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【小説】不完全なワンダーランド(3)

「こんばんは、お嬢さん。ごきげんよう」

 鍵をかけたはずの窓がガラリと開き、カーテンが揺れた。宿題をしていた少女は慌ててベランダの方に顔を向ける。
 と、そこには月を背に一人の女の子が立っていた。肩先くらいの黒髪に星月夜を思わせるような目、灰色の着物と墨色の帯。まるで夜が人の形になって現れたみたいだった。

「えっ? 小さい子? こんな時間に出歩いちゃダメじゃない」

 迷子だろうか? 首をひねりながらも事情を聞こうとしてふと立ち止まる。

「ちょっと待って!? ここは二階なのにどうやって入ってきたの?」

 この子は一体何者なんだろうか。もしかして幽霊!?
 だが少女はそれよりも気にかかることがあった。

「それに今の言葉は……」

 彼女の言葉を聞いたとき、頭の中を一瞬暗い森と誰かがにんまりと笑う顔がよぎったが、捕まえる前に消えてしまった。最近はずっとそうだ。何かの拍子にちらつく誰かの面影。彼女が人ではないものかもしれないという恐怖よりもこちらのほうが気にかかる。

「やっぱり心は覚えているんだ。だから自分の力を過信しない方がいいって言ったのになー」

 やれやれと肩をすくめる彼女。しかし少女には彼女の言葉が聞き流せなかった。

「あれについて何か知っているの!? 教えてよ! 私が失くした大事な記憶を!」

 勢いのまま彼女に詰め寄る。どうしても知りたかったのだ、自分が忘れてしまった大事なものを。
 ときどき頭によぎる誰かはこちらがどんなに手を伸ばしてもするりと逃げていく。絶対忘れてはいけないものだったはずなのに。

「まあまあ落ち着きなよ。どうしても知りたいの? それがどんなものであったとしても?」

 彼女の瞳には面白がるような色が浮かんでいた。それなのにこの問いには真剣に答えないといけないと感じさせる雰囲気もある。

「もちろんよ。私はどうしても知りたいの」

 謎の女の子の雰囲気にのまれないように少女は叫んだ。

「真実を知らない方が幸せだったとしても?」

「しつこいわ! 私はその大切な誰かを思い出さなきゃいけないの。どんなことであってもね」

 きっとにらみつけると彼女は笑みを深めた。

「やっぱりいい子ね、アイツにはもったいないくらい。それじゃ行こっか」

 自分よりも一回り小さな手が差し出される。この手を掴めばその誰かに会えるのだろうか。躊躇いながらもその手を取ろうとしたその時―

「お待ちください。まずは自己紹介をしてからにしませんか。名前も事情も知らずに行くのは可哀想じゃありませんか」

 いきなり彼女の後ろからにゅっと影が現れる。

「えっ、あなた誰!? この子の影にしては大きすぎるし、そもそもなんで影がしゃべっているの?」

 男の人の影がそのまま本体から離れて飛び出してきた感じだった。声の低さもちょうど成人男性くらい。驚いて声を上げると表情のない真っ黒な顔がこちらを見る。

「私は少し特別ですので。それからこの方の影かどうかについてですが、まあこの方の影ではないといえばそうですし、見方を変えればそうでないともいえます」

「? 意味わかんない」

 首をかしげると彼は苦笑した。まあ表情がわからないので雰囲気からなんとなく推測するしかないのだけど。

「後ほど説明しますよ。時間も無限にあるわけではないのでまずは自己紹介しましょうか」

「それもそうね。初めまして、私の名前ははなっていうの。そっちは私に仕えている影。よろしくね!」

「影です。私のことはお好きにお呼びください。よろしくお願いいたします」

ぱっと輝くような笑顔を浮かべるはなと丁寧な一礼をした影。

「私の名前は春香よ。よろしくね。えーっと二人は何者なの? 特に影さんの方」

「春香ちゃんね、よろしく! で、この影が何かっていうとちょっと説明難しいかなー。とにかく私たちは人じゃないよ。私は妖だし、影は影だし」

「影は影って答えになっていないような……っていうか二人とも人じゃないの⁉」

「夜中に二階から入ってくる女の子なんていないでしょ」

 小首をかしげてはなは答える。
 たしかに。格好もなんか古そうな着物姿だし、影さんはどう見ても人じゃないか。

「もしかして私が会いたい誰かも人じゃないの?」

 恐る恐る聞くと彼女は頷いた。

「怖い? 今ならまだ引き返せるよ?」

「まさか! 言ったでしょ、どんなことであったとしても私は思い出したいの」

 本音を言うと怖い。でもここで引き返したらきっとその誰かには二度会えないのだろう。それだけはイヤだった。

「ならよかったー。じゃあもうそろそろ出発しなきゃね」

「え?  今から?」

「うん」

 はなは戸惑う春香の手を取り、ベランダに連れ出す。

「影、よろしく」

「お任せください」

 いや、まだ宿題とか心の準備とかいろいろあるのに。
 グダグダ考えているうちに影の形が変化し、ドアのような形状になった。はなは何の躊躇いもなくそのドアを開ける。中は常夜の世界だった。夜よりはるかに濃密で一切の光も通さないような黒。本能的な闇への恐怖に思わず体がこわばる。それに気づいたのかはなは優しく促した。

