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『偶然の音楽』ポール・オースター


#海外文学のススメ


偶然の音楽  ポール・オースター
(あらすじ)
 消防士ナッシュは突然二十万ドルの遺産を手にした。三十年来音信不通だった父親の残したものだった。その金でナッシュがしたことは、幼い娘を置いて出ていった妻とやり直すことではなく、新車を買ってアメリカ大陸を走り回ることだった。仕事をやめ、娘を姉の家族に託し、ひとり疾走の旅に出るのである。目的のない旅だった。大音量の音楽を流しながらするドライブで、ナッシュは絶対的な自分自身の存在を感じ取る。残金が再出発のために必要な分だけになったらやめようと考えていたが、なかなかやめることができない。やめるきっかけを見失っていたのだ。
 そんなときポッツィという若者に出会う。ポッツィはポーカーに関しては天才的な勘が働き、どんな勝負でも負けることなどありえないと豪語する。そして翌週、億万長者のフラワーとストーンという男たちと大勝負をすると言う。ナッシュはその勝負でポッツィに残りの金すべてを賭けようと決心し、共に彼らの屋敷へ向かう。
 勝負は終盤までポッツィの圧勝だったが、最後の最後に形勢は逆転し、結局遺産すべてと愛車のサーブを失い、一万ドルの借金まで負うことになった。猜疑心の強いフラワーとストーンはふたりが借り逃げしないように敷地内に幽閉し、アイルランドから運び込んだ古城の石を積み上げて壁を作る仕事を命じる。
 ふたりは敷地内の林の中にあるトレーラーハウスに住み、マークスという使用人に監視されながら仕事を始める。ポッツィはこんなことは馬鹿馬鹿しいとすぐに逃げ出すことを考え、威圧的なマークスにも反抗的だった。一方ナッシュは、石積みという単純作業に人生の再出発に向けての新しい希望を見出し始める。ポッツィもナッシュに説得され、ふたりで着実に仕事を進めていく。そしてとうとう完済の日を迎える。が、その期間の食費や雑費をも借金に計上されており、当初の計算以上の期日を働かねばならないことを告げられる。たまりかねたポッツィは逃亡するが、翌朝瀕死の状態でトレーラーハウスの前に倒れていた。マークスはポッツィを病院へ運ぶ。後に回復に向かっていると教えられるが、ナッシュには信じられず、ポッツィはあの後生き埋めにされ殺されたのだと思い込むのである。ナッシュはマークスへの復讐を果たすため、従順に働くふりをして自由の身になる日を待つ。
 いよいよその日がくる。すっかり気を許したマークスは娘婿と共にナッシュを酒場へ誘う。マークスは借金のかたに取り上げられたナッシュのサーブに乗っていた。帰り道、ハンドルを握ったナッシュは、猛スピードで山道を疾走し、マークスと娘婿と共に対向車のヘッドライトに向かって行った。そしてブレーキの代わりにアクセルを思い切り踏み込むのである。

