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『ナイフ投げ師』 S・ミルハウザー


#海外文学のススメ


ナイフ投げ師
スティーブン・ミルハウザー

〈あらすじ〉
 ヘンシュは各地で名を上げているナイフ投げの名手である。ナイフ投げという時代遅れの芸を、「血のしるしをつける」という、今までのナイフ投げ師たちが決して踏み越えることのなかった一線を越えた新しい芸に進化させ、名声を築いたのだった。私はその不穏で刺激的な芸を期待しつつ彼の舞台を見に行く。
 ヘンシュは時間通りに現れ、無言のまま、芸を始める。まず最初はアシスタントの女性が衝立の前に投げる輪を、ナイフで射止めるという芸である。大中小、すべての大きさの輪を見事に射止める。次に放たれた蝶を同じように衝立に突き刺す。私は、これまでのサーカスの余興でしかないようなナイフ投げとは全く別の芸だと感心する。さらにヘンシュはテーブルの上に置いた自分の手に、それを見ぬままナイフを投げ落とした。ナイフはすべて指の間に突き刺さる。次に、衝立の前に立つアシスタントのガウンの肩紐を切り落とす。アシスタントの咥えたリンゴを突き刺す。彼女の広げられた指の周りにナイフを投げ、手袋だけを衝立に貼り付ける。ヘンシュは次々に高度な技を披露した。
 いよいよ、アシスタントが「血のしるしをつける」と告げる。ヘンシュの投げたナイフはアシスタントの首の横へと突き刺さり、彼女の首筋に浅い傷がつけられた。見事な芸に魅せられつつも、傷を負った人を前にして、観客たちは拍手を送りながらも戸惑う。
 次にしるしをつけることを希望する人を観客の中から募る。知り合いの女子高校生が名乗り出た。私はそれを止めようとするが、会場の興奮を醒めさせてしまうことに躊躇し、何も言えず舞台へと見送ってしまう。女子高生もまた腕に浅い傷をつけられる。
 さらにアシスタントは、ヘンシュがもっと深い傷をつけると宣言する。舞台に十五、六歳の少年が現れ、衝立に左手首を固定される。ヘンシュのナイフはその掌の真ん中を貫いた。会場に拍手はなかった。アシスタントに傷を押さえられ少年は舞台の袖に消える。
 最後に、一生のうち一度しかつけられないしるしをつけたいと希望する人はいないか、とアシスタントは会場に問いかける。誰も名乗り出ないことに私は失望しつつも安堵する。しかし、やがてひとりの娘が名乗り出る。娘は衝立の前に立たされた。私を含め観客たちは、それをやめさせようかと戸惑うが、結局は何も言えずにいた。ナイフが投げられる。板に刺さる音はしない。もっと柔らかな静かな音がして、娘が倒れた。カーテンがしめられた。観客たちは戸惑いに包まれたまま会場を後にした。