「大丈夫、私の手を握っていればすぐ着くから」

 この先には一体何が待っているんだろう。探している誰かに会うことはできるのだろうか。不安と期待を胸に少女は目の前に広がる深い暗闇へと震える足を一歩踏み出した。

 十分ほど歩くとぼんやりと先の方が明るく光っているのが見えた。周りは本当に何もかも黒で塗りつぶされているので余計に目立って見える。

「あそこ?」

「そう」

 はなはその光を真っ直ぐ見据えたまま言った。足元すらおぼつかないほど暗いのに迷わず進んでいく彼女とぎゅっと握っている手の温かさのおかげで何とか進めている状態だった。どんどんと光が近くなってくる。ついにそこにたどり着いたとき一瞬で景色が変わった。

「森?」

 見たこともない森の中に二人は立っていた。周りはうっそうとしているのに二人がいる場所はちょうど開けており、やわらかな月の光が注いでいる。はなは周りを見渡して首を傾げた。

「うーんもう少し奥の方にいるのかな?」

「ええ、そのようです。ですがここに通した方が分かりやすいでしょう?」

 いつの間にか人の形に戻った影がはなの問いに答えた。

「わっ、びっくりしたあ! いきなり後ろから声かけないでよ影さん!」

 しかし春香は影の存在に気づいておらず、影が答えた瞬間飛び上がった。

「それは申し訳ありません、春香様。気遣いが足りていなかったようです」

 少し詰るような春香の言葉に対し、特に気にしたようもなく淡々と謝罪する影。

「そうだそうだー。無神経な影のせいで春香ちゃん怖がっちゃったじゃない。そんなんだからモテないんだよー。まっ、目的地につくまでお話でもしながらいこっか。ね?春香ちゃん」

 はなはブーブーと影にブーイングを送った後くるんと春香の方に向き直って微笑みかけた。

「う、うん。あなたたちのことも聞きたいし」

「私も春香ちゃんの話聞きたい! あんな影のことはほっておいて楽しくおしゃべりしよ!」

「きちんと謝罪もしたのに当てこすられた私に対して何か言うことはないんですかねえ。まあいです、案内しますのでついて来てください」

 ため息をついて影は歩き出す。

「気持ちがこもってないものを謝罪なんてよびませーん。それにしても久しぶりの女子トークだー! やったー! いっぱい話そうね!」

見知らぬ土地にでた不安がはなたちの変わらぬ態度で霧散する。きゃっきゃっとはしゃぐはなと一緒に春香は月が照らす森の中に入っていった。

「そういえば影さんが言ってたはなの影じゃないけど見方を変えればはなの影ってどういうこと? さっきから私の話ばっかりではなたちのこと聞いてなかったから今度ははなたちのことを教えてよ」

 森に入ってからしばらく経つが、春香は今まではなたちのことを一切聞いていないことに気が付いた。
 はなは聞くのがとても上手く、ついどんどん話してしまい、記憶のない誰かについての話だけでなくいつの間にか学校の友達のことやら好きな雑誌の話やら個人的なことまでしゃべってしまっていた。
 私の話ばっかりでそっちのことを何も教えてくれないのはずるいじゃないと春香は頬を膨らませる。

 前を歩いていた影が立ち止まり、深夜の森に響いていたさくりさくりと葉を踏みしめる音も止んだ。
 カサカサと葉擦れの音だけが残る。ところどころ木漏れ日のように木々の間から差し込む月の光のおかげで影の形が浮かび上がっていた。

「確かに後で説明するといってしていませんでしたね。なに、それほど難しい意味ではないのですが、私ははな様の影から生まれたわけではありません。ですがはな様に仕えているのでその意味でははな様の影であると言えるというだけですよ」

