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【短編小説】僕とガモフと校庭で

 僕は高校の三年生を二回やり直した。と聞くとたいていの人は、お前とんでもないドキュンなんじゃねえの、と思うだろうが、そうじゃないんだ。僕は約二年半、高校三年生として過ごしたが、その間、時間は一年しか過ぎていない。留年なんかすることなく、高校は三年間で卒業した。五年なんかじゃない。つまり時間を二回も遡ってやり直したんだ、タイムマシンみたいな道具を使って。
 こんなことを話してまともな奴じゃないって思われても当然だと思う。お前、頭イカレてるんじゃねえの、と言われたって仕方ない。僕は今の今までこの話を誰にも話してないんだ。だから君が信じてくれようがくれまいが、僕のことを頭のおかしなイカレ野郎だと思ったところで一向に構いやしないのさ。ただちょっとした気まぐれみたいなものなんだ、この話を誰かに聞いてもらいたいなんて。
 さっきタイムマシンみたいな道具と言ったけど、そんなもの僕が作れるわけはない。ある人物に貰ったんだ。だからこの話はそいつについての話でもある、というか、それ以外にないな。それは高校三年じゃなくて、小学校の六年生の時の同級生だった奴なんだ。つまりそいつがガモフなんだ。
 もちろんガモフというのは渾名だった。本名はガモウフミカネといった。苗字は蒲生だったはずだが下の漢字は忘れてしまった。文兼だったかなあ。しかしそんなことは重要じゃない。第一、本名なんかじゃないに決まっている。当時、というか僕が小学生だから二十年以上前になる。その時に小学校六年生の一年間だけ同じクラスにいた変な子供がガモフだった。
 小学生の時に僕が住んでいたのは高萩県の日宇左市という所で、今では寂れた地方の町だけど、当時は違った。今はトラックと建設機械しか作っていない花菱重工が昔は乗用車も作ってたのは知ってるかい? そう、その頃は日宇左市に花菱重工の大きな工場があって、日宇左市はいわば企業城下町だった。僕の父親も花菱重工の工場で働いていて、住んでいたのも社宅だった。僕が小学六年の時、工場は辛うじてまだ操業はしてたけど、その何年も前から減産減産で、人員整理やらストライキやらロックアウトで街は騒然としていた。僕が通っていた小学校も生徒はほとんどが社宅から通う子供達だから、工場の規模が縮小し、工員がはるか遠くの工場に飛ばされたり、首を切られて家族ごと引っ越して行くたびに生徒の数はどんどん減っていった。ちょっと信じられないと思うだろうけど、入学した時に三クラスあった僕らの学年は、三年生で二クラス、五年生で一クラスになり、六年生の時、クラスに子供は二十人しかいなかった。男が十人、女が十人、どこか山の中の分校みたいな規模だけど、何といっても通学範囲が社宅エリアに限られていたから、一般家庭の子供が紛れてくる余地はほとんどなかったんだ。僕らの世界は狭いエリアで完結していた。そんな僕らのクラスにガモフは六年生の始業式の日に転校してきた。確かに子供の数はものすごい勢いで減っていたけど、工場の配置転換やら何やらで、新しく入ってくる家もあったからそんなガモフの転校は珍しいものではなかった。ただ出て行く数が超過しているってだけだからね。新たに僕らのクラスに入ってきたガモフに不自然な所はなかったけど、彼の存在というか、佇まいというか、振る舞いみたいなものはどこかおかしかったな。いや、ズレていた、という感じかもしれない。転校初日にガモフのことを見た時、「何だか変な子供だな」と思ったのを覚えている。
 彼の身なりはいわゆるガリ勉タイプで、当時はあまりいなかった黒縁の大きな眼鏡をかけ、身体も痩せていて、スポーツが得意そうには見えなかった。実際に彼はひどくスポーツ音痴だったけど、それ以上に大人びた印象の子供だった。ちょっとした言葉遣いや態度、教師を見る時の冷めた眼差しなんかは、学校の教師たちよりもはるかに年上の人物のものに見えた。僕のそんな最初の印象はのちにまったく間違いじゃないのが判るわけだけど、初めの頃、まだ僕と彼がそれほど親しくなかった最初の一週間あたりは、僕に限らずクラスの誰もが彼のことを遠巻きに様子を伺っているような感じだった。それにガモフ自身、人懐っこいわけでもなかった。僕らのことを冷たい目で見ている、というか、見下しているような感じがしたし、とてもではないけど、とっつきやすい転校生ではなかった。それでも彼と最初に仲良くなったのはクラスの中では僕だった。
