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「Neutral(ノイトラール)」は「中立」というよりは「どちらでもない」。でもないでもないないでもない。

ま、もともと「どちらでもないもの」って
語源のラテン語「neuter」が淵源ですけど。
「どちらでもない」って感覚はいつもどこかで
保有しておきたい概念の一つではある。

 英語学校発の無宗教のようなえらい魑魅魍魎の
大学で鍛えられたからか、勤めて英語的な感性
とは隔意を持って、ドイツ語的なものの考え方を
ある程度単語レベルで行う、って感覚が結構
抜けなかったような。
 なのでニュートラルは軽すぎるしなんか痒い。
「Neutral(ノイトラール)」って感覚がある。

 もう一つはやはり現代詩齧っていたので、
谷川俊太郎にかなり言語感覚も影響を受けて
いるなと。

 そこでよく唱えていたのがコイツで。

でもない でもない
ないでもない

 あんなにいろいろノートに書いたりもした
のに原典が何の詩だったのか検討もつかない
形なのが歯痒いですけど。

 まあいろんなことを「でもない でもない」
を選り分けていくと、その中からどちらでも
ない「ないでもない」って感覚はある、って
ことからその概念だけは忘れずにここまで
生きてきた、ってものでもありますが。

日常の中で平気で一時間もブラブラ歩いて
しまう人間は「ブラブラ歩く」という行為に
よって「その“距離”の中から、自分の必要と
するものを発見できる」ーーそれが「ブラブラ
歩くこと」のメリット。

「距離の隔たり」をなくしてしまうことは、
「その“距離”の間にあるすべてのもの」をも、
同時になくしてしまうことだ。だから「ブラブラ
歩いて“距離の隔たり”を確認する」という行為は
「なくしてしまったすべてのものをもう一度
手に入れる行為」でもある。

橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの東京物語』
(小学館文庫版,1998.06)p178

こと距離の詰め方として東京がある意味健康的
なのはこの類の「お徒歩(かち)行為」が
交通網の発展と阻害のなさに基づいて、
未だに健在な部分に宿っている何かがおそらく
あるのだと思う。

 そして「なくしてしまったすべてのもの」
というのは、「いつかなんらかの形で自分に
役立ってくれる情報の素(もと)」というような
もので、その中には、「遠い以前に消えて
しまった過去の風景」などというとんでもない
ものだってあったりする。

橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの東京物語』
(小学館文庫版,1998.06)p178

 そして話は若干感覚論になって生活圏の
話題にもなるのですが。

「距離」というのが、結局は「人間の感覚」で、
歴史だって、やっぱりそれを知る人間の「感覚」だ。
ということになると、「なにがその感覚を支えて
いるのか?」ということになる。
 人間の感覚は、その人間の生活から生まれて、
人間の生活は、その人間の生活圏によって
成り立っている。

橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの東京物語』
(小学館文庫版,1998.06)p186

 なのでそうした形質が他の地域で発揮される
と、金沢を徒歩で歩きまくるトキオな人、
って行為にもそれはそれでなるんですが。

ま、それはそれとして、鉄道の定刻発車が
奨励された時期の指標が成人の腕時計の普及率
に比例していた、ってのはなかなか興味深い
話ではあったけど。

 成人の腕時計の普及率が97%を超えたのは、
昭和39年のことである。

三戸祐子『定刻発車』(新潮文庫版,2005.05)

またこれも東京オリンピック関連が契機の
一つ、でしかないわけか。

 まあ定刻発車とてーげーの間にある隔たり、
に関してはのちのち考察する機会もあるかと。

ま、どちらでもない感覚を持つことと、
距離の詰め方をいろいろ学習しておくことは
やはり物事を考える上では大切かなと。
 ってことで今宵はこれまで。

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