「そうそう、私の足元見てみなよ。影の足元は何もないけど、私はちゃんと春香ちゃんと同じように影ついているでしょ?」

 視線を下に落とすと確かにはなの足元には影がついているが、影の足元には何も存在していなかった。

「じゃあ影さんは誰の影から生まれたの?」

「さてどうだったでしょうか。何せ大昔のことなので忘れてしまいましたよ」

「ええ!? 何よそれ! 絶対覚えているでしょ!」

「さあ? 覚えていないものは覚えていないので」

 憤慨する春香を軽くいなし影は再び歩み始める。これ以上追求したところで影はきっと何も答えてくれないだろう。そう判断した春香は隣のはなに向きあった。

「じゃあはなは知ってる? 影さんが誰から生まれたのか」

「答えてあげたいのはやまやまなんだけど、私も実際影が生まれたとこ見ていないから何とも言えないんだよねー。なんとなく生まれた経緯は推測できるけどさ」

 困ったように眉を下げて答える彼女にそれ以上聞くことはできなかった。

「まあ私のほうが年上ですしねえ。付き合いが長くてもわからないことくらいありますよ」

「じゃあ二人の付き合いはどのくらいなの?」

 流石にこれくらいなら答えられるだろう。はなに聞くと彼女はうーんとこめかみに手をおいて考え始めた。

「三百?いや四百?」

「三百九十六年と数か月ですよ、はな様」

「えっ!? そんなに? はななんてどうみても小三くらいにみえるよ?」

「はな様は童顔ですから」

「いや童顔で済まされる問題じゃないでしょ!」

「えっ若々しく見えるって? 嬉しい!」

 キャーと頬に手をあててふざけるはなと当然のように答える影。驚いている春香のほうがおかしいのかと思ってしまうくらい二人は平然としていた。

「まあ人と私たちの感覚は違うからねー。春香ちゃんが驚くほどの年月でも私たちの中では些細なことなの。妖怪の中なら私はちょっと長生きなくらいかな。まだ若いほうだよ」

 困惑する春香に口元に笑みをたたえて教えてくれるはな。その表情はまるで経験豊富な老婆が浮かべているようで思わずどきりとする。

「そういうものなのね。そもそも妖怪って何なの? 私たちと何が違うの?」

「妖怪は人の強い感情または妖から生まれるんだ。私たちは種類が多くて生活様式もばらばらだからひとまとめに妖怪といってもいろいろあるの。普段は人とは別の世界で生きてるよ。あっ、別の世界っていっても全く別の世界じゃないよ! 重なっているところもあるし。今だって昔ほどじゃないにせよ人の世界にも行き来してるんだ」

「でも妖怪なんていまどき信じる人なんていないよ? いたらニュースになってるもの。こんなに科学が進んでいるのに存在を隠し切れるとは思えないけど」

 昔なら信じている人がいたかもしれないが、もはや妖怪は空想の生き物だ。周りも妖怪を見たなんて言う人はいない。本当にまだ人間の中に妖怪が紛れ込んで生活していることなどあるのだろうか。
 半信半疑の春香を見てはなは口角をさらに上げた。

「あなたたちが知らない隠し方なんていくらでもあるもの。人は確かにとても発展して多くのことを明らかにしてきたけど、もうこの世界全て知ったつもりならずいぶんと傲慢だよ? 
この世界はあなたたちが、春香ちゃんが想像するよりずっと奥深く素敵な世界。それに信じていないなんて嘘でしょ? 夏になれば今でも心霊番組をやるし、学校の七不思議も残っているじゃない。姿形を変えて私たちとあなたたちはずっと一緒に暮らしてきたよ。ただ気がついていないだけで」

「妖怪と幽霊は違うじゃない」

「人ならざる者という点では一緒でしょ? それに口裂け女とかは幽霊というより妖怪の類に近いじゃない」

「そう言われればそうね。うーん、じゃあもしかしたらはなたちにもどこかで会ったことがあるのかなあ」

はなはクスクスと笑った。

「そうだったらとっても素敵だね」

「お話の途中すみませんが、つきましたよ」

 影がばっさりと話に割り込んできた。いつの間にか目の前に廃墟がそびえ立っている。なんの建物だったのだろう。佇む一軒家は何も答えない。
 窓は全部割れ、薄汚いコンクリートの壁にはところどころ錆びた鉄骨が剝き出しになり、二階の部分はほとんどなくなっていた。

 はなはボロボロの扉を開ける。ギイイと金属がこすれる嫌な音がした。取っ手の部分は辛うじてつながっていたが今にもとれてしまいそうだ。
 部屋に足を踏み入れると床に物が散乱し、外観に劣らない荒れ具合だった。だがそんなことよりも目を引いたのは部屋の中央。月光に照らされてふわふわと丸まった何かが浮いている。

「何あのファンシーなぞうさんみたいなの?」

 目の前の何かは象のように長い鼻をもち、ピンクと紫で彩られた体。可愛らしい花の模様までついており、おもちゃ屋や動物園の売り場でぬいぐるみとして売られていてもおかしくないような見た目だった。

