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先生、どうしてこの字がバツされるの?

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「元教員」でも生きていけるって証明したい、そんな思いです。
複業のよさも苦しさも、どちらもあります。

先生を辞めたからこそ、先生方にお力添えできたら。


この記事の要約

・絶対の正解がないからこそ、あなた=先生の判断が大きな影響を与える。
・良いも悪いも、あらゆる可能性がある。
・翌年に子ども達が困らないために、とりあえず教科書通りが一番無難ということになる。
・微妙な場合は、バツか減点ということになる。
・それを見た教員が、同じ心理になる。
・結果、細かい、うるさい、画一的な雰囲気が生まれる。
 ※誰しも、無闇に厳しくしたいわけじゃない。


Q.「どうしてこれがバツなの?」

Twitterとかでよくあるじゃないですか。
子どもの学校のテストとかを載せて「これがバツって先生厳しすぎでしょ」「こんな教育古い!」みたいなの。

漢字のトメ・ハネ・ハライでバツになる、3×6か6×3か掛け算の順序でバツになる…

その良し悪しは別にして、"どうして先生はバツをつけるのか"、そうなる悲しいワケがあるんです。


A.バツにせざるをえない構造がある。

誰しも、自分に絶対の自信なんてありません。教員だってそうです。
その中で、自分の信念や仮説や判断をもって子どもに接しています。

発言の際、挙手は必要か?起立はするか?
あだ名呼びはアリかナシか?
机は前向きか?班の形か?

無数にある細かな判断の一つが、漢字の○×、掛け算の順序です。

ハッキリ間違いなら困らないのです。
〇とも×とも言える時に、あなたはどちらを付けますか?


「あなたの判断」が問われる。

この時、教育特有の問題が持ち上がります。「どれも正しい」もしくは「絶対の正解はない」ということです。

・漢字のトメやハネが辞書通りでなくても、相手が読めればよいのだ。
・細かいトメやハネまで大切にする力が他の場面でも生きるのだ。
・今の時代パソコンで文字入力するのだから書き方はそこまで必要ない。
・学習が厳しい子にはまず楽しく漢字を覚えてほしい!書き順まで要求はできない。
全て一理あるのです。
(掛け算の順番、掃除の仕方、道具の扱い方…などなど全て同様)


「どれも正しい」もしくは「絶対の正解はない」からこそ、その教員の判断に委ねられることになります。

そしてこの後に起こることが重要です。


最後に影響を受けるのは子ども達。

今年はあなたが担任。マルもバツも、発言の際に挙手を求めるかどうかも、全てあなたの判断です。

そして翌年(数年以内に)、別の教員がその子たちを教えることになる。

この時、教員間の判断の違いが問題になる。それが想像されるのです。だからこそ、必要以上に厳しくする心理が生まれます。


例を挙げます。

今年の担任であるあなたは(私は)、「漢字のトメハネといった細かいことはいったん置いて、とにかく楽しく学習してほしい!」と思っています。
(正確さと楽しさは両立できますが、分かりやすく単純化して考えます)

その思いは学習の端々でメッセージとして現れます。子ども達の字が雑になったように感じて「やっぱり正確に書くことが大事だ」と思い直しても学年の途中で変更することは難しいですし、多かれ少なかれ子ども達は影響されます。

翌年、「漢字のトメハネという細かいことまで正確に取り組んでこそ集中力や自信がつくのだ」という信念の教員がその子ども達を担任することになりました。

「これは前の学年でやっておいてほしかった…」とその先生が困るかもしれません。
「前の担任は誰なんだ?」と自分が責められるかもしれません。
ある子は「こういう細かいことが大事なんだ」とその先生に注意されるかもしれません。
あなたが(私が)やらない選択をしたことで、その子ども達が困るのかもしれません。

その時あなたは(私は)、もう何もできません。「もっと細かいところを大事にするべきだった」と思っても。


〇か×か、あるいは減点か、あなたの判断です。良いも悪いも影響を受けるのは子ども達。
だからこそ、絶対に間違いではない「教科書通り」を落としどころに、トメやハネを「必要以上に厳しくする心理」も生まれます。
(繰り返しですが、トメやハネは一例です)

この心理が互いに働き合うと、厳しさを誰も望まないのに、教員同士が縛り合うことになります。

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「子どものため」だからこそ縛り合うことがある。

・絶対の正解がないからこそ、あなた=先生の判断が大きな影響を与える。
・良いも悪いも、あらゆる可能性がある。
・翌年に子ども達が困らないために、とりあえず教科書通りが一番無難ということになる。
・微妙な場合は、バツか減点ということになる。
・それを見た教員が、同じ心理になる。
・結果、細かい、うるさい、画一的な雰囲気が生まれる。
 ※誰しも、無闇に厳しくしたいわけじゃない。


もちろん付け加えはいくつもあります。
・「じゃあ、あなたが担任をする意味は?」という論点。
・単に考え過ぎだとも言える。
・教員同士だって「色々なやり方があるからね」と思うし、自分にできる範囲でリカバリーもする。
・厳しく教科書通りの先生が合う子も、ゆるい先生が合う子もいる。
・違うスタイルの先生の言葉がその子の世界を広げるかもしれない。
・この記事に書いた先生たちの縛り合い自体、「それは本当に教育的なのか?」は問われるべき。
・AI学習や時代の変化、研究とエビデンスによって、こうした問い自体ナンセンスになっていくだろう。
・だとしても細かいことを「どうでもよい」と切り捨ててよいものか?
・「その子本人の課題だから」と割り切るのなら、教育の役割とは何か?

少なくとも僕は、こんなことを考えながら教員をやっていました。
先生の心理の、一つの説明ではあると思います。

どなたかに届くことを願い、この記事を終わります。

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