 六年生がはじまって二週間ぐらいたった頃だと思うけど、学校の帰り道で僕は彼と会ったんだ。当時、僕の一家が住んでいたのは社宅の中でも団地のような集合住宅のタイプで、全部で三十棟くらいある中の一つだった。でも、はじめに言ったように人がどんどん減っていたから、中には誰も住んでいない団地もあった。僕が住んでいたのはB8棟で、お隣のB9棟なんかは二年くらい前から無人になっていた。六年生の時には僕のB8棟に同級生はいなかった。それどころか、周囲の区画に一人もいなかったから学校の帰り道、校門を出て二つ目の角で皆と「バイバイ」と言って別れると、あとは家まで一人きりだった。でもその日、僕が皆と別れて一人で帰り道を歩いていて、赤信号に止まって青に変わるのを待っていると、ふと、ガモフが横に並んだ。
「やあ、君もこっちだったの?」と僕は聞いた。
 ガモフは眼鏡の奥の目を何度かパチクリと瞬かせた。あとで知ることだが、それが彼がよくやる癖だった。「うん、そうなんだ」と彼は言った。
「知らなかった。何棟?」
「Bの9棟さ」
「え? 嘘だろ? あそこずっと無人じゃん!」
 ガモフは一瞬、僕をギロリと見て、歩き出した。信号が青になったのだ。ガモフは早足でスタスタと道路を渡り、そのまま歩き続けた。学校から僕の住む社宅まで子供の足で十五分ぐらいかかったけど、その時、僕は彼を怒らせたような気がして横に並ぶことは出来なかった。そんなこんなでガモフのあとを追いかけるようにして五分ほど歩いた。するとガモフは振り返って、
「無人じゃないよ、僕らの家だけだけどさ」と言った。
「でも、お化けが出るって噂だぜ」
 当時、そんな怪談みたいな噂話はあちこちであった。工員の自殺や一家心中みたいなことも実際に起きていた。何千人も住んでいた社宅だからね。
「出るわけないよ、そんなもの」ガモフは冷たく言い放った。「君は六年にもなってそんな子供みたいなことを信じてるのかい?」
「噂があるってだけだよ」
 その時はまだ僕らは打ち解けてなかったし、少し風変わりなガモフとどんな話をしたらいいのかもよく判らなかった僕は、それ以上、何も言わなかった。五分もすれば僕が住んでいたB8棟のそばまで来た。当然、となりはB9棟だったが、こっちは二年前から無人だったこともあり、破れた窓ガラスがそのままの部屋があったり、南側の二階あたりまで蔦が這い登っていたりと、廃屋ふうのさびれた団地になっていた。
「ここの五階なんだ、じゃあ、また明日な」とガモフは手を上げて言い、歩いて消えていった。
 それ以降、学校でもガモフと口をきく機会は増えたけど、とてもではないが、彼と仲のいい親友になった、といえるようなものじゃなかった。というのも彼が僕らを見る目がいつも年下の子供を見下しているような冷たい目だったし、授業でもほとんど彼は完璧にどの科目のどんな質問もズバリと答えたからだ。ガモフは僕らと仲良くなろうなんてつもりはさらさらなかった。昼休み、給食のあと僕ら男子が校庭でサッカーをしているのに加わることはなかったし、半休の土曜や日曜に集まって近所を自転車で走り回ったり、隣町の港を目指して冒険にいくメンバーに入ってくることもなかった。決して僕らは仲間外れになんかしていない。どちらかと言えば仲間に加わるようにかなりしつこく誘ったりしたのだが、いつも彼は「ごめん、俺はいいや」と言うだけで、スタスタと一人帰っていってしまうのだった。