「なんだいはな。はるばるこんなところに人間まで連れてきて。僕に一体何の用なんだい?」

 象みたいなそれが眠そうなのんびりした声で話しかけてきた。

「きゃあ!? しゃべった!」

「いきなりしゃべっちゃだめなの? 相変わらず人間はうるさいねえ」

 寝ぼけまなこでうっとうしそうにこちらを見つめる不思議な生き物。

「ねえ、はなこれ何?」

 振り返って聞こうとしたその時、体の横を突風が駆け抜けた。

「番人ちゃーん!今日もかわいいねー!」

 はなが物凄い勢いでその生き物に飛びついたのだ。きゃっきゃっとそれに抱きついてクルクル回る光景は幼女がぬいぐるみ抱きしめてはしゃぎまわっているようで微笑ましい。微笑ましいのだが――

「え? これどういうこと?」

「申し訳ありません、春香様。はな様はかわいいものに目がございませんのであの方と会うときはいつもあんな感じなのですよ。要はお約束っていうやつです。はな様、春香様が当惑してらっしゃいます。ふざけた茶番はそろそろおやめになって説明してください」

 後ろに控えていた影が淡々と答えた。影の呼びかけにはな動きがぴたりと止まる。

「ごめんね、ついいつもの癖で。紹介してなかったね、こっちは夢の番人ちゃん。夢の世界と現世のつながりの管理人だよ。あまりないけど、ときどき夢と現世で問題が起きることがあるからね。で、今回は夢の世界へ行くために番人ちゃんの力が必要なんだよ」

「僕はもっとやってくれてもよかったのにー。もうちょっとくらいいいでしょ。で、はなこの子誰? なんで人間が夢の世界に行きたいのー? それから象じゃないよーバクだよー」

のんびりとはなの腕の中で番人は言う。言われてみれば確かにバクの色合いだ。ただし白と黒ではなくピンクと紫だけど。

「夢魔に会いたいの。だから力を貸してくれない?」

「夢魔に? 珍しいね。いつもは夢魔が一方的に来るだけではなはうざがっていたでしょ? もしかしてはなもまんざらじゃなかったの?」

 番人ははなを見上げ、からかうような声音で問いかける。はなは勢いよく首を振って答えた。

「違うよ、夢魔に用事があるのは私じゃなくてこの子!」

はなが春香を指さす。その瞬間番人のもにゅもにゅと動いていた鼻の動きが固まった。

「もしかしてこの子? 最近やけに夢魔のやる気がないと思ったらねえ。へえ、そうこの子が」

 一気に視線が春香に集まる。

「えっと今から夢の世界に行くの? っていうか夢魔って……」

『夢に悪魔の魔で夢魔さ。悪夢をみせることが趣味の悪魔。愉快なヤツだろう?』

 頭の中に誰かの声が響き渡った。もしかしてその夢魔っていうのが私の会いたかった誰かだったの?
 頭がぐらぐらと揺れる。今まで掴めなかった何かがやっとその尻尾を出した気がした。

「はな、行き先言ってなかったの? それどころか自分の会いたいと思っている奴のことすら分かっていないようだけど」

「ほら、春香ちゃんは夢魔の記憶を消されているし、私たちのこと何も知らないから最初から全部言っちゃうと混乱するかなと思って」

 額に手をあてて考え込む春香を置いて二人は会話を進める。

「ふうん。記憶もないのによく行こうと思ったもんだ。本当に行きたいと言ったの? はなが無理に誘導してない?」

「そんな鬼畜なことするわけないじゃない! 番人ちゃんひっどーい」

「ねえ、もし夢の世界にいけばその夢魔っていう人っていうか悪魔にあえる?」

 春香は二人の会話に口を挟んだ。パチリと番人の眠そうな目とあう。ただしその瞳の奥は氷のように冷たい色が浮かんでいた。

「会えるよ。ただし一つ代償が必要だけど。それに会ったところで夢魔が歓迎するかどうかはわからないよ? あれははなと違って優しくないから」

「それでも構わないわ。どうしても会いたいと思ったのは私だもの」

 番人の冷ややかな眼差しに負けないように言い切る。手の震えを悟られないように強く。
 二人の間に沈黙が落ちた。番人の目の冷たさが増したが、目をそらしたくなる衝動をこらえて見つめ返す。やがて番人の方が先に目をそらした。

