李誠七の足あと――朝鮮人虐殺の犠牲者を弔う

負の歴史をみつめる

 昨年上梓した『ディープヨコハマをあるく』(辰巳出版)は、約4年がかりで横浜の各所をあるきまわり、同時に多数の文献資料などにあたって書き上げた「まちある記」本だ。

 当初から考えていたのは、「おしゃれな港町・横浜」をただやみくもに礼賛するような本にはしたくない、ということだった。どんな場所にも、輝かしい歴史もあれば、負の歴史もある。指針としたのは、今年4月に亡くなった海野弘さんの「一つの場所は一つの顔を持っているわけではない。そこには歴史の時間が何層にも堆積していて、私たちが現在の表皮をくぐっていけるなら、いろいろな時代の顔を見ることができるのではないだろうか」(『東京の盛り場』六興出版)ということばだ。

 横浜は、言うまでもなく開港、震災、敗戦、その後の占領軍による接収と歴史上いくつもの転換点を経て現在の姿を形づくってきた。
 敗戦後30年以上経ってから東京で生まれ、小学生のときに横浜へ引っ越してきた僕は、そのいずれも経験していない。しかし、子どもの頃を思い起こせば、米兵相手の街娼だった白塗りのメリーさんを伊勢佐木町の路上で見かけた記憶や、黄金町駅近くの大岡川沿いで赤い照明を灯していた「ちょんの間」の風景がまざまざと脳裏に浮かんでくる。
 執筆の途中で横浜の中心部に位置する山手駅近くのマンションに部屋を借りてからは、開港の歴史をいまにつたえる道や震災・戦災の痕跡を刻んだ場所、接収後に建てられた米軍住宅に象徴される「フェンスの向こうのアメリカ」もごく身近に感じられるようになった。

 関東大震災について記述するうえで、朝鮮人虐殺は決して避けては通れない歴史上の惨禍である。
 だが、横浜では近年、保守系の市議会議員が「歴史認識や外交問題に影響を及ぼしかねない」と疑義を呈したことで、市教育委員会が発行する中学生向け副読本のなかの朝鮮人虐殺にかんする記述が事実を歪める形に変更されたり、削除されそうになったりもしている。

 僕自身、かつて市内の中学校で震災の歴史を学んだ際、朝鮮人虐殺については軽く触れられた程度の記憶しかなく、恥ずかしながら30歳前後のときに意識して各種文献に目を通すようになるまで、ほとんど詳しいことは知らずに生きてきた。
 にもかかわらず、さらにその歴史を知る機会が失われていくとしたら、これは由々しきことだ。

 そこで本の取材を進めるなか、実際に朝鮮人虐殺にかかわりのある場所をあるいてみることにした。
 周辺に朝鮮人の居住区があったことから犠牲者が続出した堀割川の一帯、やはり大勢の朝鮮人労働者が犠牲となった旧浅野造船所のドック跡、署内に数百名の朝鮮人を匿い、暴徒に毅然と対応した神奈川警察署鶴見分署の大川常吉署長の顕彰碑が残る鶴見の東漸寺、幼き日に虐殺犠牲者を目撃した石橋大司が市に慰霊碑の設置を訴えるも聞き入れられず久保山に自費で建立した殉難朝鮮人慰霊之碑などである。

堀割川
旧浅野造船所のドック跡
東漸寺の大川常吉碑
久保山の殉難朝鮮人慰霊之碑

 実家のある南区の住宅街に建つ宝生寺にも初めて訪れた。この寺の境内には関東大震災韓国人慰霊碑がある。

宝生寺の関東大震災韓国人慰霊碑

 調べていくと、震災後、この寺で虐殺犠牲者の法要が初めておこなわれたことがわかった。なぜ法要が実現したかというと、それはひとえに李誠七(イ・ソンチル/り・せいしち)という人物の尽力による。

