見出し画像

『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ


#海外文学のススメ


『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ

あらすじ


 本書は、ある哲学者がある一頭のオオカミ(正確には犬との混血で九七%のオオカミ)と出会い、その死をみとるまでの記録と、その体験を通してなされた彼の思索が記されたものである。
 生後六か月の仔オオカミ・ブレニンと出会ったとき、著者マークはアラバマ大学で哲学を教える若き准教授だった。ブレニンが彼の家にやってきたとき、まず最初にやったのは部屋のすべてのカーテンをレールごと引きちぎり、家具を破壊し、地下室を駆け回って空調のパイプを噛み切ってしまったことだった。それから、マークは辛抱強く、緻密に、そして愛情深くブレニンを教育し、共に生活するための規範を作り上げていく。
 マークの根本的な考えは、自分の命令に従うように訓練するのではなく、状況が求めることに従うようにブレニンに選択させる、ということだった。つまり、同居人と快適に生活するためにはカーテンを引きちぎるべきではないとブレニンに判断させるのだ。マークは、人間社会に生きるオオカミに世界が何を要求するかを理解させる教育者としての立場を自身に課したのである。
 具体的な生活のルールとしては、第一にブレニンを決して独りにはしないことだった。マークの行くところにはどこにでも、大学の哲学の授業、ラグビーの試合、パーティにさえも、ブレニンが付いていくことになった。そして、不特定多数の他者にあってできるだけ大人しくしていてもらうために、出かける前にブレニンをハードなジョギングに連れ出しできるだけ疲れさせるようにした。赤ん坊の頃のブレニンはマッチョなマークの後を追うのが精いっぱいだったが、やがて、追い抜くようになる。その走りは犬のように肢体をうねらせたりはしなかった。肩と背はあくまで地面と水平を保ったまま、宙を浮くように一直線に滑走するのだ。その優美な姿にマークは感嘆し、また動物として本質的に自分はブレニンには勝てないのだということを発見する。自分は不格好なサルである、と認識するのだ。
 この発見はマークをサルとは何か、オオカミとは何かという思索へと導く。サルもオオカミも群れを生きる。が、サルは策略し、仲間を欺く。オオカミに嘘はない。あるのは強者弱者の順位とそれへの忠誠だ。サルは時間を生き、オオカミは瞬間を生きる。
 やがてブレニンは老いていく。マークとのジョギングもできなくなり、ジープの後部座席に凛と立ち続けることもできなくなる。ブレニンは癌におかされる。手術後、感染症を防ぐため二時間おきに肛門に薬を差し入れなければならなくなるのだが、マークのこの仕打ちにブレニンは身悶え悲鳴を上げる。睡眠時間もままならない中手当てを続けるマークは、朦朧とした意識で、これは地獄だと考える。時間を知らないブレニンは、これが明日良くなるためとは理解せず、単なる虐待としか考えないだろう。自分を愛してくれていたはずの男がなぜこんなことをするのか、苦痛と混乱と深い絶望。それでも自分は手当てを止めることはできない。ブレニンのために、続けるしかない。しかしブレニンはそれを理解しない。ただ愛と信頼を打ち砕かれた衝撃に泣く。地獄には愛する者がいるのだ、愛する者がいるからこそ地獄は地獄たり得るのだ、と。
 ブレニンは死ぬ。マークはブレニンの死によって失われたものは何だろうと考える。マークにとって、ではない、ブレニン自身にとってである。瞬間を生きるオオカミは死によってサルほどに失われるものはないのではないか、と彼は考える。