「そう。いいよ、連れていっても」

 番人は長く息を吐き、言葉を落とす。

「えっ!? いいの?」

「行きたくないなら別だけど」

「ううん、行きたい! 連れていって!」

 慌ててブンブンと首を横に振る。

「じゃあ代償をもらうよ。もらうものは僕が決めるけどいいよね? あっ、はなは貸しがあるからいいよー何もわたさなくて」

「私は何か渡したほうがよろしいですか?」

 首をかしげる影に番人はからからと笑った。

「君が僕に何か渡すのならはなやその人間は二つ渡さなきゃいけないじゃないか。自分と自分の影の二つ分。それに君ははなに仕えているんだから、はなのおまけでいいよ」

「それもそうですね。ありがとうございます」

「別にいいよー。で、人間は何を持っているのかなー?」

 番人はふわふわと春香の周りを飛んで、じろじろ見たり探るように鼻を動かしたりしている。

「だ、代償ってまさか手とか目玉とかだったりしないよね?」

 昔話とかで目とか魂とか要求するのを聞いたことがあるけどそうなったらどうしよう!? びくびくしながら問いかけると番人は呆れかえった。

「そんなの欲しいわけないよ。いらないもん。大体君の手や目玉をもらって何に使うっていうのさ」

「そ、そうなんだ。よかったー」

 胸をなでおろしたときポケットの中のものが小さく動いた。目ざとくそれを見つけた番人はずいっと春香の眼前に近寄る。

「待って、君の物入れに入っているものって何?」

「え? ああ、これのこと?」

 ポケットの中に入っていたのは猫のストラップ。探していた誰かこと夢魔と私を繋ぐ大切なもの。いつも肌身離さず持っていた可愛い私の宝物。

「これは……へえ、本当に気にいっていたんだね。まさか夢の世界から持ち出すなんて。あの夢魔がわざわざ爪痕を残すような真似をするなんて知らなかったよ」

 番人は目を見開くと徐々に口角を吊り上げ、面白いものを見つけた子供のような表情を浮かべた。

「うん、決めた。それちょうだい。それをくれたら夢の世界に送ってあげる」

「え? でもこれは」

 これがなくなってしまったら夢魔との繋がりが消えちゃう。思わずストラップを握り締め、一歩後ずさった春香に気付いたはなが慌てて口を挟んだ。

「番人ちゃん私の貸し春香ちゃんに使えない? 代わりに私が何か差し出すからさ」

 しかし番人は頑として決定を変えない。

「はな、あの貸しははなにつけたものであってこの人間につけたものじゃないよ。それに今僕が話しているのはこの人間。いくらはなでもその頼みは聞けないね。どうする?それを渡さないなら諦めることになるけどいい?」

 ぐっと拳を握りしめる。この思い出を捨て彼との再会をとるか、キラキラと光る過去の中に彼を閉じ込めるか。

――そんなのどっちをとるかなんて決まっているじゃない。

 すっと息を吸う。

「分かった。これをあなたにあげる。その代わりちゃんと夢魔のところに連れてってくれるのよね?」

 ばっとはなが振り返った。彼女は今にも泣き出しそうな顔をしている。

「春香ちゃん、それは……」

「いいの。これも確かに大切だけど夢魔に会うほうがもっと大切だから。心配しなくて大丈夫」

 彼女の大きな瞳に微笑む春香の顔が映る。春香の笑みをみてますます彼女は顔を歪めた。

「じゃあ取引成立だ。ほらちょうだい」

「どうぞ」

 ピンクの鼻にストラップをのせるとふわりと姿がゆらいで消えてしまった。唇をかんでそれを見送る。

 さようなら、私の大切な宝物。ごめんね、夢魔。せっかくくれたのに勝手に別の人に渡しちゃって。

「約束は守ってくれるんでしょうね」

「もちろん。約束は絶対守るよ」

 世界がぐらりと歪む。

「夢の世界にようこそ。素敵な世界かどうかは君次第」

 番人がニヤリと笑った瞬間、周りの景色が一変した。


 四人は薄暗い森の出口に立っていた。

「あっ私ここ来たことある! この先は遊園地よ!」

 途切れた回路を結び直すと次々と電球がつくようにどんどん記憶が戻っていく。

「すごいね。もう戻ったんだ」

「前から頭に記憶の断片が浮かんでくることはあったの。でもこれですっきりしたわ! 全部思い出したもの!」

 晴れ晴れとした顔で答えると番人は目を細めた。

「ふうん、普段より忘却の力が弱いじゃないか。意図的? それとも無意識? まあどうにしたっていいネタになるね」

「でもなんだか雰囲気が違うわ」

 番人が何だかぶつくさ言っているがそれよりも周りが気になる。

 以前よりも葉や幹は暗い色だしよくよく見ると葉はボロボロ。おまけに棘のある蔓がはびこっていて荒れ果ていた。空さえどんよりとした雨雲に覆われている。
 前も青空はなかったけど、黄色っぽい雲で覆われていたおかげかそこまで暗い印象は受けなかったのに。