 そんな彼の態度は当たり前だが、僕らにしたらいい思いはしなかった。前にも言ったけど、僕らの学年の男子はたったの十人だけだった。そんな小さな世界にいきなり混ざった異物だから、拒絶反応みたいなものも出てきたわけだ。クラスの中にはガモフのことを無視したり、口をきかなくなる奴も出てきた。でも僕はそれほど悪い感情はなかった。あちこち転校してきたから友達と付き合うやり方を知らないんだ、かわいそうな奴だ、くらいの気持ちだった。社宅が隣だとか、最初に口をきいて親しくなったからとか、そんなひいき目もどこかにあったのかもしれない。学校からの帰り道、週に二、三回一緒になって帰る時だけ、僕はガモフと接していた。学校ではどこかとげとげしい感じでとりつくしまもないガモフも、僕と二人きりの時だけは、いくらか打ち解けている感じはした。ほんの少し、ちょっとした口のきき方に僕はそれを感じていた。でもすごく仲良くなったわけではないな。
 当時、帰り道でガモフと肩を並べて歩きながらどんなことを話したのか、すべて覚えているわけではないけど、たしか僕が好きだったマンガやゲームのことをただ一方的に喋り、ガモフがとなりで「ふうん」と相槌を返しているだけ、みたいなことが多かったと思う。彼は僕のことを邪険にしているわけでも、煙たがるふうでもなく、普通に接していた。会話らしい会話はほとんどなく、「へえ、そうなんだ」とか「面白そうだな」といった返答があるくらいだったけど。ただ僕がいくらお薦めのマンガやゲームを貸してやると言っても「いや、いいよ」と言って受け取ることはなかった。
「じゃあ、君は夜、何をしてるの?」とある日、僕は聞いた。「ゲームもやらず、マンガも読まず、どうせテレビも見てないんだろ? そんなに勉強してどうすんの?」
「学校の勉強はしてないけど、調べることがあってね」とガモフは言った。「それでけっこう忙しいんだ」
「へえ」と僕は言った。調べるって何を? と聞いた所で教えてくれそうもなかったので、僕はそれ以上つっこむのは止めた。でもある日のこと、ガモフのほうから僕に聞いてきたことがあった。最初、僕は彼が何を言っているのかさっぱり判らなかった。ただポカンと口を開けて聞いてるだけだった。
「君はあの日、あそこで一体何をやってたんだい?」とガモフは聞いたんだ。
「え? 何をって? 何のこと?」
「あの日だよ、君はあの日、僕のことをじっと見てたろう?」
「あの日?」
「すっとぼけるのかい? まあ、いいけどさ」
 そう言って早足で歩いていくガモフを僕は慌てて追いかけた。「君はいったい何を言ってるの? ちんぷんかんぷんなんだけどさ」
「三月に君は僕のことをじっと見ていたろう? 校庭でさ。卒業式があった日の夕方」
「卒業式の?」
「そう、その日の夕方に校庭で僕が一人でいるのを君はじっと見ていた。君は何をしていた?」
 だんだんと僕も思い出してきた。確かその年の三月、だからまだ五年生の時だ。六年生の卒業式があった日のことだった。式そのものは午前中で終わったから僕はクラスの友達の家に行って夕方までテレビゲームをしていたんだ。夕方の五時近くになって友達の家を出て家に向かったのだけど、広い社宅エリアだからその途中にちょうど学校があった。本当なら学校なんてすぐに通りすぎて帰るところだけど、直前に自転車のチェーンが外れて、それを直したものだから手が油で真っ黒に汚れていた。その汚れた手を洗いたくて、僕は学校の裏門から入って水飲み場の水道で手を洗っていたんだ。すると、校庭に一人の男の子が突っ立っているのに気づいた。もともとそこに立っていたのか、僕が手を洗っている間にやって来たのかはよく判らなかった。なにしろもう夕方でかなり薄暗くなっていたからね。でも確かに変な眺めだった。明らかに子供が一人、何もない校庭にぼんやり突っ立っているんだから。薄暗かったし、水飲み場から四、五十メートルは離れていたから、それが友達の誰かなのか、それとも一年上の卒業生なのかよく判らなかった。すると突然、その子供のまわりがパッと眩しく光った。ほんの一瞬だったけど、すごく大きなストロボが焚かれたみたいな感じで、僕は「うわっ」と声を上げてしゃがみ込んだ。しばらく目が眩んで何も見えなくなっていた。ただ、人の気配がすぐ間近でしたので、その子供が僕の近くに来たらしいのは判った。でも、彼は何も言ったりはしなかった。ようやく僕の目が見えるようになった時、校庭には誰もいなくて、正門の扉をよじ登って乗り越えていく子供の影を見た。結局、僕はその体験が一体なんだったのか理解できなかったので、卒業生の一人が学校が名残惜しくてもう一度やって来て、強力なストロボを焚いて写真を撮ったのだろう、という風に考えて納得していた。
