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「月寒あんぱん」と「札幌人」とブックバード。

「月寒あんぱん」。
東京・銀座木村屋のアンパンの名声を聞いて、
月寒地区の菓子屋に命令して作られたので、
どちらかといえば饅頭寄りなのが特徴の札幌の
スーパー・コンビニ・土産物屋で買えるあんぱん。

月寒あんぱん。

まあ札幌の気になる地名に関してはtorovの
バリエーションに当たるHNで20年ほど前は
質問の出し手と動き手(調査人)としてなんぼか
活動していたのですが、その頃の史料はある程度
残っているか。

一応その頃精力的に調べてはった牛鍋蝸牛氏の
調査によると、そもそも「アンパン道路」が
作られた理由から辿ることが出来る。

「豊平町役場移転に伴って、平岸方面から直接
月寒へ通ずる道路がなく豊平を迂回しなければ
ならないため不便であった」

実はこのために「大字平岸村」(平岸より定山渓
まで)を「豊平町」より分離独立する分村運動が
起き、建議案が町会に提出されたそうで。

結局、この建議案は反対多数のため否決されたの
ですが、分村運動はなかなか収まらなかったとのこと。
そのため、豊平町長吉原兵次郎は、この運動を
沈静せしむるべく、平岸と月寒を結ぶ連絡路開削を
町会の賛同を得て約した、と。
しかし、道路用地は関係地主から寄付を得たが
工事費が十分でなく、吉原は苦慮の末、歩兵第
二十五連隊長稲村新六大佐に連隊歩兵の助力を要請し、
明治四十四年(1911)六月着工、同年十月に完工
しました。
(そのためわずか4ヶ月で完成)
出動兵員は延べ七千五百人に上ったそうです。

(間食のアンパンに関しては、既出の通り)
この工事には関係部落民の馬車、労力の提供も多く、
軍民協力の道路であり、町長吉原兵次郎の誠意も
認められ、分村運動は自然消滅したと。

「平岸百拾年」昭和五十六(1981)年
「平岸百拾年記念協賛会」発行(要約)

*なお北海道における関係部落民、の部落は
本州のそれ(差別表現)とは異なるので、
一応注釈してはおきます、念のため。

月寒地区の名物となった月寒あんぱんは、数件の店
で製造されたが、いまでは(株)ほんまのみ。
 数年前に本店は移転して地下鉄東豊線月寒中央駅
直結の店になったんだっけ。普段は札幌ビッセの
店に行くことが多かったけど(「寒月」とか系列店
も一昔前はそこそこあったし)、本店に行ったのは
一度きりだったかな。派生系では「月寒あんぱん
スティック」が好きだったのだけど暫く食べてない。

(すずきもも「わくわくおやつ手帖」(北海道新聞社)
2014,によると月寒あんぱんを作っていたのは
「アンパン道路」沿いに7件あったそうで)

 そして「東京人」といふ雑誌を手本にこの札幌の
地名調査に関するスレッドが紹介されたのが、
雑誌「札幌人」。
 当時まだ札幌にあったが駅前に移っていた頃の
旭屋書店にある、と聞き、創刊号を手にしたのは
今でも思い出すことの一つ。

で、時は経ち。
「北海道」の掲示板にこだわり過ぎた当時の管理人に
「札幌の地名」から「北海道の地名」に移行してから
スレの進行が拡散して、更新は滞り、牛鍋蝸牛氏は
「札幌人」で札幌の地名探索を続けていたり、独自
ブログで頑張っていたけど・・・のケース。

その後厚生年金会館にあった「札幌映画ミュージアム」
で手伝いに来ていた「札幌人」表紙の椎名次郎氏
(その後改名されて松本浦氏)に「札幌人」に関する
話が出来た機会もあったので、それはそれで良かったの
ですが、やがて「札幌人」も休刊してしてしまったと。

その後「札幌人」発行人の荒井宏明氏は地下歩行空間で
ヒトハコ古本市を開きつつ、東日本大震災を期に移動
図書館や図書館建設の支援を行い、やがて寂れていた
江別市大麻の商店街に古本屋「ブックバード」を開くと。

(どうやら1度行ったが定休日に撮ったのが件の写真。
行けたのは2019年のとある日で、その時は開いていた
から写真は撮らなかった模様(「札幌人」のバック
ナンバーはかなり大量にストックされていたかと))

その後図書館ルートの方が軌道に乗って古本屋は
閉鎖されてしまったのですが、意外と自分の中でも
長く続いた方の連綿だった、といふことでひとまず
紹介してみたいと思い話を展開してみました。