「まるで有刺鉄線みたいね。前はこんな感じじゃなかったんだけど……」

「ずいぶんと荒れてるねー。これ誰の夢の中なの?」

 はなが軽く番人に聞く。

「知らなーい。でも壊れてないってことはまだ主はいるんじゃない? 精神のほうが無事かは分からないけどねー」

「え!? これ誰かの夢の中なの?」

 驚いて番人に問いただすと彼はさも当然というように頷いた。

「もちろん。誰かが夢を見なきゃ夢は存在しないでしょ?」

 言われてみればそうだけど、人の夢に勝手に入るって何か後ろめたさを感じる。

「それにしても他人の夢を操るときでさえ春香様の夢の世界を使うのですね。かなり気にかかっていたようですがこれまでとは。しかも欲求不満のやり過ごし方が中学二年生くらい幼稚ですね。軽く引きます」

 後ろに控えていた影がバッサリと言った。

「仕方ないよー夢魔だもの。いつまでたっても精神がお子様なんだからー」

 はなもそれに乗っかる。

「はな様は精神年齢幼稚園児ですがね」

「ちょっと!? ひっどーい」

「な、なかなかはなにも言うよね影さん」

 むしろはなに一番あたりが強い気がする。本当に主従関係にあるのだろうか、この二人。

「えー? はなはちゃんと歳相応のところもあるし、僕ははなのことが好きだよー。後おしゃべり中悪いけど夢魔に会うなら早く行ったほうがいいよ。もたもたしてると別の夢へ移動しちゃうかもよ?」

 言葉とは裏腹に急ぐ気配が微塵も感じられない番人。しかしはなはその言葉にバッと振り返る。

「番人ちゃんの言う通りだね。さっ、あの根性なしに会いにいくよ、春香ちゃん!」

 今すぐにでも駆け出しそうなはなを影が呼び止めた。

「お待ちください、はな様。この世界の広さが分からない以上、無暗に行くべきではありません。春香様、夢魔様がいそうな場所に心当たりはございますか?」

「え? えーっと」

 夢魔との思い出を懸命に思い出していくうちにふとある場所が春香の頭に浮かんだ。

「あっ、もしかしてあそこなら……」

「どこか思い当たる場所あった?」

 こちらを覗き込むはなに春香は勢いよく首を縦に振った。

「うん! 確信はないけど、きっとあそこ! ついてきて」

そう言うや否や三人の返事も聞かずに春香は走り出す。

 森を抜ければそこは遊園地。相変わらず無人だが、不協和音を奏でるひしゃげたスピーカー、完全に錆びて今にも崩れそうなフェンス。以前よりずっとおどろおどろしい雰囲気が漂っていた。
 しかしそれらに目もくれず春香は駆けていく。

 もの言いたげな着ぐるみも腐った食べ物が置いてある屋台も首がとれた馬が回るメリーゴーランドにも足を止めることなく進んで、進んで、進んで。

「や、やっぱりここに、いた」

 息切れしながら春香は目の前の構造物を見上げる。
 ほとんど割れてしまった電球、途中で途切れたレール、すっかり色の落ちた小さな客車。

「久しぶり、夢魔」

ジ ェットコースターの停車場の屋根にいる大きな金色と目が合った。


「は? いやなんでここに? 俺ともあろう者が夢でも見ているのか?」

「違うわ。夢の世界だけど私は本物よ」

 呆然とする夢魔にすぐさま否定を入れる。
 大人のような大きさだし、毛もぼさぼさ。目なんてギラギラしているし、正直全然可愛くない。

――それでも

 夢魔だ。私がずっと会いたかった夢魔だ。
 ぎゅっと手を握りしめ、動く気配すらない夢魔にさらに言葉を重ねる。

「ちょっと話ししない? 話したいことがいっぱいあるの!」

 笑顔を浮かべれば夢魔の顔がクシャッと歪んだ。

「あいにく俺はお前と話す気なんてないね。どうやってきたかは知らないが、とっとと帰りな。お出口はあちら」

 尻尾が指す先には空間が歪んでできた穴のようなものが存在していた。中は白い光に包まれている。

「そういえば名前言ってなかったわね。私の名前は春香。季節の春に花が香るの香。華の高校一年生よ。よろしくね、夢魔!」

 それを一切無視して自己紹介を始めた。

「いや人の話聞けよ」

「だって夢魔も私がさよならも言わせずに勝手に夢の世界から追い出したじゃない。しかも突き飛ばして! だから私もあなたの言うことなんて聞かないわ。私は好きなことを言わせてもらうから!」