    感想


 小説とは何か、をずっと考えている。わからない。小説の豊かさとは何かを考えることからまず始めようと思った。
 といいながら、読んだこの本は小説ではない。オオカミと暮らす著者の十年余りの年月が舞台として据えられているが単なるノンフィクションやエッセイというのでもない。その風変わりでマッチョな生活のなかでなされた哲学的思索が中心ではあるが、といって、学術的な哲学書というわけでもない。ではなんなのだろう。
 著者自身もよくわからないと言っている(ヲイヲイ)。しかし、彼にとって優秀な編集者が常に重要なポイントを見失わないように注意深く配慮してくれていたため、本書はより良いものとして仕上がったのだと、あとがきで謝辞を述べていた。では、この「重要なポイント」とはなんだろうか。
 おそらく、美しく強いオオカミ・ブレニンを通して人間とは何かという問いを考えぬくということだろう。そして副題は「愛・死・幸福についてのレッスン」とあるから、「人間とは何か」という大きな問いのなかに、人間にとっての愛と死と幸福とは何かという問いが分節されている。
 そのレッスンはすべてブレニンを通してなされる。だから著者はブレニンから目をそらさない。生後六週間の野生児のエネルギッシュな破壊行動から、病におかされ苦しみ、一時的な回復を見せ、奇跡のような幸福な最期の時を著者にプレゼントして死んでいくそのときまで、著者は凝視し続ける。著者が「この本の主人公ブレニン」と記したように、たしかに一頭のオオカミの一生をつづった物語がここにはあり、若い彼らが暮らしたアラバマの街、アイルランドの大麦畑で鼠を追って飛び跳ねる様子をまるで黄金の海を跳躍するイルカのようだと描写したその場面、瀕死のブレニンがあげた悲鳴とその悲しみに満ちた灰色の瞳、フランスの片田舎での静かで美しい彼らの余生、多くの小説的要素(ほとんどが美しい描写だ)によって、一篇の小説としても十分読むことができる。
 著者は、レッスンは直感的で非認識的なものだった、と記している。これは学術的な哲学書ではありえないし、ひとりよがりで客観性を欠いた他者に伝わりにくいものに陥りやすい。が、ブレニンと、その生活と、彼らを取り巻く風景などの小説的な描写が逆に「直感的で非認識的な哲学書」として成り立たせるための大きな支えにもなっている。著者の直感や非認識的な考えが、豊かな描写によって疑似体験させられるゆえに、だ。だから、これは小説でもあり、哲学書でもあり、互いが互いを補完し合って成り立っている不思議な書物である。
 彼の描くブレニンの姿は美しい。若くマッチョな著者は、動物の雄として屈辱的な敗北感を味わうが、それがリアルに伝わってくる。このリアルな敗北感こそが直感的で非認識的なレッスンの始まりである。なぜサルはオオカミほど美しくないのか、その差異は何か、他者を欺くことでよりよく生きようとするサルは、つまりこの場の虚を利用して未来の実を取ろうとする時間の流れを生きる、対してオオカミにはいまこの「瞬間」の実しかない、「瞬間」がすべてで、全力で、命そのものだ、と、そのブレニンの躍動する肢体の描写とともに感じさせてくれる。これはいわゆる一般的な哲学書による論理で理解するということとは全く違う。著者は『存在の限りない軽さ』を愛読しているというが、なるほどと思う。ベースの物語がフィクションかノンフィクションかだけの違いで、両方とも小説的な描写によって著者が、読者が、深い思索へもぐりこんでいくような構造になっているのだ。
 著者はブレニンの死後、薪の向こうにブレニンの幻をみる。彼はそれを実在だと確信する。わたしもまた確信できる。そして、瞬間を生きるものは死によって何も失わない、とこれもまた直感的に知る。では、時間を生きるしかないサルはどうしたらこれに近い豊かな生を送れるのだろう。「最高の瞬間」を知ることだ、と著者は言う。それは、幸福による絶頂や勤勉な努力による達成感などではなく(これらはすべて時間的な価値観だ)、彼は瀕死のブレニンを手当てしているときに地獄を直感し、それでもブレニンの生を怒りのように願い祈ったその瞬間だったという。これは論理的帰結ではないし、汎用性もない、ここまでこの本を読んできた読者にしか納得はできない。わたし自身がどこまで納得できたのかはわからないが、「人生において大切なものは、時間がすべてを奪った後に残るものだ」という言葉を、人生を小説に置き換えて考えたとき、それこそが小説の豊かさだ、と納得できたことが、この本を読んでの最大の収穫だったと思う。その小説がうばっていた読者の時間を返さなければならなくなったとき(つまり読者がその作品を読み終えたとき)、何を読者に残すことができるのか、それが小説の豊かさを示すものだろう、と。

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?