見出し画像

『バベルの図書館』ホルヘ・ルイス・ボルヘス


#海外文学のススメ


バベルの図書館(『伝奇集』より)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス
〈あらすじ〉
 六角形の回廊を配した図書館がある。六角形のうち四辺に五段の書棚があり、一段に三十二冊の本がおさめられている。それが上下の階へ、際限なく連なっている。また狭いホールがあり、そこには螺旋階段と鏡がある。光源は各階にふたつずつ並んで配されたランプである。わたしはそこで多数の六角形を監督している。図書館という宇宙空間を旅する旅人のような存在であり、死ねば回廊の低い手すりから放り出され、底に辿り付くことなく、落下途中で風化し、消滅していくのである。
 図書館には公理がある。ひとつは「図書館は永遠を越えて存在する」。もうひとつは「正書法上の記号の数は二十五である」。
 これらの公理の発見者は、ある天才的な司書であった。彼は五百年前発見されたある書物によって、「いかに(そこにある書物が)多種多様であっても、すべての本は二十五種のおなじ要素からなっている」ことを発見し、また「広大な図書館に同じ本は二冊ない」という事実をも指摘した。そして、図書館の書物は二十五の文字と記号の組み合わせによってなされる表現可能なもののいっさいである、ということを導き出したのである。
 このことによって、人々は宇宙に根拠が与えられ、希望が無限に広がったと歓んだ。そして己の弁明を発見しようとやっきになり図書館内を駆け回り、お互いぶつかり合い、争った。しかし己の弁明の書など見つからず、彼らの希望は幻だと気づかれた。同時に「図書館と時間の起源」の解明も期待されたが、四世紀以上探されて、いまだ解明されていない。
 また、ひとつの迷信があった。それはすべての本の完全な要約が成された一冊の本があり、それを読み込みすべてを知った神のような存在の「書物の人」という司書がいる、ということであった。わたしは、自分がその「書物の人」である幸運までは望まないが、せめてその人が実在するという事実だけでも示して欲しいと強く望むのである。
 図書館によって儚い希望を抱かされ、のち絶望した人たちは、「図書館は不合理である」というニヒリズムに陥ったが、わたしは、図書館は絶対的に不合理なものを含んではいないと信じている。真理のいっさいは図書館にあり、しかしそれには到底たどり着けないと気づき始めた人類は、絶望のため自殺し、いつか滅んでしまうかもしれないが、その後にも図書館は永久に存在し続けるだろう。「図書館は無限であり、周期的である」。これがわたしの結論であり、希望である。

〈感想〉
 まず、「図書館」の構造的な描写から始まる。それは六角形の回廊からなり、回廊は上下に無限に連なって、またホールにある鏡は、無限の奥行きを有している。縦と横、双方に無限の空間をもつその図書館は、まさに宇宙的空間であり、回廊にふたつずつ解されたランプの仄明るい光が、無限に広がる宇宙空間にまたたく儚い星のきらめきを思わせる。それは幻想的で、まるで夢の中の構造物のようでありながら、六角形の回廊のその一辺には五段の書棚があり、一段には三十二冊の本がおさめられているというように具体的な数字も羅列されているので、奇妙な現実感も合い混じっている。
 作品の舞台は、この図書館、一点に留まっている。
 語り手の「わたし」は、この図書館の司書である。途中、「わたしの父」も、「MCV」とだけ書かれた一冊の書物を見かけたとして登場する。しかし、それ以外「わたし」の家族は出てこない。いるかどうかも分からない。それどころか「わたし」の日常生活の背景は全く描かれていないのだ。観念としての「わたし」が、ただ「図書館」そこ一点にだけ注目し、まるで学術書の記述のように、淡々と語っていくのである。
 しかし、それでもそこからは、作者あるいは「わたし」の「図書館」に対する強い情熱が感じ取れる。じっと見つめ、細かに描写した建物構造のみならず、そこにおさめられている書物のひとつひとつを見つめ(しかし膨大な数のすべてを見ることはできないということも説明しながら)、全体を見つめ、その間を彷徨う人間たちを見つめ続ける。
 「図書館」は宇宙だという。
 そこにおさめられた書物はすべて、二十五の文字と記号によって構成されているとする(アルファベット二十三文字とコンマとピリオド)。これは、宇宙空間のあらゆる物質がすべて、原子(原子核、中性子、電子等)で構成されていることに相応する。原子のつらなりが宇宙に無限に存在することは可能だが、「存在」ということで言えば「膨大であって無限ではない」。これは「図書館は無限である」が、「二十数個のあらゆる可能な組み合わせ」がカッコつきで「その数はきわめて膨大であるが無限ではない」と言っていることに対応している。こうしたところで作者は決して妥協しない。図書館が無限だと断定するなら、そこにある書物も無限だろうと流してはしまわないのだ。こうした妥協のない語りはだから、ときにまるで禅問答のように分かりにくい。しかし、それは解明すべき分かりにくさであるという信頼につながる。まどろっこしい言い回しをしても、きちんと読み込めば、そこには必ず合理性が見出せるのだ。彼は、そこから目を離さない。一見不合理でしかないようなものも「絶対的に不合理なものは含んでいない」と凝視し続け、合理性を発見し、妥協なく記述し続ける。
 無限の可能性を持ちながら、「存在」は事実として有限である、この隙間にはさまって、「図書館」を旅する人たちは右往左往する。有限の存在だから把握できるだろうという希望を持ち、そのすべてを「完全に要約した一冊の本」を追い求める。
 これは、真理を求め、物理や化学や宇宙工学を探求してやまない科学者たちや哲学者たちに相応する。有史以来、人類は世界の成り立ちの原理を追い求めてきた。神話を産み、物語を作り、宗教を編み出し、希望を見出した。宗教で説明のつかないものが出てくると、科学によって解明しようと探求し、やがて神は死んだと絶望し、しかし絶望しようがニヒリズムに陥ろうが世界は世界として歴然とそこにあるのだと気づく。新しい科学と哲学はまた、新しい物語を生み出し、人類に甘美な希望をもたらす。人類は、希望、物語の創造、探求、絶望を周期的に繰り返し、しかしそれは円環状にではなく、螺旋状に、決してたどりつけない真理に向かって突き進んできたのだ。そしてこれからもそうであろう。
 この姿を、「図書館」という架空の小宇宙を描き出した中に人を配し、なぞらえる。まるで仔細な蟻の生態観察記録のように、人々の生み出す希望や絶望や思索や再生を描きこんでいく。「わたし」は、そこにある真理には永久にたどり着くことが出来ないのだとうすうす知っている。それでも求めずにいられない。逆に、たどり着くこと自体はもう望んでいないのかもしれない。たどり着いてしまったらそこで「図書館」の永遠性は失われてしまうからだ。追い求め続けること自体を希望として、充実として、それを「無限であり、周期的である」という甘美な物語として作り上げたのだ。
「わたし」は、「図書館」の旅人たちの愚かさや、必死さや、勤勉さを、我が身にも引いて、温かく語りつくす。それは、今のこの世界も、どこかでわたしたちよりもずっと高次な知性の視点によって観察されているのではないかと思わせる。その視線は、作者の、緻密に作り上げた「図書館」という宇宙を空想の中でひたすら凝視する視線でもある。そして、そこから必然的に沸きあがってくる物語を書きとめたこの作品は、人類という「真理を追究してやまない宿命」を背負った、愚かしくも愛しい存在をあぶりだし、描き出しているのである。

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?