「いやだから」

「あの時はありがとう。夢魔が無理やり目を覚まさせてくれたおかげで私はこうやって元気に生活できてるから感謝してるの」

「おい」

「それにね」

 まだ何か言いたげな夢魔を遮るように春香は声を張り上げる。

「夢魔に会えてよかった。こんなに思いっきり遊園地で遊ぶ機会なんてなかったし、何より夢魔が隣にいたおかげでより楽しめたの! でもね、私一回きりじゃ満足できないわ。もっといろんなところを夢魔と一緒にまわりたいの。もしこっちに来れるのなら今度は私が案内してあげる。素敵なレストランとかいっぱいあるの。もし夢の世界にしかいられないなら夢の中で話したり遊んだりしない?」

 まくし立てるように喋ってちらりと夢魔の顔を見た。
 真一文字に口を結んだまま眉間にしわをよせこちらを見つめる彼。

「やっぱりダメ?」

 ただの暇つぶし相手にこんなことを言われても困るだけかな。私はずっと会いたかったけど夢魔はそうとは限らないもんね。
 泣くなんてみっともないことしたくなくて俯いてやり過ごそうとしたけど声の震えは隠すことが出来なかった。

「だから俺の話を聞けって。……俺だって会いたかったさ」

 間をおいてこぼされた小さな声。ばっと顔を上げるといつの間にか目の前に夢魔が座っている。

「それ本当!? 」

「ああ。また会えてよかった」

 みるみる景色が明るくなって頬が緩んでいくのを感じた。

「でもな」

 しかし硬い声がすぐさま遮る。

「もう帰れよ。本来俺たちのような人外と春香みたいな人間は関わっちゃいけない決まりなんだから」

 冷水をかけられたようだった。膨らんだ心が急速にしぼんでいく。

「また会える?」

 夢魔は悲しそうに首を振った。口が何かを言うように開いたが、言葉になる前に閉じてしまう。

「わかったわ。ありがとう」

 無理やり笑顔を作る。そうでもしないと涙がこぼれてしまいそうで。
 決まりならばしょうがないのかな。せめてこの記憶はもっていけないだろうか。夢魔がくれたストラップももうないし、この記憶だけはずっと持っていたかった。

 春香が出口のほうに一歩踏み出したその時――

「それはおかしいよ、夢魔」

 別の声が入りこんだ。振り返ると番人がふわふわと浮いている。その後ろにははなと影もいた。

「ああ? どういうことだ、番人。人嫌いのお前なら俺の言っていることが理解できるはずだが、頭でも打ったのか? お前が人間に手を貸すなんて」

「その言葉そっくりそのまま君に返すよ。君は悪魔だろう? 悪魔のくせに規則をいちいち礼儀正しく守るのかい? それは到底悪魔とは思えない姿勢だね。一体君はいつからそんなにお利口さんになったのさ。夢魔を名乗るのを辞めたほうがいいんじゃない? 規則を守る悪魔ほど矛盾していて滑稽なものはないよ」

 夢魔が苛ただし気に尻尾を叩きつける。

「あれを守らなきゃこっちと人間界のバランスが崩れるのは分かっているだろ。たとえ俺であったとしても守らなきゃいけないものだろうが」

「じゃあ夢の中で会えば? 夢は人間の世界でも僕らの世界でもあるじゃない。僕らのことを話せないように誓約を結ぶのもありだし」

「夢であったら記憶を消さなきゃならないのはお前だって知っているだろう。ここでの記憶だってどうせ消さなきゃならないんだぞ」

 夢魔が声を荒げた。毛が逆立ち、唸り声が轟く。

「それはないね」

 しかし番人は怯むことなくひょうひょうと返した。

「何だと?」

「だって今回はこっちが君のいる夢の世界に入りこんだんだもの。君がこの人間の夢の世界に入りこんだわけじゃないからね。それは適応されないよ」

「俺の信条の穴をつつくような理論を振りかざすなよ!」

「それでも道理は通るよ。何が悪いのさ。それとも会いたかったっていうのは口先だけかい?」

 言いくるめられて悔しそうに夢魔は黙り込む。

「そうよ。やりようはいくらでもあるし、大体あの規則を絶対に守らなきゃいけないなら私はどうなるのよ」

 はなまで会話に参加してきた。

「お前は例外だろ。お前はいろいろやらかしすぎてて話にならないね」

 夢魔はうろんな目ではなに視線を向ける。ピリピリとした空気が一気に緩んだ。

「しかしはな様という前例がある以上不可能ということはないでしょう。夢魔様と春香様だけでは不可能だと感じるならば、他の方々の力を借りればいいのではないでしょうか。少なくともはな様は全面協力する気のようですが」

