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歌はため息まじりの告白

歌とは何か?
あらためて考えてみる。

言葉の意味を考える際は、「AはBでない」という否定表現が有効である。AとBは共通の本質を持っている。しかし、Bが持つ特徴B’をAは持っていないという意味で区別される。そこから、B’という特徴を持たないことが、Aの特徴であると分かる。

歌は文章ではない。お互い「言葉」という共通の本質を持ちながら、その外見と用途がまるで違う。歌にはリズムがありメロディがある。文章にはない。リズミカルな文章もあるが、それは単に、歌に似ている文章だというだけである。言葉には必ず宛先がある。歌も文章も誰かに何かを伝えている。しかし、愛を伝えるにしても、文章だとあくまでも愛の事実を報告することが主眼であるのに対し、歌は(当方で頼んでいなくとも)愛の温度まで分からせようとしてくる。

視点を変えて、「うた」という言葉(音)の語源から探ってみよう。歌(カ)は当て字である。「うた」という言葉(音)が先にあって、漢字の「歌」(カ)を後から当てたにすぎない。言葉には名詞と動詞が対になっているものが非常に多い。「住まい」と「住む」、「話」と「話す」、「笑み」と「笑む」などなど。「うた」も例外ではなく、「うたう」という動詞と対になっている。この「うたう」、「うたふる」という古語の短縮形とされる。「うたふる」は時代がくだると「うったふ」と音便変化して、現代語の「訴える」に行き着く。

では、「訴える」とはどういう意味の言葉だろうか?お前を訴えてやる。被害者と加害者の間でよく聞かれる言葉で、非のある相手を責め立てる意味で用いられがちだが、「いじめられっ子は悩みを訴える相手がいなくて苦しんでいた」という使い方もあって、必ずしも責めることが本来の意味ではない。本来の意味は、「相手に向けて己の内面を告げること」である。この行為を一言で言い表す言葉がある。そう、「告白」である。

文字の方からも分かることがある。「歌」(カ)は中国語で、当て字にすぎないとはいえ、古代日本人がこの漢字を輸入して「うた」という音に当てたということは、それだけ「歌」(カ)と「うた」の意味に近しいものを感じたということであって、決して良い加減な考えで当てたわけではない。

再び否定表現から探ってみよう。「歌」は「詩」ではない。中国語においても日本語と同様に、「歌」は名詞にも動詞にも用いるのに対して、「詩」は名詞にしか用いず、動詞の用法を持たない。「詩」は作るもので、作られたものを「詩」と呼ぶのである。反対に、「歌」は歌われたものを指して「歌」と呼ぶのである。歌うという行為の抽象化が「歌」であるのに対して、「詩」は建物や衣服と同じく「作られるもの」のひとつであり、行為(動詞)の抽象化(名詞化)ではなく、純粋な概念である。

古代中国の字典には「詩は志を言ひ、歌は言を永ふするなり」とある。なるほど。「詩」は意志伝達の有効な手段として用いられた。目的は明らかだ。対して「歌」は言葉を長く伸ばして言うものだった。・・・何のために?そして、古代日本人がこれを「うた」の当て字に選んだ理由は?

類義語にヒントがある。「歌う」は「歌を永(なが)むる」とも言う。「ながむる」は現代では「眺める」という、視覚経験に限定された意味の言葉に行き着いたが、本来は「強い」と「強める」、「固い」と「固める」と同じく、「長い」と「長める」、長くするという意味だった。何を長くするかと言えば、むろん、言葉を長くするのである。中国語の「歌」(カ)の意味と、ぴったりと合致している。なお、「なげき」という類義語もあるが、これは「なが(長)、いき(息)」が縮まった形の言葉で、ありていに言えば「ため息」のことである。「なげき」とは、悲しみを事実として伝えようとするものではない。己が悲しみの温度を知らせているのである。この意味において、歌とため息は似ている。

とりとめもない雑談だったが、何とかまとめてみよう。

歌とは、言葉を事実の報告という用途で用いるのではなく、情感をこめて、リズミカルに、メロディアスに、長く伸ばして発せられた言葉によって、己の内面の奥底にひそむ感情の温度までも伝わるように、相手に何かを告白しようとする行為のことである。

なお、以上の話はすべて、江戸時代の中頃を生きた学者、本居宣長(1730-1801)の著書「石上私淑言」(1763)にある話で、筆者の独創による補足や脚色は一切ない。

【おわり】

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