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【小説】回想、あるはなについて(8) 梅

前作「回想、あるはなについて(7)散り桜」の続きです。次で最後となります。

「不完全なワンダーランド」にでてくる妖怪はなの過去話。
親友の一女が亡くなった後、茫然自失のはなは家に閉じこもりふさぎこんでいた。

第一話はこちら


家に帰ってから、はなは膝を抱きかかえ、火も焚かずに冷たい部屋の中でうずくまった。何日そうしていただろうか。日が昇っては沈み、それが幾度繰り返したのかも覚えていない。

はながやっと動く気になったのは、我慢ならないほど腹の虫が喚いたからである。空腹で腹と背がくっつきそうだ。だが調理をするにしても時間がかかりすぎる。材料もない。野菜はまだ残っていただろうか。

いっそのこと、もうその辺の草でも口にいれてやろうかと思ったそのときだった。目の前に米の塊が差し出される。

「はな様」

のろのろと顔を上げると、戸を背に影が立っていた。その手には何やら風呂敷包みを持っている。

「そろそろお腹も空いたことでしょう。買っておきましたから、どうぞお食べください」
「……」

迷っているうちに握り飯が押しつけられる。微かに甘い米の香りが鼻に届いたときにはもう我慢出来なかった。

勢いよく握り飯にかぶりつく。よく塩気がきいた米は噛めば噛むほど甘くて手が止まらない。こんなときでもどうしようもなく腹がへるのかと心のどこかで呆れ返る自分もいたが、それでも手を止めることはできなかった。

「はな様、そう急ぎますと喉に詰まらせますよ。水も飲んでください」

柄杓を渡されて、冷たい水を喉に通す。長らく水も手をつけていなかったからだろうか、驚くほど甘露だった。水を飲み干して次の握り飯に手をつける。風呂敷包みからは握り飯だけでなく漬物や煮魚、煮豆などのおかずも所狭しと並べられている。はなはただただ我武者羅に物を詰め込んだ。

ひとしきり食べ終わると、充足感に満たされる。それと同時にぽたりと雫が頬を伝った。

ぽたり、ぽたり

一度溢れた雫はとどまることを知らず、拭っても、拭っても溢れていく。はなはそのまま日が暮れて、そして朝がくるまで泣き続けた。


「妾のかわいい、かわいいはなや。誰に泣かされたのかえ? 可哀そうに、こんなに泣きはらして。ああ、こするんじゃない、赤くなってしまう」

白魚のような指が頬をくすぐる。温度のない手が今は気持ちよかった。

「誰が泣かしたのか教えてくれないかい。その者を八つ裂きにしてくれよう」

いつの間にか黒の豪奢な着物をきた女が目の前にいた。形の良い眉を下げ、切れ長の目には心配の色をのせている。

「……ひ、め、さま」

はなに憑いている怨霊の姫だ。ここ最近はずっと眠っていたので、彼女の姿を見るのは久しぶりである。

「姫様。ちがうの、誰かに、泣かされたとか、そんなわけじゃ、ないのよ」

しゃくりあげながら弁明したが、姫は眉間に皺をよせただけであった。

「本当かえ? 遠慮しなくてもよい。妾ははなのためならば、どのような者であろうとも必ずや生きていることを後悔させることができるぞよ」

恐怖を覚えるほどの美しさをもつ怨霊の姫は、額につけられた育て親の封印札をはためかせて、はなに問いかけた。

「だいじょうぶよ、姫様。これは、誰かに泣かされたわけじゃないから、姫様が気にすることなんてないの。ゆっくり眠っていてくれていいのよ」
「無理をしているわけではないのかえ?」
「もちろんよ。姫様なら、私がうそをついていないことくらいわかるでしょう」

私には姫様の心の欠片が混じっているんだから、と付け加えれば、姫は深々とため息をついた。

「あの忌々しい女かえ、はな」
「姫様、いっちゃんは悪い子じゃないよ」

姫はじっとはなの顔を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「のう、はなや」
「なあに姫様」
「その女のことは気に食わぬが、そのように嘆くのならば、妾の眷属として取り込もうかえ? そうすれば永遠にいられるであろう? そこの影のように」

