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最後の晩餐に、それを選びますか?


 よく、最後の晩餐に何を食べたい?と戯れに訊くことがある。訊かれることもある。

 正直食べたいものはいっぱいある。そして、それは季節や気候や時間帯によって、毎日変わる。前に食べたものからの連鎖的なイメージでも変わるし、その日の行動内容でも変わる。従って、臨終直前の気分はその時しかわからないから、正確に答えるならば、やはり間際に訊いて欲しい。死に瀕している枕元で、そっと僕に耳打ちしてください。「いま、何を食べたいですか?」と。

 死に方も色々あるだろうが、割と食べることを考えられる余裕がある時だから、流石に交通事故、とかではないのだろう。車がぶつかって、心臓に電柱が刺さった状態で「ああ、ハツが食べたいな〜」と思えたら、それは流石に強者だ(もう死んでしまうのだが)。まあ穏やかに、病院で、癌の末期とかで、という状況だろう。ひょっとしたら食事制限されているかもしれないが、死ぬ前に食べるのだったら、何を食べても許してもらえるだろう、とは期待している。

 いつもは、その時の状況を想像して、お蕎麦、と答えている。あの味を最後に噛み締めてから死ぬイメージが、一番穏やかな気がする。じわっとくるツユと蕎麦の絡み。食べて行くうちに鼻腔に広がる風味。蕎麦畑に意識が飛ぶ。空から青々とした畑を見つめる。ああ、これを食べれるなら死んでもいい、あ、まさにいま死ぬのか。なんて思いながら、味わうのだろうか。

 ちなみに穏やかさでは味噌汁も捨てがたいが、この味噌、この具、この出汁で、という、内容が具体的に詰められていないため、プレゼンの決定打に欠けているのだと思う。なにせ、今日赤味噌だったから、明日は白味噌で、などと悠長に構えてはいられないのだ。もう死ぬのだから。


 さて、そんなテーマで最近、衝撃的な話を聞いた。あまりにビックリして3回、いやもっと訊き返してしまったくらいだ。

 京都のパン職人の友人・マッチ。彼のお父さんがここ1ヶ月の間に亡くなったという。コロナ騒動の間だったから、見舞いもろくに行けない。マッチも死ぬ直前に一度会えたくらいだったそうだ。鼻の奥に癌がみつかり、それがあっという間に転移して、家族にとっても急な別れだったらしい。聞いた時はびっくりした。

 マッチのお父さんには生前何度か会ったことがある。やはりパン職人で、昔ながらのパンを地元の人に届け、愛されるお店を長いことやっていた。愛嬌があって、試作のパンで、風変わりなものを作ったりもしていた。巨大なパン、形の変なパン。中身にも色々チャレンジしていて、確かちくわが入ったパンみたいなのも作っていた。僕は食べていないが、友人が、衝撃だった、と言っていたのを覚えている。マッチも遊び心がある職人だが、親父さん譲りなのだろう。

 さて、そんな親父さんは癌で亡くなってしまったそうだが、死ぬ間際に食べたいものがある、とお母さんに伝えたという。それは果たして何か? 

風船ガム、やったらしいですわ」

 思わず、飲んでいたビールを吹いてしまいそうになった。いやいや、いくらなんでもそれは。話しを膨らませすぎだろう。
 
「いや、本当なんですって」

 とマッチは言う。思い出しながら、笑いが堪えきれないようだった。直接聞いたお母さんも、流石に聞き間違いかな、と思ったそうで、そのくらい衝撃的だったようだ。

確かに親父はガムが好きでした

 とマッチは言った。まだ笑っている。

 親父さんの冗談だったじゃないのかな?と疑ってしまった。でも、マッチは、多分本音だったと思う、と言う。パン職人だったからといって、パンではない。それはわかる。でもなぜ風船ガムだったのか。考えても、想像しても、全くわからない。食の好みの違いはあれど、これは好みの違いとかいうレベルではない。

 親父さんは最後に風船ガム食べれたのかな?と訊いたが、流石にガムは、という判断で、お母さんは買ってこなかったようだ。可哀想なような、至極当然な流れのような。

 死ぬ間際の話で、悲しい状況ではあるが、なんだか思わずクスっと笑ってしまう、不思議な余韻があるエピソードだ。それこそ、噛めば噛むほど味わいがあるような。

 さて、あなたは最後の晩餐に、何が食べたいですか?

 

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