李誠七の慰霊活動

 李誠七は、1883(明治16)年1月8日に韓国全羅北道金堤郡で生まれ、20歳でキリスト教の洗礼を受けた。1918(大正7)年頃に日本へ渡り、中区打越の在日大韓基督教会横浜教会の前身となる伝道所を拠点とした。

 そして1923(大正12)年9月1日、関東大震災に遭遇する。
 震災の直後、各地で朝鮮人虐殺が勃発していることを知った李氏は、近所の百姓の家に助けを求め、押入れの中で一週間過ごしたという。
 やがて外に出てみると、虐殺の犠牲となった朝鮮人の遺体がそこかしこに放置されていた。その様子に衝撃を受けた李氏は、農家で大八車を借り受け、遺体を集めてまわった。
 ちなみに、近年のネット上の言説などを見ても、「惨禍の直後で震災の犠牲者と虐殺の犠牲者の区別がついたわけがないだろう」というような意見が散見されるが、木や柱に縛られているケースや、棍棒による打撲痕、刃物による刺し傷などが確認できるケースが多く、虐殺の犠牲となったことは明白であった。

 遺体は共同の焼き場で荼毘に付され、李氏は位牌を携えて、犠牲者の法要をしてくれる寺をさがしてまわった。鶴見の総持寺をはじめ横浜市内の名だたる寺に願い出たが、ことごとく拒否されてしまう。やがて知人の紹介で南区堀ノ内町の宝生寺を訪れたところ、李氏の真摯な気持ちに打たれた佐伯妙智住職が賛意を示し、神奈川県朝鮮人法要会の助力も得て、ようやく法要を執り行うことができた。
 当時の新聞記事では、「同情すべき遭難先人の為に本県在住の朝鮮人及び内地人有志に依って組織された神奈川県朝鮮人法要会が主催となり市内堀内宝生寺に於て午前八時より十時迄大追悼会を催す」(「横浜貿易新報」1924年8月30日)と報じられている。
 これについて坂井俊樹は、「朝鮮人は日本人に虐殺されたのではなく『遭難』であり、心ある日本人が同情すべき対象として認識され、その結果、『麗しい』催しが印象づけられた」(「虐殺された朝鮮人の追悼と社会事業の展開」『歴史評論』521号)として、記事内に李誠七の名前が一切登場していないことに触れ、「朝鮮人の自主的な活動としての性格を剥奪され」、公的な内鮮融和策の一環として利用された側面を指摘している。

 宝生寺の境内に建つ慰霊碑は、李氏の死後も彼の遺志を受け継いで法要をつづけてきた在日本大韓民国居留民団神奈川県地方本部が中心となって有志の寄附を募り、1971(昭和46)年に建立した。

村尾履吉との交友

 宝生寺での法要がおこなわれた1924年の11月、李誠七は同胞の救済組織〈愛護会〉を設立し、失業者への職業斡旋や生活扶助などに注力するようになる。
 1928(昭和3)年に横浜教会が設立されると、やがてその一部門として愛護会の活動を引き継ぐ〈愛隣園〉が組織され、李氏は園長となった。

 こうした一連の活動のなかで、李氏は村尾履吉(むらお・りきち)と出会う。
 元海軍大佐だった村尾氏は、1918(大正7)年に退役後、仏教徒となり、私立の夜間学校を開校するなど熱心に社会事業に取り組んだ。震災時は三ツ沢でくらしていたが、自宅のそばにある空き地に虐殺の犠牲となった朝鮮人の遺体が山積みにされ、死臭が漂っているのを見かねて、自身の一族の墓の前に穴を掘り遺体を埋葬した。
 1933(昭和8)年7月には、私財を投じて三ツ沢墓地に朝鮮人無縁仏の納骨塔と弔魂碑を建立し、「別に大した事も出来ませんが遠く日本内地に来て物故した人の遺骨が無縁として弔ふ人も無いと云ふことは私のしのび無いところで貧しい私の手で心ばかり弔魂碑を建てようとした迄の事です」(「横浜貿易新報」1933年10月4日)と語っている。
 こうした活動から多くの朝鮮人に慕われた村尾氏は、同じ理念のもとに行動する李誠七と当然のように親交を深め、1926(大正15)年に設立された神奈川県内鮮協会などでともに活動することとなる。

