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「札北馬鉄」の史料読みが終わらないからまず別口で~「柳もち」と、おかはし(おかばし)と、弁菜亭と。

ともかく「札北馬鉄」の史料読みでいい切りどころが
見つからない。さりとて、な部分も多いので、その頃
私は何に興味があったも含めて、そちらから思い切って
纏めてみようかと。

で、札幌のマイナー地名スレで「札北馬鉄」の話題が
上った頃に興味関心があったのは「札北馬鉄」の札幌駅
側の起点と、その近くにあったらしき札幌駅で駅弁を
売っているところの所在と変遷、が主体でした。

それでもうその頃には入手が難しくなっていた札幌市電
本などにおかはし付近にあった頃の札幌駅立売商会が映った
写真はないのかと牛鍋蝸牛さんあたりに投げかけたものの、
初期史料にあった大阪の方の出版社で刊行された札幌市電本
などを観ても(後年ブックバードに行った時にあったので
購入した。トンボ出版が1999年に刊行した本)同時代を良く
知りねまた名絵師でもあった浦田久さんの本を見ても、結局
札幌駅立売商会がおかばし付近にあった、とされる写真を
判別することが出来なかった。

20 名前: とろんとろん 投稿日: 2004/07/19(月) 17:14:15 ID:ppqbJkHw [ p4102-ipad202sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
またもごぶさたしております。とろんとろんです。

 あと、「札北馬鉄」関連でちと気になっているのは、元帝国製麻の
あったすぐ北の位置になんで札幌駅の駅弁で知られる弁菜亭が
存在するのか、そのあたりの奈辺にもなんかヒントがありそうな
気がしますけど。

24 名前: 横丁 投稿日: 2004/07/20(火) 20:23:05 ID:oBO0vE3Y [ K098058.ppp.dion.ne.jp ]
>とろんとろん さん
気になったのでちょっと調べてみたのですが、

弁菜亭を経営している札幌駅立売商会は確かに「北8東2」で、
テイセンの近くであることがわかります。

ところが、北区役所HPによると
調理場が「北6西5」にあり、昭和59年に東区へ移転とあります。
この「北6西5」というのは今でいう某家電量販店の位置であり、
文中の「東区へ移転」の移転先がおそらく現在の弁菜亭の辺りと
推測できます。
これだけをみると、札北馬鉄と弁菜亭は関連が薄いような気がします。
しかし、北6西5にあったのは「調理場」とあるのでなんらかの拠点が
現所在地(北8東2)にあったのかもしれません。

274 名前: とろんとろん 投稿日: 2004/11/03(水) 23:06:42 ID:TecFmyVg [ p2249-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
確かにこの調理場は「北6西5」にあって、ちょうど市電(鉄北線)も
通っていた「おかはし」のたもとにあったとか言う話は親から
聞いたことがあったけど。

【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その十五】

といふことでそこは空振りに終わったものの、その前後は
大体判明しているので、そのあたりから紐解くと。

あと例の先達さんは「駅生」の詳細だいぶ書いてたから、
そちらも事前に参照しておくと、こちらとので、より状況が
立体的に見えるかと。

で、札幌駅で出されていたのはやはりまず挙がる「柳もち」。

ルーツは札幌駅立売商会のルーツの一つで、6人出されて
いたうちの洲崎庄次郎の流れを汲む「北間屋(きたまや)」の
看板商品。

柳もちは、札幌駅立売商会の前進の一つである「北間屋」の
商品として、明治39(1906)年に創製された。北間屋を創業
した洲崎庄次郎は同(明治)37(1904)年に「料亭北間屋」を
開き、のちに旅館「松屋」を経営。当初は、その旅館で柳もち
などを作っていた。

庄次郎の出身地は、金沢市の北部に位置する洲崎町(現金沢市
洲崎町)で、北間屋の屋号は洲崎町の隣にある北間町にちなんだ
もの。

塚田敏信「ほっかいどうお菓子グラフィティー」(亜璃西社)p42

洲崎町は現在須崎町に表記変更されてて北鉄浅野川線の
沿いにあり、ちゃんと北間町も隣接してるのか。ってか、
須崎町も北間町も番地区分がイロハ区分なのね。

個人的にはまだJRも札幌駅周辺から戻るときの移動手段として
選択肢にあった頃札幌駅立売商会の売店で久々に意識して観た
「柳もち」を帰りの土産にして帰った頃からきっちり観察する
日々が暫く続いたものなんですが。
 特徴はやはり道産もち米で「赤福」などにも使われる代表的な
「はくちょうもち」で作られたあんころ餅であること。所謂
こしあんもちの代表格ではあるのですが、意外に知名度は低い。
(まあそれは根本的に札幌自体が他方からの人口流入都市であり、
生粋の札幌っ子自体が生き残ってかつ発信し続けている例が少ない
ことの証左なのかと)

