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【短編小説】狐神社

嫌でも頭にこびりつく思い出はあるだろうか。
ある村の禁忌に関わる奇妙な話。

 これは、僕が体験した忘れられない夏の一幕である。

 僕は小さい頃、夏になると山奥にある祖父母の家に遊びに行っていた。というのも両親は仕事で忙しく、夏休み期間はよく祖父母の家に預けられていたためだ。
 祖父母の家があるところは最寄り駅から一、二時間バスに乗らなければたどり着かない田舎で、当然周りは畑か田んぼ、後は山しかないところだった。一人きりの長旅は最初こそ、駅員さんに何度も行き先を確認し、切符をくしゃくしゃになるまで握りしめていたものだったが、回数を重ねていくうちに徐々に緑が増えていく景色を楽しむ余裕さえでてきていた。

「おじいちゃん、おばあちゃん、遊びにきたよー!」
「おお、久しぶりだなあ。一人で迷わなかったか?」
「よくきたねえ」

 二人は僕が来るたびに笑い皺を深くして、頭を撫でて歓迎してくれたものだった。クーラーもないところだったけど、部屋の襖という襖を開け放すと涼風が吹きぬけて案外過ごしやすいのだ。
 僕はこの夏限定のお泊まりが大好きだったが、特に楽しみにしていたのは虫取りだ。家の裏手の森では大きなカブトムシが捕れるので、祖父と一緒に毎日のように入り浸っていた。トラップを作ったこともある。ペットボトルを利用した単純なワナだったが、学校の図工よりも遥かに心躍るものであった。
 なにせここでの生活は非日常ばかり。朝日が昇る前に起き、清涼な空気を胸いっぱいに吸い込んで山を駆け回り、川で野菜を冷やして食べ、蝉取りや川遊びをしたこともある。コンクリートに囲まれた住宅街ではとうてい触れることのできない数々は、幼い子どもにとってはまさに夢のような日々であった。
 しかしこの村ではたったひとつだけ、守らなければいけないことがあった。

「よく聞いてね」

真面目な顔つきで祖母が自分の手を包んだ。乾いた手だったが、冷えた指先と異様な力強さだけは覚えている。

「村はずれに神社があるでしょう。日が暮れたら、あそこの前を通らないでね」
「おい、夕暮れ時からあそこは通っちゃいかんだろう。前に鈴木さんとこの子が……」
「そういえばそうでしたね」

自分を放って話し合いを始めた二人にむっとする。僕は祖母の袖を引っ張って、首をかしげた。

「なんで? なんでいっちゃダメなの?」
「なんでもよ。とにかくあそこにいかないで。約束してちょうだい」
「そうだぞ。やめておきなさい。神社は遠いから、夕方に行くと家に着くころには真っ暗になるから危ないだろう」

 普段笑顔しかみせたことのない二人が、険しい表情で言い聞かせるものだから、頷く以外方法はなかった。わかったと呟くと、途端に二人の顔が緩む。

「よかった。絶対にいっちゃだめよ」
「あそこには何もないから行ってもつまらなかろう。暇ならじいじが遊んでやるから」
「……うん」

 そこでこの日の会話は終了した。それからその話が食卓にのぼることはなかった。

 村のはずれにある神社というのは小さな稲荷神社である。特に変わったところはない。強いて言うならば、昼間でもどこか陰気で、近寄りがたい雰囲気を醸し出しているくらいであった。
 だがしかし、ただならぬ二人の勢いに震え上がってしまった僕はその約束を忠実に守った。そもそも祖父の言う通り、あそこには何もない。珍しい虫が捕れるわけでもなければ、仲良くなった子どもらも寄り付かないのだから。

 だからその日、そこを通ってしまったのは偶然だった。

「どうしよう。夕ごはんにまにあわなくなっちゃう」

 その日はおもしろいくらいよくとれた日だった。手のひらでは収まりきらないほどのカブトムシを三匹も捕まえた上、タマムシなどきれいな虫たちも山ほどとれた。虫かごがいっぱいになっても目の前を輝く翅が横切るものだから、つい深入りしてしまったのだ。
 顔を上げたときには空の端がオレンジ色に染まっている。祖母は夕飯に遅れても母のように雷を落とすことはないが、小柄な祖母に余計な心配をかけるのは気が引ける。

「こっちのほうが近道だったはず」

 焦っていた僕はいつもであれば通らない小道を選択してしまった。草が生い茂る小道を駆け抜けていた足が不意に止まる。草の合間からはげかけた赤が覗いていた。心臓が嫌な音を立て、汗がふき出る。

