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学校の怖さ

教員として、このことはずっと考えてきました。

従来の「学校」というシステム、好いところもある。
卒業の感動とか運動会とか。ふと見るその子の優しさとか、自分のモヤモヤなんて吹き飛ばしてくれそうな笑顔とか。

でもうまくいかないところ、苦しいことも確かにある。
みんな楽しくいたいのに、僕らは子どもを叱らなくてはいけない?
そうでもして「成長」させないといけない?
子どもの遊びたいとか休みたいとかって気持ちを抑えて授業をしなきゃいけない?
まるで授業が進んだことを「成長」だと定義しているように。

僕らはそれがしたくて先生になったのでしょうか?
働く前のあの頃イメージしていた「先生」って、これだったでしょうか?

イエスとは言えない気がする。
でも、その時のイメージとは違う現在だとしても、僕らは善意で、よかれと思ってそれを行っている。

善意。学校で起きる好いも苦しいも、その善意で全て起きている。
誰も願っていなくても。そう行動させる、そしてそれが当たり前と思わせる、そういうシステムが学校にはある。

それが僕は、怖いと思っていました。

(以前書いた関連記事です)


学校の怖さというのは、すべてが善意だということ。そしてその善意が強制力をもつこと。
「休み時間は外で遊びましょう」二時間目が終わる時、例えばそんなアナウンスが入る。

少しでも密にならない状況をつくりたい
コロナで落ちた体力を回復させたい
元気に遊ぶ子になってほしい
太陽光を浴びてほしい

「外で遊ぼう」には色々と理由があって、すべて善意。子どもたちのため。
だけれど中で過ごしたい子もいるよなあ。独りがラクな子もいるだろう。

教師の言葉で、休み時間が「指示」になる。

SDGsとか多様性とか言われる時代。そうですよね。ごもっとも。学校だって当然そんな取り組みを始める。

でも、そんな先生の一言が、「休み時間は外で遊びましょう」や「朝は読書をしましょう」が伴う強制力が多様性と反する可能性は?

多様性って何だ?どこまでをよしとするんだ?

この問いに答えを出さないと、学校はその善意によって多様性と真逆の事態を招くことになる。


「学校」は強制力を伴う。それが定義だとも言える。

それはネガティブにもポジティブにもなる。

強制力→誰もが通る道→誰しもに力をつけられる→人間が幸せに生きていくために必要な力を手渡せる、であるならば素晴らしいことだ。

強制力というのはそういうポジティブな面もあるし、だから国策に利用されもする。

「子どもたち」とまとめて見る国的視点とは別に、一人への働きかけが人数分だけ起こる場所としても学校を見てみよう。

「その子個人」「一人ひとり」の人生のために学校はどんな風に強制力を使うのか?

そう考えると、学習時間も朝の会も給食も休み時間も、「ただそれをする」以外の意義を帯びてくる。

給食はただ食べるだけじゃない。学校という空間の中での食事だからこそ手渡せる何かがある…ということ。


「外で遊びましょう」に戻ってみる。休み時間って一体なんだろう。

「外で遊ぶ時間」だとも、もちろん言える。

けれど大人の指示に従って動く学校時間の中ではかなり貴重な、その子の自己選択の機会だとも言える。
そう捉えれば「自分で判断する力」とか「自分の好きを知る力」とかが育つ時間だと言える。

それって人生に必要な力だね、ということになる。

では「休み時間は外で遊びましょう」が、休み時間すら指示に従う癖を育てている可能性は?

休み時間は休憩する時間、遊ぶ時間。もちろんそうなのだけれど、それ以上の意味を持ちうるのじゃないか。

少なくとも「授業に集中するために遊んでスッキリしておいで」はオトナ側の都合だよなあ。

多様性ってなんだろう。

何でもアリということではなく、やっぱりどこかに一線がある。と感じている。

例えば「好きなラーメン何?」と訊いたとする。

答えが「味噌」なら普通のやり取り。
「うどん」だとまあ麺類だからOKかな?
「パン」だと話がズレているよね。
「猫が好き」だと話を聞いていましたか?となる。もはや多様性じゃあなくない?と。

もちろんこれは、今の自分なりの感覚だけれど。

「多様性」のために壊してはいけない一線がきっとあって、それは秩序や了解可能性や繋がりみたいなものかもしれなくて、きっとこの一線を揃えていく作業がこれから必要なんじゃないか。

自由を保障するには「自由を侵害する自由」だけは受け入れられないように。

僕は「学校」が嫌いなんだろうか。そんなこともないと思うのだけれど。
「教育」本来のものは、きっと好き過ぎるくらい好きなのだけれど。

「学校」ってなんだろうか。そこから半歩外に出た今も、まだ頭は晴れずにいる。

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