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【短編小説】未亡人

ひとりは寂しい。
「ぼく」が隣の「おばあちゃん」の最後を見届ける話。

 ぼくのとなりにはおばあちゃんがいる。ぼくよりもずうっとずーっと長いときを過ごしてきたんだって。もうあちこち曲がって、端のほうなんかは荒れほうだいだ。足腰だって頼りない。一日のほとんどは眠ってすごしている。
 でもどんな話だって、ちゃんときいてくれるからぼくは好き。

「おばあちゃん、いつもひとりでさびしくないの?」
「もちろんさびしいわ」

 目を閉じたままおばあちゃんは答えた。ぼくがきたときから、おばあちゃんは冬の木みたいにときどき指先を震わせる以外は一日じゅうじっとしている。
 中は空っぽでがらんどう。ぼくみたいにぽかぽかしたあったかさはどこにもなくて、ほんとうにいつも冬みたい。おかしいね。この国には春も夏も秋もあるはずなのに。

「そりゃあもう年だもの。あと、一年中冬というのはやめなさい。私だって昔ほどじゃないけれど、季節に合わせて装いをかえているでしょう?」

 あれ、かえたっていうのかなあ? どちらかといえば勝手に変わっちゃったのほうが正しいんじゃない?
 ぼくが失礼なことを考えているのを見抜いたのか、おばあちゃんが薄目をあけてちらりとぼくに視線をよこしてきた。向かいのおじちゃんところからごくたまに飛んでくる、怒鳴り声みたいな恐ろしさはないけれど、白くにごった瞳に見つめられると、なんだか申し訳なくなってきて、ぼくはすぐに謝った。

「ごめんね、おばあちゃん」
「まあ、あなたがそう思うのもわからなくはないけれど。いえ、違うわね。あなたは間違ってないわ。私のつまらない見栄ね。こんな姿になっても、まだきれいに見せたいって思う気持ちが捨てられないのよ。恥ずかしいわ」

 おっくうそうに息をはいて、おばちゃんは再び目を閉じた。
 そんなことないよって声かけてあげたかったけれど、言ったところでおばあちゃんの心には響かなさそうだったから、けっきょくぼくは口をとじるしかなかった。
 ひとりっていっても、おばあちゃんもむかしはぼくのところとは負けず劣らずにぎやかだったんだって。見たことないからわからないけど、向かいのおじちゃんが言ってたから間違いない。
 でもおばあちゃんの中に最後に灯りがともったのはもう十年も前なんだって。十年! ぼくの年の二倍だよ。そんな気の遠くなるような時間をひとりぼっちで過ごすなんて、ぼくだったら耐えられないや。

「そうでもないわ。私の胸にはもう光は灯らないけれど、今でもふとした瞬間に、あの人の息づかいを感じるような気がするの。それにね、たまに猫やたぬきの親子がもぐりこんでくるから、毎日寒いばっかりというわけでもないのよ」
「ええーそれうれしいこと?」

 ぼくは口をとがらせた。
 ねこはまだしも、たぬきなんてどろだらけの足で好き放題歩き回るし、うんちも落とすし、汚れるばかりでぜんぜん喜べない。あ、でもねこもあんまりかも。ぼくのところにもねこはいるけど、あの子、いろんなところに爪たてるんだもの。けっこう痛いからやめてほしいんだよね、あれ。それがなければとってもかわいい存在なんだけどなあ。

「あなたには灯りをともしてくれる人がいるからいいけど、私にはもう遊びに来るひとなんてもういないから、ねこでもたぬきでも、来てくれるだけでありがたいわ」
「じゃあねずみは?」

 途端におばあちゃんの口がへの字になったから、ぼくは声をあげて笑った。

「ねずみはいろんなところかじるからいやだよね」
「……そうね。でも私のところにはミケやクロが顔をだしてくれるから、ねずみが入ってきたことはないのだけれど」

 ミケやクロというのはここ周辺をすみかとしているねこたちのことだ。ぼくのところのタマみたいにずっと腕に抱かれているねこじゃなくって、あっちへふらふら、こっちへふらふら遊び歩いているねこなんだって。ぼくのところにもときどき遊びにくるよ。ぼくの膝の上でごろんと丸くなって、一時間もすれば、また誰かのところに行くんだ。
 そう、おばあちゃんのところにも通っていたんだね。ならよかった。あの子たち、とってもちょうちょとるのうまいんだ。きっとねずみとるのもうまいよね。

「じゃあおじいちゃんがいなくても、意外とにぎやかなんだね」

 あれ? でもおばあちゃん、さっきさびしいって言っていたよね? ミケもクロも、たぬきの親子だってくるんでしょ?
 おばあちゃんが目を丸くしてぼくをみる。
 声に出したつもりはなかったんだけど、いつの間にか口にだしちゃったみたい。
 その目はすぐに細まって、しょうがないわねえと、呆れと陽だまりみたいな優しさをごちゃまぜにしたようなやわらかい光がともった。

「そうね。たしかにミケもクロもたぬきの親子だって来てくれるわ。でもね、ずっとじゃないのよ。あの人みたいにずっといてくれるわけじゃないの。あの人みたいに私の手をさすって、痛む腰に湿布を貼ってくれるわけじゃないの」

 その顔はなんだか冬のとびっきり冷えこんだ日の夕方みたいだったから、ぼくは思わず声を張り上げちゃった。

「そうなんだ。やっぱりあかりをなくしちゃうとだめだね。ぼくらって」
「ええ。孤独は内側からゆっくり殺していくから。とくに私たちは寂しがりやだもの」

 そうだよ。ぼくらは寂しがりやなんだ。だから誰かおばあちゃんの胸にあかりをつけてほしかった。ほんとうにおばあちゃんの中が空っぽの真冬になってしまう前に。


 それからちょっとたった日のことだった。
 いつものようにぼくはおばあちゃんに話しかけたんだけど、おばあちゃんは返事を返してくれなかった。耳が遠くなっちゃったのかな。おばあちゃん寝ていることが多いから聞こえなかったのかも。

