見出し画像

マイトガイ・小林旭の軌跡 PART1 MIGHTY GUY ON MOVIES 1958〜1961


 マイトガイ=小林旭。映画デビューにまつわる様々な逸話はその著書「熱き心に」(双葉社)などに詳しい。高校時代、日活のプロデューサーが小林家を訪れ「お宅の坊ちゃん、俳優になれるんじゃないかな」と言うが、父親は「役者なんかになれっこねぇ」。その言葉に発奮して、日活ニューフェイスに応募することになる。幼少の頃より劇団「東童」に所属していた旭少年はしばしば映画のエキストラとしても参加していた。ともあれ昭和31(1956)年、第三期ニューフェイスとして二谷英明らと共に日活へ入社。その時の試験官だった川島雄三監督の『飢える魂』(56年)で本格的に映画に出演。以後、ナイーブな感受性を活かして、悩める青春像を演じ、文芸作中心だった昭和30年代前半の日活において、めきめきと頭角を現すことになる。

 では、最初に映画で唄ったのはいつか? 本人の記憶によると西河克己監督の『孤独の人』で皇太子の御学友を演じたときに、監督の要請で民謡を歌いながら掃除をするシーンを撮影したという。完成作からはオミットされているが、小唄の師匠を母に持ち、林伊佐緒の「真室川音頭」などを好んでいた小林旭の抜群の歌唱力は、当時のコロムビアレコードの目黒賢太郎ディレクターの耳に入ることとなった。それが昭和32年のこと。それから一年半、コロムビアでは小林旭を歌手としてデビューさせるべく、様々な曲が準備されていた。一方、日活では昭和32年末の『九人の死刑囚』(11月12日)あたりから、活劇への可能性も見出され、翌昭和33年には、フランク永井のヒット曲をフィーチャーした『夜霧の第二国道』(2月12日)では、捨て身のアクションを披露。続く裕次郎との『錆びたナイフ』(3月11日)への助演など、少しずつではあるが、アクション映画での可能性をスクリーンで証明しはじめていた。

 唄うアクションスター小林旭の誕生は、まだ少し後になる。昭和33年、『絶唱』(10月15日)を撮影していた頃の9月20日に、コロムビアレコードからデビュー曲「女を忘れろ/恋に賭ける男」が発売される。B面の「恋に賭ける男」は恋をギャンブルに見立て、後の日活アクションの要素もみられる。ともあれこのデビュー曲と11月に発売された「ダイナマイトが百五十屯」の登場によって、歌手小林旭が大きくクローズアップされる。

 そして初めて映画主題歌としてシングルがリリースされることになるのが、昭和34年正月のカラー大作『嵐を呼ぶ友情』の主題歌「いとしの恋人/パパの歩いた道」ということになる。そして続く小林旭の本格的アクション映画が、デビュー曲をモチーフにした『女を忘れろ』(1月28日)だった。この映画のポスターで初めて「青春を賭けた マイトガイ・アキラの新魅力」と「マイトガイ」という表記が登場する。「ダイナマイトが百五十屯」の爆発力にあやかっての「ダイナマイト・ガイ」だが、これが今日まで続くニックネームとなる。

 そういう意味では、コロムビアレコードで作られた唄のイメージに、裕次郎を先駆者とする日活のアクション路線が融合して、スクリーンでの小林旭の方向性が決定したことになる。一番大きいのは小林旭そのものの抜群の身体能力と表現力があったということになる。だからこそ裕次郎をスターに仕立てた井上梅次監督がジャズ映画『嵐を呼ぶ友情』(1月3日)を完成させ、続いて裕次郎の『鷲と鷹』の主題歌のフレーズを活かした海洋映画『海の男は行く』を準備していたことからも、日活のアキラへの期待度がわかる。