 第二次大戦のさなか、村尾氏は戦災で家を失い、終戦の翌1946(昭和21)年5月に病死した。
 李氏は村尾氏の顕彰碑を建立すべく奔走し、菊名・蓮勝寺の柴田敏夫住職(32代)の協力を得る。そして、「無試験・無採点・無賞罰」の「三無主義教育」を提唱したことで知られる横浜高等工業学校(横浜国立大学工学部の前身)の初代校長・鈴木達治に面会を請う。

 昭和二十二年の夏、何人の紹介もなく、突然韓国人の来訪を受けた。用件も不明であるから、面会したくはなかったが、取次ぎのものから風貌言語は一紳士であるとのことで、応接間に請じ、ねんごろに来意を訊ねた。之が李誠七君であった。六十四五の老紳士で、言葉にかなり聞き取り難い、アクセントがあるが、洗練せられた、見事な日本語で応酬せられた。
 李君は高工の校内に建立せられてある、名教自然碑を見、それから思ひつき、自分も一記念碑の設立を計画中であるので、その碑文と揮毫を私へ依頼したいとの事であった。
 (中略)かつて横濱市に村尾履吉と云ふ、老大佐が居た。大佐は妻子もなく、身よりの親戚もなく、全く孤独の生活をして居った。平素韓国人に関心を持ち、その厚生福祉のため、献身的な努力を惜まず、大佐の住宅は絶えず、朝鮮人の集合所であった。(中略)村尾大佐の墓石を建立するにつき、その墓地は狭溢にして、大佐の遺骨を無縁仏の碑に納むるの外、余地がないのである。遺骨が無縁仏と同居することは、大佐の遺志であったが、それは忍び難き事である。依って自分は在留韓国人の間に奔走して資金を得て、菊名の蓮勝寺境内の墓地を相した。依って無縁仏の碑を菊名に移し、更に一碑を建立しその移伝由来を石に刻し、村尾大佐の徳を長く伝えたいとの事であった。

(鈴木達治「韓国人李誠七君」『煙洲漫筆』、一部現代仮名遣いに改めた)

 李氏の話に胸打たれた鈴木達治は、碑文と揮毫の依頼を即座に快諾し、碑の建立に際してもさまざまな働きかけをおこなった。
 そうして1947(昭和22)年に三ツ沢の無縁仏が蓮勝寺に改葬され、村尾履吉の功をつたえる改葬記念碑も新たに建立された。

蓮勝寺の弔魂碑、改葬記念碑、納骨塔。右端は1989年に民団が設置した韓国人墓地改修記念碑
納骨塔には「施主 村尾家」と刻まれている
改葬記念碑には「煙州 鈴木達治」(煙州は鈴木氏の雅号)の筆で李誠七の名も記されている

 また、港北区篠原町の東林寺には朝鮮人合同墓地があるが、これは李氏がみずから鍬を持って寺の裏山を崩し造成したものだという。同寺の瀧田達禅住職(24代)は震災時に寺の竹やぶの中に多くの朝鮮人を匿った人物で、やはり神奈川県内鮮協会の活動を通じて李、村尾両氏と交流があり、愛隣園の創立委員にも名をつらねている。

東林寺

晩年の李誠七

 1959(昭和34)年1月14日、李誠七は76歳で逝去した。
 民団神奈川県本部編著『関東大震災横浜記録』(1993年)によれば、李氏の遺骨は南太田駅近くにある清水ヶ丘教会の納骨堂におさめられたという。同教会の倉持芳雄牧師と李氏は、家族ぐるみで親しく交流があった。