〈感想〉
 この作品を読んで、茹で蛙の逸話を連想した。蛙は、熱湯にいきなり入れると驚いて外に飛び出るが、冷たい水に入れ、徐々に温めていくと、その温度変化に気付かず、飛び出すことなく茹で上がってしまうという話だ。
 観客たちはヘンシュのナイフ投げを見に来る。ヘンシュは名手で、しかも的となる人物を決して傷つけないことが最大の見せ場であるはずの芸であるにも関わらず、「血のしるし」という傷を負わせることを技としてみせると噂されている。「私たち」は、人を傷つけることを見世物とすることに後ろめたさを感じながらも、大いなる好奇心を抱いて会場へと赴く。観客たちはみな、しょせんは「ナイフ投げという、生ぬるく、古風な芸」だと思っているのだ。本当に人を傷つけるわけはない、ただ少し驚かされるだけのことだろう、そう言い聞かせて、抱いた罪悪感をごまかす。既成の芸のもつ安全圏は揺るがされるはずはないという思い込みがすなわち、蛙が最初に入れられる安全な冷たい水である。
 ヘンシュは次々に見事な芸を披露する。衝立の前を舞う蝶を捕らえた技を見た時点で、私は「こんなもの見ようとは思ってもみなかった、記憶に留めるに値する芸であった。」と大いに感心する。その後も芸の披露は続く。技の難易度は増し、観客は感心し、興奮し、拍手喝采を送る。水は少しずつ温められている。観客はヘンシュの技に魅せられながらも、次はどんなにすごいものを見せてくれるのだろうと期待を高めていく。そしてヘンシュは忠実にそれに応えていく。蛙は水の変化にまだ気付かない。
 いよいよ「血のしるし」をつけると宣言されたとき、観客たちはそのとき初めて、自分たちの入った水が少し変化しているんじゃないだろうかと気付く。会場へ来る前の、ヘンシュの噂を聞いたときの後ろめたさを思い出すのだ。へたしたら自分たちは犯罪行為の目撃者になってしまうかもしれない、それどころかそれを咎めず、面白がり、煽り立てる役目を担ってしまうかもしれない、と。しかし彼らは声を上げない。ここまで巧妙に温められてきた水に順応している観客たちは、むしろ、この熱を冷ましてしまうのを惜しみさえする。
 「血のしるし」の技も、最初はアシスタントのほんの小さな傷から始まる。仮にもナイフ投げの名手に従事している助手なのだから、少しくらいの傷は普段負うこともあるだろうし、師が名を上げる貴重な技の犠牲になることを厭うこともないだろうと、まだ観客の良心は安全圏に居座れる。しかし次に観客たちに傷を受けることを望む人がないかとアシスタントが問うて、その安全圏は破られる。さらに水温は上がる。観客の誰かが傷を負うということは、その人にとってなんの利益もない。それどころか傷害事件と言えなくもないのだ。知り合いの少女が名乗りを上げたとき、「私」はそれを止めようとする。が止められない。なぜか。すでに温められた水により、筋肉が、思考が、麻痺し始めているからだ。さらに、もっと「深い傷」が別の少年に与えられる。掌を貫通するその傷に、観客はもう拍手を送ることはなかった。茹り始めている。
 いよいよ「最後のしるし、ただ一度しか受けることのできぬしるし」をつけるという。もしもアシスタントが「師のナイフに胸を刺されてもいいと思う人はいますか」と言ったら、誰もが現実に引き戻され、馬鹿馬鹿しいと憤慨して席を立つだろう。その謎めいた言い方に「私」は、それが「人生最後の傷」すなわち致命傷であることを察しながらも、どこかに猶予を探す。また、誰も名乗りでなければいいのだとも考え、同時にそれに失望する。そして、これまでに充分見事な技を見せてもらったのだから満足すべきじゃないか、と自分に言い聞かせもする。観客の心理は揺れにゆれる。そこへひとりの娘が手を上げる。そのときにはもう全員完全に抵抗力を失っている。声を上げ、何をするのか説明を求めることも、ヘンシュに抗議することももはやできない。何をするのかは誰もがもう充分分かっていたし、それをあえて問うのは無粋であり、ヘンシュへの抗議は、これまで見事な芸を披露してくれた芸人に対してあまりに非礼だと思われるのだ。そして何よりも、会場中が事の成り行きを期待している中、それを妨害することで逆に批難され、暴動さえ起こるのではないかという不安に襲われる。なすすべもなく、ただ、娘に向かってヘンシュがナイフを投げるのを鑑賞するのみである。
 こうして見事に水は沸騰し、蛙は茹で上がる。観客たちは途中何度も逃げ出すチャンスはあったのだ。しかし、自らそれを放棄した。人間の好奇心、刺激への欲求は、扱い次第でどこまでも高められ、下手をすれば殺人行為をさえ待望するようになる。この舞台の演出と同様、この掌編を読む読者もまた、少しずつ緊張感を高め、期待を高め、こうした人間の秘めた残酷さを思い知らされるところまで連れて行かれる。
 ここでヘンシュは寡黙である。表情も変わらない。水槽の外にいて、じっと蛙が茹で上がるのを観察している。彼の目的はひたすらナイフ投げ師としての未踏の技の完成ではあるが、その芸人としての一途な向上心が、無自覚に人間の真理を抉り出してしまった。この姿は、観客以上に深い、さらに取り返しのつかないほど残酷な領域まで到達した者のようである。

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