はなは絶句した。それは生命に対しての冒涜であり、禁忌であり、そして、とてつもなく甘美な誘惑であった。姫の衣からたちこめる色気を含んだ妖しい香がまとわりつく。

「今ならば死して日も浅かろう。かけるとするならば早いほうがよい。未練のない魂は飛んでいくのが速いからのう」

姫はあくまで幼子をあやすように優しい手つきで顔を撫でていく。白い指先が顎をくすぐった。

「はなや、お前にとっても決して悪いことではあるまい」
「でも、それは……」

躊躇うはなに姫は嗤った。

「あの坊主めの言いつけならば気にしなくてもよい。大事な友を呼び戻したいという気持ちは恥じるものではなかろう。誰でも考えるものよ」
「そ、れは、そう、だけど……」
「はなは頷くだけでよい。望めば妾が何だって叶えてやろう。のう、妾のかわいいはなや」

心が揺れる。姫の薄い唇がゆっくりと弧を描いた。頭を動かしかけたそのとき。

『はな、もしあの姫に何か甘い言葉を囁かれたときは、本当にそれが正しいのかよく考えなさい。あの姫はお前の敵ではないが、良き味方でもないのだから。姫に言われずともお前は賢いから、すべきことは己に聞けば分かるはずだ』

懐かしき育て親の言葉がよみがえる。ここで頷くなんて、常の自分ならば決してしないだろう。それにもしこの提案をのんだところで、彼女は喜ぶかと言われたら答えは否だ。

はなは大きく息を吸って、姫を見上げた。氷のような瞳に不細工な笑みを浮かべた自分が映る。

「姫様、気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫よ。いっちゃんは会いに来てくれるって約束してくれたから」
「そんな口約束、信じられるはずがなかろうに」

姫は不愉快そうに口を扇で隠した。

「はなや、この世は口先ばかりの屑などごまんといる。たとえ再びその女がこの世に生を受けたところでお前を覚えているという確証はない。ああ、妾のかわいいはな。妾はお前のためを思って言っているというのに」

はなは己の頬を撫でる身の毛もよだつような冷たい手をそっと包んだ。

「姫様、いつも言っているでしょう? 姫様が思うほどこの世は捨てたものじゃないわ。心配かけてごめんね。さあ、もう寝ましょう」

幼子を寝かしつけるように背を叩く。この世界を憎み続ける姫は本当に哀れだ。だがはなにとってはそれすらも愛おしい大事な家族の一人であった。

「本当にいいのかえ?」
「ええ、もちろんよ」

目を見つめて答えれば、姫は嘆息した。空間に穴が生まれ、何よりも深い闇の空間が現れる。姫は時折こちらを振り返りながら、残念そうにその中へと消えていった。空間が閉じた瞬間、はなはその場にへたりこむ。

「ああ、危なかったぁ。じっちゃんありがとう」

本当に危ういところだった。あの誘いにのってしまっていたら、取り返しのつかないことになっていただろう。じっちゃんは本当に偉大だ。彼はいつだってはなの指針であり続けている。