「あの日、校庭にいたのは君だったって言うの? じゃあ、こっちから聞かせてもらうよ。君こそあんなところで一体なにしてたっていうのさ?」
 ガモフはもちろん何も答えやしなかった。スタスタと急ぎ足で歩き、社宅にまで帰ると「じゃあな」と言ってB9棟へ消えていくだけだった。その日、というのは三月の卒業式の日の夕方に校庭に突っ立っていたのは、他ならぬガモフだった。そして、そのことがとても重要になる。早い話がその日、ガモフはタイムトラベルをして未来からやって来た。ちょうどその瞬間を僕に見られていた。だから彼は初めから僕に興味を持っていたし、僕のことを警戒していた。となりのB9棟に越して来たのだって、僕を監視するためだった。いや、監視というのはいくら何でも大袈裟だ。僕は当時、ただの小学六年生で何も出来やしないのだから。そんなわけだから、また卒業式の日がとても重要になる。今度は僕ら自身の卒業式の日が。
 いきなり話が飛ぶみたいだけど、正直僕だって六年生の一年間を全部まるごと覚えているわけはない。ただガモフは一年間、僕らに溶け込むことはまったくなかった。どんな時も一定の距離を置いた離れたところにいて、僕ら小学生のことを眺めていた。運動会の練習をしている時、たしか組体操でピラミッドをやったと思うんだけど、ガモフがヘマをしてみんなが彼のことを怒ったことがあった。殴り合いの喧嘩になったわけじゃないけど、誰かがガモフのことを突き飛ばして「お前ふざけるな」とか、どなりつけた。そんなことが一年間でいくつかあり、卒業式の頃には誰もがガモフのことをまともに取り合わなくなっていた。唯一、僕が帰り道で彼と喋るくらいで本当、彼はクラスの中で孤立していた。でもはっきり言うけど、僕はなんとなく判っていた。孤立していたのはむしろ彼が望んでいたことで、ガモフは小学生なんかと友達付き合いをするつもりなど、はじめからなかったのだ、ということを。卒業式の当日、式が終わって教室に戻り、先生に最後の挨拶をしてたり、皆でサイン帳に書き込んでいる時にガモフが教室からスッと出ていくのを見た時も、僕は何も思わなかった。というより、彼の嫌われぶりに巻き込まれたくなかったので無視をしていた。だから社宅に戻って、僕の家の前にガモフがいたのを見つけた時、少しばつが悪かった。でも彼はそんなことは少しも気にしていなかった。座っていた階段から立ち上がり、「君に話があるんだ」と言った。
「話ってどんな?」
「とても重要で君にとっても大切なことさ。五時に学校の校庭に来てくれ」 
 僕は慌てて「なんで校庭なの?」と聞いたが、ガモフはただにやりと笑っただけで僕の横を通り過ぎ、B9棟へ歩いて行ってしまった。五時までまだ四時間以上あったから、それまで僕は家で過ごすつもりだったけど、友達から電話がかかってきて、そいつの家に行ってゲームをしたり、おかしを食べたりしていた。気がつくと五時をすこし回っていた。ガモフのことなんか無視しようかな、という思いも少しあったのだけど、それも妙に気にかかり、友達にさよならを言って家に向かった。その途中に学校があるのは一年前と同じだった。一年前と同じ、ということに何か意味があるのかどうかも判らなかったが、僕はまたしても裏門から入っていった。するとやはりガモフはいた。校庭の真ん中に一人で立っていた。
「やあ、遅いな」とガモフは言った。
「何の用なのさ」と言いながら僕は水飲み場の横に自転車を停め、ガモフの近くまで歩いて行った。もうすでに暗くなり始めていたから、ガモフの目の前に来るまで彼の表情は読み取れなかった。
「君にお礼とさよならを言いたくてさ。君には世話になったからな」そう言って彼はにやりと笑った。
「さよならって転校するってこと? 日宇佐中には行かないんだ?」
「ああ、ここから遠い街に行くことにしたからね」
「そうなんだ。お父さんはどこの工場に転勤になったの?」
「お父さん? ああ、黙ってたけど、父親なんかいないんだ。僕はあそこの社宅に一人で住んでいたんだ」
 言われてみて僕は今までガモフの両親のことなど話題にしたことがなかったのを思い出した。それより社宅に一人で住んでいただって?