 柳もちは、白い小餅の周りを小豆の餡でくるんだいわゆる
”あんころ餅”だ。加賀(金沢)といえば、古くから銘菓を生み
出してきた土地柄だが、あんころ餅もその一つ。要するに、
北海道に移住してきた金沢出身の庄次郎が、故郷の銘菓を札幌の
地で再現したというのが実のところだろう。

塚田敏信「ほっかいどうお菓子グラフィティー」(亜璃西社)p44

郷土の菓子を移住先で再生させたわけで、まさに北海道の歴史を
地で行く菓子といえる。

塚田敏信「花咲く北のお菓子たち「グラフィティー」に寄せて
下・風土を体感」北海道新聞夕刊掲載

下はスクラップだけ見つかったところから引用しましたが、
珍しく日付が入ってない(入れ忘れ)。でもここの類例で
有名な駅生の一つウロコダンゴ(深川駅)は「椿餅」(新潟県の
旧水原町)がルーツと共に、飛騨高山の「三嶋豆」をヒントにして
旭川の「旭豆」が作られたことも記されている。
(「旭豆」も「ウロコダンゴ」(高橋商事)も当然なんですが
「ほっかいどうお菓子グラフィティー」に記述があります)

でまあ「柳もち」の話はこのくらいにして、次はおかばし。
いわゆる国鉄の線路の上にかかっていた陸橋だから「おかばし」
(おかはし記述が多いかな、とも思ったけど、近くにある史料は
ほぼ「おかばし」表記なので双方表記、とします)なんですが。
一応昭和のヒトケタ時代には完成していたのか。浦田さんの文章を
引きます。

古い友人のK君が、
「子どもの頃、この跨線橋の上に立って列車が出入りする様子を
見ていると、何時間でも飽きることがなかった」
と語っていたことを覚えている。
 跨線橋は、昭和7(1932)年に完成。これにより市電鉄北線は、
札幌駅前電停と線路下の北8条通電停が直結された。それまでは、
一度駅前で電車を降りて、踏み切りの向こうにある電停まで歩いて
いたというから、随分と不便なことだったろう。
 ここから見る蒸気機関車の爆走する光景は実に逞(たくま)しく、
子どもならずとも魅せられたものだ。

浦田久「スケッチで見るさっぽろ昭和の街角グラフィティー」
(亜璃西社)(2013)未来を夢見た跨線橋(おかばし)p116

おかばし(おかはし)の撤去と転機は札幌駅の高架化がきっかけで
それはまた島本和彦「炎の転校生」に描かれた旧札幌駅駅舎や
駅前にあったチキン屋との離別を意味するものだったのだけれど。
(ま、後者はまだ厚別区方面にあるおにぎりあたためますか御用達の
「チキンペッカー」として生き残ってたハズですけど)

西5丁目の国鉄跨線橋は「おかばし」の愛称で長く市民に親しまれ,
平坦な札幌市街の中で,数少ない坂のある場所として有名であった.
1967(S42)年に,国鉄の電化工事に伴って,廃止(1971(昭和46)年
12月)まで市電唯一の専用軌道区間となっていた.
 市電廃止後も札幌の南北を結ぶ拠点として,重要な役割を果たして
きたこの跨線橋も,JR線の高架化工事完成に伴って1989(H元)年に
撤去された.周囲の土地の盤下げも実施されて,市電が走っていた当時
とは大きく景観が異なっている.

札幌LRTの会編「札幌・市電の走る街」(トンボ出版)(1999)p48

まあ定鉄が乗り入れてた名残の0番線ホームもなくなり、使ってた
JRの地上駅が高架化されます、が当時の印象ではあったけど、その頃の
札幌駅立売商会を目撃してないから、どの建物に札幌駅立売商会が
入っていたのか写真を観るだけだと判別できない、なのですがね。

ともかく「おかばし」付近にあった札幌駅立売商会が現在の「弁菜亭」
のある箇所に移って(「弁菜亭」になってからはチャリで昼飯を食べる
為に行ったことは経験上ある)、「おかばし」撤去後はそこに初めは
高架下にあったヨドバシカメラが移って現在もそこに札幌店はあるのですが、
やっぱりそれでも「札北馬鉄」のエピソードからは少しズレるところの
話になってたようで。

ただ、やはり現在の札幌駅よりは少しズレたところに「札北馬鉄」の
都会側の起点、札幌駅はあったようなんですけど。

といふあたりでまずは別口的に「札北馬鉄」の史料読みが終わらない
からまず別口で~「柳もち」と、おかはし(おかばし)と、弁菜亭と、
をつらつらと並べてみました。


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