#386C|「その場にいてほしい人」に

私が仕事の面で「このようになりたい」と思う人の特徴の1つに「凡ミスがない」という点がある。人間誰でもミスはするが、ミスをした時にすら「仕事ができる人」というのは安定した出力がある。どんな時も下手なことをしない、言わない。

担う役割により必要になる能力は違えど、たいていのシーンで「ムラがある」人間は使いにくい。よっぽど強力なものを持っていなければ、あまり歓迎されないだろう。

「相手を感動させられるナニカ」よりも前に「失礼のない言葉・態度」が取れること。「すごくおもしろい文章を書ける」よりも前に「締切に間に合う」こと。「おしゃれでかっこいい出で立ち」より前に「気遣いと感謝ができる」こと。「場をドカンと盛り上げる」前に「みなが居心地よく」いられること。「すごい成果を出す」よりも前に「必要なことを淡々と続けられる」こと。

前者もいいが後者が抜けては、たいていの場合はイマイチというか、前者は後者ができた次のフェーズのような感がある。「得点する」より「失点しない」方が多くのシーンでは大切だ。


私は「しまった」と思う言葉や振る舞いをすることが多い。教養や人生経験の偏りから起こっていると考えているが、どうであれそういうものはやったあとにはもう遅いことがたいていだ。口から出た言葉は取り戻せない。二度目の「はじめまして」はない。

出版記念会でもタスクシュート交流会でもふりかえりオフ会でも、いくつもそういったポイントがあった。それらに限らず、たいていどこかで人と喋ればいつもナニカはあちゃーと思うことがある。

場に応じた適切な言葉や振る舞いをしたいと思うが、それらが身につくには場数もあるが習慣の面が大きく、私の今(これまで)の日常生活を送りながらその矯正は容易ではない、ということを3月上旬の東京で感じた。もっとドラスティックな変化が要る。


大人は大人に対して小さな失礼を指摘しない。自分だけが気づかず失点を重ねて、人が遠のいていくような危機感がある。願わくばご指摘いただきたいと思うのは甘えというか無茶な話で、他人にいちいちダメ出しなんて普通できるものではない。また、指摘して一撃で変われる人などおらず、変化には忍耐が必要だ。ゆえに「住む世界が違う」人からは静かに距離を取るのが一般の動きになる。

べつにそんなことを気にしなくてもいいとか、そういう自分のタイプとは違うことはやめればいい、という考えもあるのだが、今自分が気にしていることはなんとなく、しっかりクリアにしていかないと先が細るように感じるし、逆をいえばこのあたりを丁寧にできれば広がりがある、と感じる。

「ぜひ同じ場にいてほしい」人になるか、「扱いにちょっと気を遣われる」人になるか、というのはとても小さなものが積み重なった結果だと思うが、ものすごく大きな違いに発展する。

人が安心して一緒にいられる人でありたい。

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