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理学療法士から映像の世界へ

● はじめに

突然ですが、今回noteを開始した理由は

【この人に映像を撮ってもらいたい】

と思っていただける方を1人でも多く作るためです。

私自身も写真や動画をお願いする立場であれば、撮影者の"人柄""人間性"を重要視します。

そのため私のことを少しでも多くの方々に知っていただくため継続的に"発信"することにしました。

拙い文章で恐縮ですが、最後までお付き合いください!


● 理学療法士から映像の世界へ

▶︎ プロ野球選手を夢みて

幼い頃から野球に励んでいた透少年はプロ野球選手を目指すべく、日々練習に明け暮れる毎日を過ごしていましたが、
中学生の頃に入ったシニアチーム(中学生硬式野球)で周囲のレベルの高さと体格の良さに愕然としました。

野球に明け暮れた少年時代 = エースとして北九州市長杯を優勝 (1999.8.13)

プロ野球選手になる夢が夢のまた夢となり、進路に悩んだ透少年が選んだ道が”理学療法士”でした。

「スポーツ選手を”支える”人になる。プロ野球選手になれなくても、それをサポートする仕事がしたい!」

透少年は北九州市小倉南区にある専門学校へと進み、見事に理学療法士の国家試験に合格します。

▶︎ 理学療法士として社会へ

そして、理学療法士として福岡市へと移り
・総合病院で4年間
・整形外科病院やクリニックで半年間(非常勤)
・介護保険施設(デイサービス)で6年間勤務しました。

介護保険施設では「係長」という役職まで与えていただき、現場のほとんどを任されていました。
私にとって風通しのいい職場であり、何不自由なく勤務をさせていただきました。

デイサービスで勤務した理学療法士時代 = 高齢者の健康寿命の延伸を支援

しかし…
年齢を重ねるにつれて「郷土愛」というものが心の中に芽生えはじめ
また…
高校生の時に母親を亡くした私にとって「家族」というものに対する執着心や失うことへの恐怖心が人一倍ありました。

そのため、家族と話し合いを重ねて
慣れ親しんだ福岡市を離れ
実家である北九州で一人暮らしをしている父親の元で同居をする決意を固めました。

● 好きを仕事にする

▶︎ 本当に自分がやりたいこととは

そして、次に私が考えたことは…

「住居」が変わったから「職業」も変えよう!

でした。
というわけで、理学療法士からの転職を決意。

ただ、誤解してほしくないのは理学療法士が嫌いになったわけではありません。
理学療法士という仕事は好きですし、やりがいも感じていました。

ただ、好奇心旺盛な性格で”外の世界”にも興味を持っていた私にとって
転職の決断はそう難しいことではありませんでした。

そして…

「本当に自分がやりたいこと」
「自分がやれること、得意なこと」
「時間を忘れて没頭できるもの」

を探す、自問自答の日々が続きました。

ちょうど世間はコロナ禍の真っ只中で自粛モードが漂っていた時期。
「働き方」「働く場所」はもっと自由で柔軟で合ってもいいのではないか。
場所や時間に捉われず、かつ、家族と過ごす時間も確保できる。
そういった仕事はないか….

私が出した答えが「映像制作」でした。

元々、趣味で写真を撮ったり、
友人の結婚式のサプライズ動画などを作っていた経験から導かれた答えです。

”好き”を”仕事”にする!

▶︎ 先の見えない不安に飛び込む

もちろん、ネガティブな声もありました。

「好きなことで飯が食えるなんて甘い」
「家族がいるのに大丈夫なのか」
「せっかく理学療法士の資格があるのにもったいない」

などなど…
私のことを思っての助言と理解しておりますが、私の本心は…

「既に自問自答で何回もネガティブな感情とは戦ってきた。今から新しいことに挑戦する人の邪魔をしないでくれ」

別に反対していた方々が責任をとってくれるわけでもありませんし、人の人生に口出しする権利もありません。
もし、私の周りに挑戦しようか悩んでいる人がいれば、”背中を押してあげる人”でありたいと強く感じた経験でもあります。

「フリーランスなんか先が分からん仕事。不安定やないのか」

と言われたこともありました。
しかし、"先が見えない、先が分からない"とは決してネガティブな面だけではないと思っています。
その先には"闇"だけではなく"光"もあるということです。

逆にサラリーマン時代には先が見えすぎてしまい、自分の将来に希望が持てなくなった時期もありました。
私のような性格の人間は先の見えない"ハラハラ、ドキドキ"の人生の方が向いているのかも知れません。

それに人間は頭が良くて賢い生き物なので、何かを始めるときには失敗したときの「不安」「リスク」を優先的に考えてしまいます。
そして、一歩踏み出す勇気が出ないまま現状に留まる傾向が強いように感じます。

もちろん30歳を越えて、職場での立場や家庭を持つとそう簡単に決断できることではありません。
家族の理解とサポートがあってこそです。家族への感謝の気持ちは忘れたことはありません。

私の存在意義であり原動力である"家族"という存在 = 大分県別府市のホテルにて


そんなこんなで…

● 次回の予告

▶︎ “映像制作”の道を進むことを決めた私が初めにとった行動とは?

▶︎ なぜ熊本県の阿蘇市に単身赴任をして修行することになったのか?

次回のnoteで記したいと思います!ではまた!


● 最後に…

もしよければ"Instagram"もチラッと覗いてくれると嬉しいです。
(フォローなんてしていただけるともっと嬉しいです)https://www.instagram.com/toru_yoshinaga/

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