「おばあちゃん、ねえおばあちゃん、おきてよ」

 何度も何度も呼びかけたんだけど、やっぱりおばあちゃんは起きない。
 いったいどうしちゃったんだろう。どこか具合わるいのかな。でもおばあちゃんが目を覚まさなくても、ぼくにはただ呼びかけること以外できやしない。

「ねえおばあちゃん、おばあちゃんってば」

 ミケかクロ、なんだったらたぬきの親子でもいいから、中に誰かいないだろうか。
 やがて重たい瞼が上がって明るい曇り空のような目がぼくを映す。
 でもそれはいつもよりもかすみがかっていて、嫌な予感がした。

「ああ、ごめんなさいね。どうしたの」
「どうしたのって、おばあちゃんがいつまでも起きないから心配したんだよ。どうしたの? どこかわるいの?」
「こんな体だもの。どこだって悪いわ」

 笑っていいんだか、笑わずに眉を下げればいいんだかわからない返事が返ってきた。いつもはここは笑い飛ばすところよ、と、おばあちゃんはほほ、と手を頬にあてて笑うんだけど、なぜか今は笑っちゃいけない気がしたんだ。
 おばあちゃんは重苦しい息をついて、ぼくを見つめた。ぞわっと冷たいものが背中をつたって、ますます不安が増していく。

「ねえおばあちゃん……」
「ごめんなさいね。今日でさよならなの」

 ぼくはかける言葉が見つからなかった。
 さよなら? さよならってどういうこと? 
 頭の中には正解が浮かんでいたんだけど、ぼくはどうしてもそれを信じたくなくて、目をそらしていた。
 そうこうしているうちにつなぎを着た男の人たちが集まってきて、おばあちゃんの頭からゆっくり、一枚一枚髪の毛をとっていく。長い間雨や風にさらされてきてすっかり白くなっちゃった髪の毛がはがされていく。
 ぼくはその様子をただみることしかできなかった。
 それから男の人たちは二週間くらいかけておばあちゃんをすっかり骨だけにしてしまった。
 時おり上がる埃のような、土煙のような灰色の粉が太陽に照らされてきらきらと輝く。これがこの前テレビで言ってた「荼毘に付す」ってやつなのかな。
 おばあちゃんの骨は黒ずんでいて、ところどころひっかき傷があったり、おしっこをかけられたような跡があった。それすらもトラックに積まれて、目をこらしても見えない、遠いところに行っちゃった。
 でも姿が消えちゃえば、あとは天にむかうだけって誰かが言ってたし、おばあちゃん、大好きなおじいちゃんのところにいけるなら、それはそれで幸せなのかなあ。
 残ったのはおばあちゃんの裾を彩っていた枯れ草だけで、北風に揺られて乾いた音をたてていた。


「ねえ、おかあさん。となりのおうち、どこいっちゃったの?」

 抱きかかえられた幼女が母親を見上げる。純粋無垢な瞳に、女は苦笑した。

「そうねえ。とっても遠いところよ」

 隣の家は住んでいた老人が亡くなったあと、息子が手放したものの、その後買い手がつかず、空き家として放置されていたものだ。古い木造建築の家は雑草生え放題、蔦伸び放題で、五年前、家を建てたときから悩みの種だった。もちろん土地をみたときから空き家は目に入っていたし、それなりの覚悟はしていたつもりだった。だが隣家の厄介さは想像を超えていたのだ。
 娘は青々と茂る葉をきらきらした目で触り、晩秋に向かうに従って赤く色づく葉たちをドレスみたいとはしゃいでいたが、正直母親としてはたまったものではない。虫はわくし、野良猫たちはうろついているし、どんなばい菌がついていることか。
 向かいの林さんもわんぱくな男の子たちを抱えているから、いついたずらしに隣家に忍びこまないか心配だ、とこぼしていた。
 林さんのお父さんは強面の体格のいい人で、ときどきやんちゃな子どもたちを叱る声が漏れ聞こえてくる。息子さんたちはいつも顔を合わせれば元気よく挨拶してくれるいい子たちなのだが、それとこれとは話が別だ。若さゆえの無謀さに身を任せ、こっそり侵入するのも時間の問題だった。
 いや子どもや動物ならまだいいのだ。よそでは犯罪者の隠れ家になっていたり、不審者の隠れ蓑になっていたりしたなんてニュースもあった。幼い娘がいる以上、不安は膨れ上がるばかり。
 だから娘には悪いが、更地になり、売地の看板が突き立てられたことに、ほっと胸をなでおろしている。

「となりのおうちの葉っぱのドレス、とってもきれいだったのにねえ」
「そうね。でももうあのおうちもお年だからね。そろそろ天に帰らなきゃいけないのよ」
「でも葉っぱしゃんとねこちゃん……」

 しょんぼりとうつむく娘の頭をひと撫でして、女は娘を抱え直した。

「さ、そろそろおうちに入るよ。タマがお腹すかせてまっているからね。タマにごはんあげるひと」
「はーい!」

 ぱっと顔を輝かせて手をあげる娘に微笑みを返して女は自宅のドアを開けた。


 コンクリート塀の上で寄り添う三毛猫と黒猫が、更地になった隣家を見、物哀しげににゃあと鳴いた。


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