清水ヶ丘教会

 清水ヶ丘教会に連絡したところ、倉持芳雄牧師の子息である倉持和雄さんに面会が叶った。

「私の父は8歳のときに震災に遭いました。当時は東京の月島にくらしており、混乱のなかで朝鮮人が捕らえられていくところを目撃したそうです。とりわけ手を針金で縛られて土管のなかに押し込まれたおばあさんの姿は、大人になり神学校に入ってからも繰り返し夢に見たらしい。父はその夢を『朝鮮人に伝道しなさい』というお告げと受け止めて、牧師になるとまず川崎の浜町にある朝鮮人教会から伝道を始めました。そんな父でしたから、李誠七さんとの出会いに運命的なものを感じていたのでしょう」(倉持和雄さん)

 倉持芳雄牧師が李氏に出会ったのは1950年代前半とのこと。この頃、李氏は南区大岡町字藤ノ木の借家に一人でくらしていた。
 当時の李氏について、倉持牧師は以下のように記している。 

 翁は色白で少しくひげを生やし、やせがた長身で黒のスーツ等で外出する姿は英国紳士然たる風ぼうがあった。また実際にジェントルマンで礼儀正しく、独りの生活であるが清潔この上ない生活をしていた。洋服は皆古いものであるがよく手入れをし、ワイシャツは襟も袖もすり切れているが、常に洗濯した真白いものを着ておられた。(中略)
 病いに倒れて市大医学部病院のベッドに横たわってからは幼児のようになって、度々訪ねる私の手を握って喜んで下さり、聖書の言葉をよく口ずさみ永遠の生命の希望を語っておられた。従って孤独な老人にありがちな愚痴めいた事はひとことも語らなかった。実に神と深い交わりの中に生活しておられ、見舞った私がむしろ励まされて帰ったものだ。

(倉持芳雄「故李誠七翁のこと」『コイノニア まじわり』1982年8月1日)

 藤ノ木にあった李氏の借家には、一時期、米倉猪佐雄さんの一家が部屋を間借りするかたちで同居していたという。
 倉持和雄さんの取次ぎにより、ご子息の米倉美佐男さんを訪ね、話を訊いた。

「私には兄が二人いたのですが、二人とも私が生まれる前年、前々年につづけて亡くなっています。子どもを二人も亡くし、落胆した父は、職場の同僚にさそわれ、清水ヶ丘教会の前身である横浜生糸検査所内の横浜ミッション教会に出席するようになり、1950年に移設された清水ヶ丘教会で洗礼を受けました。その年に私が生まれたのです。
 1952年頃に『横浜で住む家をさがしている』と倉持牧師に相談したところ、李さんをご紹介いただき、藤ノ木の家の一画を間借りすることになりました。私の記憶にあるのは3歳頃からで、李さんの膝の上に座ってスープを飲ませてもらったり、障子の隙間から覗き見したときに『美佐男、そんなところにいないで中へ入りなさい』と優しく声をかけられたりしたことは鮮明に憶えています。本当に孫のように可愛がってもらいました。ご高齢で細身でしたが、矍鑠としていましたね。自給自足を心がけていて、庭には李さんが育てた胡瓜や茄子がなっていました。
 1954年に弟が生まれたあと、横浜の高島台の一軒家に引っ越しましたが、そこにも李さんは何度か遊びに来てくれました。私が小学3年生になる頃までですね」
(米倉美佐男さん)

 美佐男さんに李氏の写真を見せていただいた。礼儀正しいジェントルマンとしての物腰や優しい雰囲気は写真からもつたわってくる。

李誠七の肖像(米倉美佐男さん提供)

