩をすくめた。

「あくまで食物や薬物中毒の範囲の中だよ。ヒュドラのような毒はまた違った話さ」

 九つの頭をもつ多頭の蛇は幻獣界の中でも屈指の毒をもつ。なにせ毒を含んだ空気を吸っただけで簡単に生き物を絶命させることができるのだから。身体が元々備えている防御機能に任せるには少々荷が重すぎる。

「それにミノタウロスは身体が大きいだろう? 必然的に薬に含まれる成分も多くなるのさ。じゃないと効きめがなくて製薬会社が訴えられるじゃないか」

 くすくす笑いながらサーナが付け加えた。

「おまけに解熱鎮痛剤というのは症状を軽くするだけさ。根本を叩くことはできないんだ。特に熱を無理に下げてしまえば、むしろ病原微生物の勢力を強めてしまう可能性だってある。弱ったところにさらにとんでもなく強い負荷をかけられてしまえば、そりゃあもういくらガルダと言ったってひとたまりもないさ」

 発熱は元から備わる防御機構の一つだ。熱が上がることによって病原体の増殖を抑えることができる。それを辛いからと無理やり抑制するようなことをしてしまえば、表面上は体調が良くなっても実は悪化していた、なんて状態を引き起こしかねない。

「警察が押収した彼の持ち物からも同じものが見つかったよ。それを見る限り少なくとも半分以上は使ってしまっていたようだ。まあ根本を叩いていないから熱がぶり返すのも仕方がないがね。そりゃあこんな異常な数値も出るだろうよ」

 純白の翼が針のように尖った山をつついた。文字からも図からもその異様さは際立っている。
 パトロギは息を吐いて、肩の力を抜いた。

「とにかく、これで私たちの仕事は完遂した。あとは君たちに任せよう」

 これ以上はパトロギたちの出番はない。真犯人は明かされた。裁判で今の説明をサーナたちがすれば、事態は収束に向かうだろう。あくまでパトロギの役割はガルダの青年の死の原因を突き止めることだったのだ。役目を終えれば、再びいつもの日常に戻っていくだけのこと。

「ええ……警察に僕らの手柄あげちゃうんですかぁ?」
「ウィローいい加減にしなさい。裁判まで乗りこんじゃったら越権行為もいいところよ」

 後ろで二人が小競り合いを起こしている。喧嘩するほど仲が良いとは言うが、この二人は本当にどこでも飽きずに応酬を繰り広げるものだ。
 口元を緩めて背を向けたパトロギは、しかしサーナが発した一言によって、ドアノブに手をかけたところで足を止めることとなった。

「いや裁判で説明するのは君にお願いしたい」

 はじかれるようにパトロギは振り返った。

「サーナ、君は何を言っているのかわかっているのかね?」

 押し殺した低い声が喉から這い出た。
 警察関係者でも何でもないパトロギが裁判の場に立てるはずもない。それに実行すればサーナが規則を破って外部に情報を漏らしたことを自ら明かすようなものだ。まさか苦労して手に入れた立場を喜んでドブに捨てるような酔狂は持ち合わせていないだろう。
 サーナは鷹揚に首を振った。

「わかっているとも。実はパトロギ、私は一つ君に言っていないことがあったんだ。実は君と会った後、警察にかけあってね、君をこの件に関わらせる許可をもぎ取ったんだ」
「おい聞いてないぞ」
「そりゃあ言っていなかったからね」

 パトロギの文句を受け流し、サーナは言葉を紡ぐ。

「これは間違いなく君の、いや君たちの手柄だよ。君たちがいたからこそ真相までたどり着くことができたんだ」
「しかしだな……」

 よどみなく動いていたパトロギの口がここで初めて言い淀んだ。ある懸念が胸に浮かぶ。それを見透かすように眼前の黒曜石が細められた。

「君は覚えているかい? まだ私が学生だった頃、カラドリウスなのにこの道に進んでいいかこぼしたことを」
「ああ、まあ……」

 もちろん覚えている。彼が弱音を吐露した唯一の場面だ。だがなぜ今それを持ち出すのか。
 訝しげに眉をひそめたパトロギに対し、サーナはやわらかな眼差しを向けた。

「あのとき、君が背を押してくれたおかげで私はここに立っている。感謝してもしきれないくらいだ」
「それは君自身の力だろう。私は何もしていない。ただ自分の考えを言っただけだ」