 しかし、そうした本線ではなく、モノクロの活劇『女を忘れろ』の舛田利雄監督が生み出した「孤高のヒーロー」の陰影が、この年の夏に登場する『南国土佐を後にして』を原点とする「渡り鳥」シリーズに帰結していったというのが興味深い。小林旭は<現場の人>なのである。会社の思惑だけでなく、抜群の身体能力を活かしたアクションや、『南国土佐〜』の伝説のダイスを立てる神業をワンカットで成立させてしまう<実力>があるから、ヒーローのイメージを作っていったわけである。唄もまたしかり。抜群の歌唱力があればこそ、単なる映画スターの余技にとどまらず、日本を代表するシンガーへと成長していったのだ。

 昭和34年、小林旭は13本の映画に主演している。青春ドラマ『群衆の中の太陽』(3月18日)、ボクサーに扮した『俺は挑戦する』(4月8日)、海洋活劇『二連銃の鉄』(4月22日)、そして野球映画『東京の孤独』(5月12日)など、実にバリエーションが多い。同時に、模索期にあったということの証でもある。模索といえば、この時期の唄もしかり。
 それがペギー葉山の唄をフィーチャーした『南国土佐を後にして』(8月2日)により、無国籍アクションという金の鉱脈を掘り当てることになる。もちろん『南国土佐〜』が無国籍ではないのだが、『女を忘れろ』で孤高のヒーローとなり、『南国土佐〜』で故郷を喪失したことが、小林旭のフィルムイメージの原点となった。続く『銀座旋風児』(9月20日)で、マイトガイが初めてタイトルに冠され、シリーズ映画がスタートする。

 そして『ギターを持った渡り鳥』(10月12日)で、小林旭という映画スターは永遠のフィルムイメージを確立する。和製西部劇と蔑称されながら、スタッフは良い意味で開き直り、「渡り鳥シリーズ」にそれぞれの思いをぶつけ、マイトガイは、演技や唄、そしてアクションで、その思いに応えた。それは観客の願望を満たし、日活そのものが「アクション帝国」と呼ばれることとなった。

 現実的な面では、昭和29年の製作再開後、赤字続きだった日活が、裕次郎で一息つき「渡り鳥」のヒットで給料の遅配の心配もなくなったということもある。イメージでは裕次郎がトップだが、現実的な面は小林旭の映画が支えていたこともまた事実。音楽面でいえば、狛林正一という才能が加わって傑作「ギターを持った渡り鳥」が誕生したことは大きい。

 昭和35年には、『海から来た流れ者』(2月28 日)を第一作とする「流れ者シリーズ」がスタート。「渡り鳥」「銀座旋風児」「流れ者」シリーズをローテーションでこなし、日活は黄金時代を迎えることとなる。そして『海から来た流れ者』では、ついに「アキラ節」というジャンルが確立する。『南国土佐〜』スタイルの民謡をモダンなリズムで解釈したリズム民謡は、ユーモラスな作詞の西沢爽、補作曲の遠藤実、アレンジャー狛林正一の功績によるところが大きいが、どんな曲でも唄いこなす小林旭の歌唱力あってこそ。ともあれ「ダンチョネ節」の登場により、アクション映画で民謡や俗謡を唄うというミスマッチな図式が成立。

 レコードの世界でも「アキラ節」は、歌手小林旭の方向性を決定づけた。この頃になると、映画主題歌を当て込んでの「アキラ節」が量産され、それがスクリーンを通じてヒットするという状況となり、孤高のヒーローと陽気な唄のミスマッチはいつしかベストマッチとなっていった。

 さらに昭和35年秋には「流れ者」第三作『南海の狼火』(9月3日)の主題歌として「さすらい」が登場する。兵隊愛唱歌を採譜して作られたこのメロディーは、マイトガイが演じる放浪者の孤独を象徴し、作品の叙情度とヒーローのイメージをさらに高めた。「さすらい」の登場により、小林旭の「叙情ソング」というジャンルも確立したことになる。
翌、昭和36年になっても、さらにマイトガイの快進撃は続く事になるが。好敵手役の宍戸錠のダイヤモンドライン参加による名コンビの解消、裕次郎の骨折事故、そして赤木圭一郎の死というアクシデントが、微妙な影響を与えていくことになる。

よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。