 最晩年の李氏は、倉持牧師が書いているように、病気のため横浜市立大学附属病院での入院生活を送っていたようだ。

念願の「帰郷」

 鈴木達治は、先に引いた文章のなかで、「李君は日本へ渡航して以来、一度も帰国していない。母国には五、六人の孫もあり、親戚故旧もあるから、一度帰国したいと時折り私へ洩らして居たが、昨今は経済上の事情が許さぬから、帰国を諦めて居るとの事で、私も聞いて気の毒な感じがする」と書いている。おそらくはそんな李氏にとって美佐男さんは実の孫のような存在だったのだろう。
 倉持牧師は臨終の際の「私の骨を頼みます」という李氏のことばにしたがい、清水ヶ丘教会の納骨堂に遺骨をおさめた。
 それから30年以上経った1990(平成2)年11月、李氏の遺骨は韓国天安市にある国立墓地〈望郷の丘〉に移葬されることとなる。ちなみに、蓮勝寺に葬られた無縁仏の遺骨もこのかん数度にわたって当地に移葬されている。

米倉美佐男さんが韓国を訪れた際に携えていた〈望郷の丘〉の案内冊子

 美佐男さんは1994(平成6)年にこの李氏の墓に参拝した。

「父もぜひ一度、李さんのお墓に参りたいと願っていましたが、高齢で叶わず、私が家族を連れてお墓参りをする目的で韓国を訪れました。私は李さんが結婚されていたとは知らず、お子さんがいらっしゃることもずっと知らなかったのですが、そのときに初めて父から『じつは李さんにはお子さんやお孫さんがいるんだ』と聞かされ、日本にご親族がいらっしゃることがわかりました。そこで連絡したところ、〈望郷の丘〉にお墓があることを知りました。私は李さんが亡くなったあと神学校を卒業し、牧師として各地の教会を転々としてきましたが、天国にいる李さんは私が牧師になったことを誰よりも喜んでくれているにちがいない――そんなことを思いながら、李さんのお墓に参りました」(米倉美佐男さん)

歴史と向き合うこと

 先述した新聞記事にかぎらず、李誠七の名は公的な資料にはほとんど記されていない。
 たとえば、司法省の調査報告や警察の記録では、陸軍当局や警察が流言の拡大を防止しようとしたこと、多くの朝鮮人を保護したことは事細かに記され(実際には、警察が率先して流言を拡大させていたという証言も数多く残っている)、先の大川常吉署長の行動については「崇高な警察精神とヒューマニズムは民族と国境を越え、消えることがなかった」(『神奈川県警察史』)などと称揚する一方、虐殺の危険にさらされた当事者である李氏の活動についてはまったく記述がない。

 李氏の活動の痕跡をたどり、その精神を継承していくことは、横浜というまちの表皮の下に息づく時代の顔を認識し、多面体としての歴史と向き合うことにつながっていくのではないだろうか。

参考文献・論文
今井清一『横浜の関東大震災』有隣堂、2007年
神奈川県警察史編さん委員会編『神奈川県警察史(全三巻)』神奈川県警察本部、1970~74年
神奈川県自治総合研究センター編『神奈川の韓国・朝鮮人 自治体現場からの証言』公人社、1984年
神奈川新聞社会部『日本の中の外国人 「人さし指の自由」を求めて』神奈川新聞社、1985年
神奈川と朝鮮の関係史調査委員会編『神奈川と朝鮮 神奈川と朝鮮の関係史調査報告書』在日本大韓民国民団神奈川県地方、1994年
『神奈川のなかの朝鮮』編集委員会編著『神奈川のなかの朝鮮 歩いて知る朝鮮と日本の歴史』明石書店、1998年
『関東大震災時朝鮮人虐殺 横浜証言集』関東大震災における朝鮮人虐殺の事実を究明する横浜の会、2016年
鈴木達治『煙洲漫筆』煙洲会、1951年
民団神奈川県本部編著『関東大震災横浜記録』1993年
倉持芳雄「故李誠七翁のこと」『コイノニア まじわり』1982年8月1日、1983年1月2日
坂井俊樹「虐殺された朝鮮人の追悼と社会事業の展開――横浜での李誠七、村尾履吉を中心として――」『歴史評論』521号、1993年


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