 サーナは微笑みをこぼして緩やかに頭を振った。

「いやそうでもないさ。まあとにかく私が言いたいことはね、君はもっと胸を張っていいということさ。種族がどうしたって言うんだ。君がかつてカラドリウスだって法医学者を目指してもいいと言ったのと同じように、人間が今回の事件解決の花形になったっていいじゃないか。何をそんなに迷う必要がある?」

 パトロギは口を開閉させたが、舌は錆びついたように動かず、結局閉口するしかなかった。滑らかなクリーム色の床に無機質な白光が反射している。
 裁判に人間が出ることは稀だ。例え出たとしてほとんどの場合被害者側である。たかだか一介の病理医が裁判に、しかも重要参考人として出るのは前代未聞だった。

「先生出ましょう。お気持ちはわかりますが、私は先生が適任だと思います。この事件の真相を正確に説明できるのはサーナさんか先生でしょう。たしかに先生は鳥人でもなければ蛇系の幻獣でもない。でも誰よりも公平な目で、かつ、この件で傷つかれた方たちにも寄り添うことができるのは先生だけです」

 燃える炎が真っ直ぐパトロギを射抜く。白く伸びる指は控えめに袖を掴んでいた。しかし指先には彼女の意思がこめられていることを象徴するように力が入っている。

「僕もそうしたほうがいいと思いますよー。これで先生が有名になればもっと割のいい仕事が増えてお給料上がるかもしれないですしー」

 ウィローはひげを整えながら能天気に言い放つ。それだけで凝り固まっていた肩からこわばりが解けていく気がした。

「別に私は金儲けのためにこれを始めたわけじゃないんだがな」
「そうよ。だいたい先生はともかく、あなたは仕事を選べるだけの技術を身につけていないでしょ。まずは勉強からよ、新米病理医さん」

 腰に手をあててパフィンが鼻を鳴らす。即座に唇をとがらせてウィローが反撃した。再び言い争いが勃発する前にパトロギは二人の間に長身を割りこませた。

「それでどうするんだい? まだつまらないことで二の足を踏むつもりかいパトロギ」

 艶やかな黒は弧を描いている。まるでこれから言う言葉を読んでいるかのように。その眼差しを真っ向から見返してパトロギは口の端を吊り上げた。

「いやここまで発破をかけられて怖じ気づくのは情けなさすぎるからな。受けようじゃないか」
「そうこなくては。裁判の日時は連日報道されているから知っているな? 裁判出席要請状だ。これを預けるから、このこじれにこじれた糸をほどいてくれたまえ」

 書状の上部の左右には金で飾られた、身体は獅子、遠目からみれば麒麟にも似た姿に、頭には立派な角をもった幻獣が鎮座している。
 紛争が起こると道理の通っていないほうを突き刺すとされているこの幻獣は厳格さを表すエンブレムとして、主に犯罪が関わる裁判で用いられる様式だ。
 犯罪でも何でもなかったというのに、と、パトロギは淀みが胸に沈むのを感じた。
 ガルダ側の訴えは本来ならば証拠不十分で棄却されるべきものだったのだ。通例を曲げねばならぬほど世間からの圧力は無視できなかったのだろう。
 ため息を殺してパトロギは丁寧に紙を折りたたんだ。
 顔を上げたときにはもう迷いの色はなく、代わりに強い光があった。

「ああ。絶対にやってみせよう」

 裁判の日づけは明日に迫っていた。

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