「はな様、よろしかったので?」

いつの間にか傍らに立った影がのぞきこんでいる。はなはほんのわずかに口角を上げて首肯した。

「いいの。本来の流れに反するのは良くないことよ」
「それは耳が痛いですねえ」

影はわざとらしく縮こまる振りをする。常と変わらぬその態度に、強張った頬がわずかに緩んだ。

「あなたは自分の意思で選んだんでしょ。私がどうこう言う筋合いはないわ」
「まあそうですが」
「あ、あとご飯ありがとね。元気でたわ」
「それはよかったです」

一礼する影にひらひらと手を振って、はなは明るい日差しのもとへ一歩踏み出した。

「さーて、伸び放題の雑草抜かなきゃね」

眩い光は、はなを暖かく迎い入れた。


その後はなはきりのいいところで畑を野に戻し、この地を去ることにした。彼女のいない地に用はない。今は放浪生活に戻って気楽な旅を続けている。

ただし平右衛門とはいまだ連絡を取っていた。彼は再婚し、子供も生まれ、今はのんきな隠居生活だ。

「それにしても全く変わりませんね、あなたは」
「妖怪だからね。逆にあなたはずいぶん老けたじゃない」

なかなか辛辣なことを言いますなあと笑う平右衛門を横目にはなは湯のみに口をつける。お茶をすすりながら、はなは今まで胸に秘めていたことをついに口にした。

「あなたは私が人じゃないとわかっても縁を切らなかった変人だけど」
「変人とはこれまたひどい」

平右衛門は苦笑したが、はなは更に続けた。

「私が妖術か何かを使っていっちゃんの命を削ったとかは考えなかったわけ?」
「おや、そうしたのですか?」
「違うに決まっているでしょ。……でもほら、私は妖怪だから変なことするとか考えなかったのかなって」

ぼそぼそと口にすると彼は口を大きくあけて笑った。

「あれを見て、そのようなことを考える人はよほどの節穴でしょう。正直、義父殿よりも凄まじかったですからねえ」

彼はそこで茶をすすった。口元に優しい笑みを浮かべたままはなに問う。

「珍しいですね。あなたがそんなことを言うなんて。何かありました?」

透き通った薄緑が揺れる。水面には清々しい青空と梅の花が映っていた。

「別に。ずっと思っていたことを聞いてみようと思っただけよ」
「そうですか。では私からも一つよろしいですか?」
「どうぞ」

はなは団子に手を伸ばしながら頷いた。

「あなたは私の再婚には何も思わなかったのですか」

団子を咀嚼する。もち米の優しい甘さが口いっぱいに広がった。

「別に。あなたがいっちゃんを愛していたのは知っていたし、家を存続させるためには必要だったでしょう。あなたは家長としての役割を果たしただけ。それとも何? 私に責めてほしいのかしら」
「いや、そういうわけでは……」

言いよどんでふっと目を細めた。

「あなたというよりは一女に怒ってほしかったのかもしれません」
「いっちゃんはそんな些細なことで怒るような器じゃないわ。後妻だってたしか、夫に先立たれた人でしょう。お互いにわかっていたことじゃないの」
「まあ、そうなんですがね」

彼はもう一度茶をすすった。

「そういえばあなたはまだ、彼岸の時期には訪れませんね」
「……」

はなは黙りこむ。しかしそれが既に答えのようなものだった。彼のもとを訪ねるときはまちまちだが、その時期だけは必ず行くのを避けていた。

未だに彼岸の季節は苦手なのだ。特に彼岸の時期に咲くあの花は。

「いつも一女の思い出話を楽しそうに話すので、もう乗り越えたかと思っていましたが、違うようですね」
「もしそうだとして、それが何の関係があるというの」

そっぽを向くはなに平右衛門は微かに笑った。

「いえ何も。ただ、いつか妻の命日に会いにきてやってください」
「……ええ、いつかね」

この痛みを乗り越えられる日が来るのだろうか。ねえ、いっちゃん。

青い空をヒヨドリがけたたましく駆けていく。澄んだ風が頬を撫でていった。


はながようやく彼女の命日に訪れることができたのは平右衛門が亡くなったときであった。時が全てを解決するとはよく言ったもので、あの引き裂かれるような痛みも徐々に薄れ、今では鈍い痛みに変わっている。

「まあ、まだこの花は苦手だけど」

揺れる赤き冠に手を伸ばす。墓地に植えられることの多いこの花は否が応でもあのときを思い起こさせた。

「その花に罪はありませんよ」
「わかっているわよ、そんなこと」

墓前に手を合わせて、はなは語りかけた。

「いつも命日に来られなくてごめんね。やっといっちゃんの命日に来ることができるようになったの」

きっと器の大きい彼女は笑って許してくれるだろうけど、それでも一度はきちんと詫びたかった。

簡素な墓石は、しかし苔一つ見つからないほど磨かれ、穏やかに鎮座している。耳に入るのは控えめな葉擦れの音だけであった。

花を供え、線香をあげてから立ち上がる。数歩歩いたところで、くるりと振り返った。

「いっちゃん、私待っているからね。約束ちゃんと守ってよ」

秋の匂いをのせた風が髪を撫でていく。微笑んではなは再び歩きだした。

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