(感想)
 この作品にはある種の牽引力がある。それはハラハラどきどきするスリリングな展開等によるものではない。そうしたストーリーで用意される危機は乗越えられるためにあり、乗越えることが困難であればあるほど興味を引くし、結末に得られるカタルシスもまた大きなものになる。が、ここにあるのは、もっとネガティブで、不気味で、とらえどころのない不可解な力である。それが作品の奥底に潜んでいて、主人公を突き動かす。
 なぜナッシュは大金を手に入れ、破滅的な人生に自ら身を投じていったのだろうか。
 ナッシュは常識的な考えを持ったごく一般的な人物である。思いがけず大金を手にして大抵の人がそうするように、周囲の人たちとどんちゃん騒ぎをしたり、ささやかな贅沢をしてみたりする。また、今よりもほんのすこしましな生活をするための引越しや転職を考えたり、出て行った妻とよりを戻すことを考えたりする。一時的な散財はしたにしろ、新しい生活を夢見るのにまだ充分なお金があり、その気になれば実現することもまったく難しくはなかったはずである。現実的な計画を立てられるだけの理性と思考力を彼はしっかりと持ち合わせているのだ。実際、無謀な疾走の旅を始めてからも、たびたびその時点での残金でどう新しい生活を始められるかを現実的に考えている。
 一般的なサスペンス作品の主人公は、自らにはどうにもならない理由によって、やむにやまれず危機的状況に追い込まれ、それに立ち向かう。主人公に非がないからこそ、同情を得、共感され、物語に入り込んでもらえるのだ。しかしナッシュはちがう。途中、その破滅への道から脱するすべはいくらでも用意されている。それに気付かないほど愚鈍な主人公でもいない。彼がその気になればいくらでも幸福で安全な人生は開けたはずなのだ。
 大金を手に入れたとき、仕事をやめたとき、姉に娘を預けるとき、旅の途中残金を計算しているとき、ポッツィと出会ったとき、億万長者とのポーカーゲームの最中、決着がつき現金すべてを失ったとき、車を失ったとき、借金を背負ったとき、理不尽な労働を強いられたとき、幽閉されたとき、ポッツィが一緒に逃げようと言ったとき、マークスが心を許したとき、愛車サーブのハンドルを半年振りに握り締めたとき……。すべての機会でナッシュには自由意志が許されており、よりましな選択をする余地はいくらでもあった。にもかかわらず、彼はより自分を追い込むような方向へと突き進み、まっしぐらに破滅していく。それはまるで愛車サーブでハイウエイを疾走していくかのように。
 なぜなのだろうか。ナッシュがよりましではないほうの選択をするたびに、もどかしく思い、理由を考え、かつ、彼に背後霊のように取り付くとてつもなく大きな悪魔的な力をじわじわと感じ始める。虚無感、無常感のようなものだろうか。
 すべての始まりは父親の遺産である。父親は、ドナ(ナッシュの姉)とナッシュふたりとも自分を腹の底から憎んでいるだろうと言ってその財産を残した。ナッシュは父親の死について悲しむことも出来ず、憎むことも嘆くこともできなかった。ただ即物的に金を手にして悦んだだけだった。
 三十年の空白となんの感慨ももたらさない死。
 実は、このことがナッシュにどうしようもないくらい大きな虚無感をもたらしたのではないだろうか。ナッシュが二歳のとき出て行った父、それ以来再婚せずにひとり財だけを残した父、息子にその死を無感情に流されるだけの父、彼の人生は一体なんだったのか、ぽっかりと穿たれたひとりの男の人生を目の当たりにして、ナッシュは何か破滅的な大きな力に取り付かれてしまった。理性的な彼は途中何度もそこから抜け出るアイデアを思いつく。意志さえあれば実行できる。しかし力はナッシュに前向きの行動させない。ただ、破滅させるだけの方向へと走らせるのだ。
 ポッツィは本当にマークスに殺されたのだろうか。わたしは違うような気がする。マークスはナッシュが思うほど悪人ではないように思えてならない。しかし、ポッツィがマークスの言うように本当に回復したのか、あるいはナッシュの思い込んでいるように死んでしまったのか結局分からずじまいである。分からないまま、最後の宴に突入し、麻薬的な絶対的存在感を味あわせてくれたあの赤いサーブのハンドルをナッシュは握る。マークスは本当はいい人間ではないのかと思わせるナッシュの理性は巨大な虚無感に押し潰され、ただただ対向車のヘッドライトに向かってアクセルを踏み込ませる。そこでは、ナッシュ自身の悲鳴とナッシュに憑依した悪魔の高笑いとが共鳴していたのではないだろうか。
 この作品の牽引力、それはナッシュを破滅に駆り立てるものは一体なんだろうかという謎である。その謎はしかし明かされない。ただ、破滅に向かって疾走し続けるひとりの男の姿を見つめながら感じ取り、読者ひとりひとりが見つけ出すしかない。不可解を不可解なままで完結して許されるのは、おそらく作品に潜ませたその力がゆるぎなく、また生々しく、確固としてそこに存在しているからなのだろう。それを感じることこそが答えなのだと思う。

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