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地下鉄にアゲハ蝶

地下鉄の階段を下りたら通路に一頭のアゲハ蝶が迷い込んでいた。

外の光を求めようとしているのか蛍光灯の光に近づいたり離れたり。

ぱたぱたとせわしく羽を動かして。


階段までは約10メートルといったところか。
あいにくなのは電車が入ってくる強い風が奥へ奥へと蝶を吸い込むようにミスリードする。

捕虫網があったら・・・もしかして、と考えるがなすすべもなく。
あっちあっち、と出口を指さしても蝶にわかるよしもなく。
後ろ髪引かれるように幾度も振り向き、あの蝶の残り少ない余生がこんな無機質な場所で、と感傷的になった。
なんとか自力で外に出ていけるように、と祈るばかり。

虫ごときに、と思われるかもしれないが、対象にかかわらず人が無力感を覚えるのはこのように助けたくとも助けられないときだろう。

私自身はさほど誰かのためになりたいと奮起する人間ではない。
いい人ではないがさりとて冷たい人間でもない。
でももし蝶でなく人間であればできる限り言葉を尽くし行動で助けてはいただろう。
それによって少しは自己効力感が得られたかもしれない。

皮肉なことに、その日のクライアントさんのテーマが課題の分離であり、
この蝶に対して私が感じた助けたいけど助けられない、はまさに課題の分離を象徴するような出来事だった気がする。

ああ無常、であった。

虫といえば思い出す本がある。
ガラスの仮面で有名な美内すずえ先生のご自身のスピリチュアルな体験をもとに書かれた知る人ぞ知る「宇宙神霊記」。

いまや入手困難で中古でも2万以上している。
私も以前友人から借りて読ませてもらった。

内容はもちろん素晴らしいものだが、私が一番心に残っているのは実はあとがきに書かれた短いお話。

それは、御手水の中で溺れている虫を見つけた美内先生が、何気にそっと救ってあげたというお話。

そのとき先生は、この小さな虫は自分に何が起きたか気がついていないだろう、虫からしたら大きすぎて見えない存在の自分が彼の命を救ったことすらわからないはず。

我々も大いなる存在のその手によって救われていることに思いがいたらないのかもしれない

というような(表現は正確ではないが)内容だったと記憶している。


いやほんと、人間は我々には大きすぎてその存在を見ることができない力にいつの間にか助けられたり導かれているのかもしれない。

ただ人間がその声かけを聞くすべがないとき……
大いなるその存在はきっとがっかりするかもしれないし、魂の多様な選択だと課題の分離をなさるのかもしれない。


おまけ
蝶ってさ、一匹とか一羽じゃなくって一頭って数えるらしいね!
動物みたいだな







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