「いや、もしかしたら見まちがいかも……」

 クモの糸のように頼りない希望は歩みを進めるにつれ、無残にも打ち砕かれた。
 鳥居の文字は風雨に晒されていたせいか、上手く読めない。西日が差しこんだ社は血をかぶったかのように染まり、周りを囲む森は対照的に一層濃い影を作っていた。前掛けの切れ端が揺れる狐の像は歪んだ笑みをこちらに向けている。首にかけた虫かごが急に重みを増した。

カン、カン、カン

 突然鳴り響いた甲高い音に僕は首をすくめた。数段しかない階段から空き缶が転がり落ち、足元まで転がってきたのだ。

「な、なーんだただの空きカンじゃん」

 大したことない、大丈夫。ただの神社だもん。目をつぶって震える足を動かす。さっさと行ってしまえばいいのだ。自分が言わなければ約束を破ったことも知られない。が、数歩移動しただけで今度は別の音が僕を引き留めた。

チャリン、チャリン

 今度転がり落ちてきたのは黒く汚れた五円玉だった。これもちょうど僕の足元で止まった。

「え、これどうしよう」

 お金は大事なものだ。空きカンでは見てみぬふりをできても、母の教えが僕をためらわせた。戸惑っている間に落ちてきたのは十円玉。青白い錆が半分以上覆っている。

「あ、あのーだれかそこにいますか? おさいふからお金おとしましたよ」

 呼びかけても、返事どころか人の気配すらない。足元には二枚の硬貨。眼前には仁王立ちする鳥居。影がゆっくり伸びる。
 僕は腹をくくった。足元の硬貨をさっと拾い上げると、足を踏み出す。

「だれかいるんですかー? お金おとしましたよー」

 数段の階段がまるで何百段もあるように感じられた。手の中の硬貨がじっとりとぬめる。境内に足を踏み入れても、人の影はない。僕は正直、今すぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。葉擦れの音以外聞こえないのに、二対の視線が後ろから突き刺さっているようだったからだ。頭から爪先まで舐めるような不躾な視線だったが、振り返る気にはならなかった。多分視線の主を見てしまえば、一歩も動けなくなってしまう。

「あの、いないならここに置いておきますね」

 賽銭箱の前に置いてそそくさと帰ろうとしたそのときだった。

チャリン

 再び音が鳴り響く。はっと振り返ると、百円玉が足元に転がっている。でも一体どこから?

チャリン、チャリン、チャリン

 出所はすぐに判明した。真後ろの社からだったのだ。格子のついた木の扉のその先、光も通さぬ暗闇から小銭が飛び出してきているのだ。喉が上下する。行ってはだめだ、行ってはだめだという意思とは反対に、引き寄せられるように足が動いた。
 古ぼけた小さな木造の社。賽銭箱を迂回して、その目の前に立つ。扉を施錠する南京錠は無理やりこじ開けられたかのように歪にひしゃげている。固く閉じられた扉が指一本分開いた。まるでこっちに来いとでもように後ろからごおっと強い風がふく。その風に押されるようにして足を踏み出そうとした瞬間、

――ちりん

 腰元でなにかが鳴った。はっと腰に手を当てるとひんやりした金属の感触。それは母が持たせてくれた鈴付きのお守りだった。どこにでも売られている安全祈願のお守り。その音を聞いた途端、身体を支配していた圧力が僅かに緩んだ。
 これ以上ここにいたら戻れなくなる。直感的にそう感じ、僕ははじかれるように駆け出した。
 その後、どうやって家まで帰ったのか僕は覚えていない。ただ、いつの間にできたのか膝にこさえた大きな擦り傷と、祖父からもらった虫かごをどこかに落としてしまった罪悪感で大泣きしたことは記憶に残っている。結局その日の夜は祖父母の布団にもぐりこみ、二人と一緒に寝た。その日を境に僕は二度と神社の前を通らないようにし、話題すら上げなかった。

 それからもう何十年も経つ。祖父母はとっくに亡くなり、あの村も人口が減少したことにより廃村となった。
 あの神社は一体どうなったのだろうか。取り壊されたのか、それとも未だにあの場所に建ち続けているのか僕は知らない。

 ただ今でも思い出せるのだ。あの夕陽に照らされた社と狐の顔を。そしてこっちにおいでと招く、格子から光る一対の赤い目を。

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