「もちろん! 私ができることは何でもするよ。応援してるもの」

 はなが太陽のような笑みを浮かべてこちらを見る。はなの声援に背中を押されて春香は一歩夢魔に近寄った。

「私ね、さっきも言ったけど夢魔がよければもっといろんなことをしてみたいの。ねえ、本当にこれっきり? どうしても会っちゃいけないの?」

 ぐうと変なうめき声を上げて夢魔は押し黙る。顔がしかめられ、ひげがぴくぴくと動いた。せわしなく尻尾がゆれる。

「あーもう、わかったわかった! 何とかしてみたらいいんだろ。やってやるよ」

 突然夢魔は毛をかきむしったかと思うと、自棄くそじみた声を張り上げた。

「え、じゃあまた会える?」

 期待を込めて夢魔の顔を見つめると彼は大きく頷いた。

「すぐというわけにはいかないけどな」

「やったー! ありがとう」

思わず目の前の彼に飛びついてやわらかな毛に顔をうずめる。いきなり抱きつかれた夢魔は体を強張らせたが、拒絶はしなかった。むしろ尻尾はくるんと春香の腕に巻きついている。

「はじめからそう言っているじゃん。結論を出すのが遅すぎだよ、夢魔」

喜ぶ二人を見守る番人が呆れた声を出した。

「しょうがないよ、意気地なしのうじうじ悪魔だもん。ここまでお膳立てしてやらないと好きな子にも会いにいけないんだから」

「それにしても年齢差恐ろしいですね。猫の姿ですから何とか犯罪臭はしませんけど、未成年の交際に関わる条例考えた方もびっくりの歳の差ですよ」

「別に変なことしようと考えているわけじゃねえからな⁉そもそもその条例は人間同士の交際に関わるやつだろが」

 散々な言われように夢魔が慌ててツッコミをいれる。

「え、僕てっきり長い手足をもった爺さんが言う『愛じゃよ、愛』ってやつかと思っていたんだけど違うの?」

「某国民的映画の名台詞ですね。私もそう思っていたのですが、如何せん夢魔様は精神年齢が幼稚ですから自覚していないのかもしれませんねえ」

「夢魔だもんねえ」

「だーかーらー違うって言っているだろ!」

 外野からのからかいと応戦する夢魔の必死さに思わず春香は笑い出した。やがてその笑いは周囲に伝播し、最終的にみんな腹を抱えて笑い始める。陰鬱な世界に軽やかな笑い声が響き渡った。

 ひとしきり笑い終わると番人が口を開いた。

「さて、用事もすんだことだし、戻るよー。夜も明ける時間が近づいてきたからね。人間は帰らないと親とか心配するんでしょ」

「う、うん。そういえばここ私の夢じゃないから帰らなきゃいけないんだっけ。はな間に合うの?」

 番人さんにあうまでもちょっと時間かかったし、大丈夫なのだろうか。流石に朝までには帰らないと母さんが起こしにきてしまう。部屋にいったら娘がベッドにいないのはまずいだろう。

「あっ、そこは心配しないで。すぐ春香ちゃんの部屋につくように考えてあるから」

「そうなんだ、よかった」

はなの明るい返事に息を吐く。

「夢魔もここの本来の主の対処をしておきなよ。この人間みたいにぬるい記憶処理じゃなくてちゃんと忘させてあげるんだよ。八つ当たりされて可哀想な誰かさんにさ」

「はいはい、ちゃんとやるつもりでいましたよ」

面倒くさそうに夢魔は立ち上がった。

「じゃあ春香、またな」

「うん、またね」

 手を振って夢魔と別れ、出口のほうに歩き出す。光り輝く穴に足を踏み入れると眩い白が四人を包んだ。


 目が覚めるとそこは見慣れた天井。
 和装の少女も黒い影も眠そうなバクもひねくれた猫もいない。
 夢だったのだろうか。春香が落胆したその時、枕元に何かがあることに気が付いた。
 ちょこんと置かれた小さなトラ猫のストラップ。そしてそれに括り付けられた紙。

紙を開くとそこには――

『ストラップがないって嘆いていたって聞いたから別のものを送るぜ。お嬢さんが泣かないようにな』

『春香ちゃんと行くの楽しかったよー。今度は私とも遊ぼうね!』

『くれぐれも性悪悪魔にお気を付けて』

『今回のことは他言無用だからね。後これ全部読んだら消えるから』

その瞬間砂粒がこぼれていくようにさらさらと手紙は消えてしまった。

「ふふ、みんなありがとう」

誰が書いたのか一目でわかる内容に春香は笑みをこぼす。

「春香―いつまで寝てるのー。ご飯できているわよー」

「はあい。今行くー」

少女は足取り軽く階段を降りていった。素敵な贈り物をポケットに入れて。

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