「君は何を言ってるの?」
「話しても理解してくれないだろうけど、僕はちょっと独自の研究を一人で続けていてね、それで一年毎にあちこちの街に移り住みながら、一人で生活しているんだよ。もうそんな生活を何百年も続けているんだ」
「はあ?」と僕は声を上げた。「何百年?」
「正確に言うなら、三百五十三年かな。というのも、僕や君の世代が年寄りになる頃、ほとんどすべての病気が治るようになってね、人間は死ななくなる。細胞を若返らせたりも出来るようになったので、年を取ることもなくなる。まあ、いきなりこんな話をしても難しいよな」
「君は僕をからかってるんだ」
「ふふ」とガモフは笑った。「ただ誰も死ななきゃ地球の人口は増えるばかりなんで、そんな年寄りはよその星に移住しなくちゃならなくて、僕はそれが嫌で過去に逃げることにしたんだ。自分自身の子供時代に。そのほうが、ちょうどやってた研究を続けるのに都合もよかったんだ。さっき言った三百五十三年の半分は過去に生きた時間なんだ」
「信じないぞ」僕は言った。
「じゃあ、もっと信じられない話をしよう。この世の中、というか宇宙には星があって、地球があって人間が生きているけど、この地面やビルや人間が出来ている物質なんてものは、本当はありもしないまぼろしなんだよ。うんと細かい素粒子レベルで見てもそんな実体は存在しない。あるのはそこにモノがあるという情報だけなのさ」
「君は何を言ってるのさ?」
「あるのはただのスカラー場だけさ。このスカラー場にエネルギーと情報が与えられると、あたかもそこに素粒子があるかのように場が振る舞う。場の理論ではこう定義できる」
 もちろん、その時にガモフが喋った言葉を一語一句正確に覚えていたわけはない。しかしスカラーバ、バノリロンという言葉はずっと頭の中に残っていた。「じゃあ、どうやって過去に行くんだよ」
 ガモフは「ふふ」と笑うと腰を屈め、足下にあった何か小さな物体を持ち上げて僕の顔の前に突き出した。「これは一種のタイムマシンなんだ」
 僕はもう少しで怒ってその場を立ち去るところだった。なぜって、それはただの鉛筆削りにしか見えなかったからだ。最近ではあまり見かけなくなったけど、当時はどこの家にも、学校の教室にもよくあった手回し式のものだよ。片方から鉛筆を突き刺し、反対側のハンドルをぐるぐる回すと芯と木の部分が削れて、下の透明なケースにカスが溜まる、そう、そんな鉛筆削りそのものだった。「やっぱり君は僕を馬鹿にしているんだ」
「そう怒るなよ、今やってみせるから」
 ガモフは透明のケースを外して地面に置くと、ハンドルをからからと回した。するとケースの内側で豆電球のような小さな明かりが灯り、ガモフが回しながら腕を動かしたので、光の跡が筋になって空中に残った。
「仕組みは単純なんだ。ハンドルは小さなモーターに繋がっていて電気を発生させる。ただその電気をごく限られた一部分に向かって発生させるから、さっき言った場とエネルギーの繋がりを切ることが出来る。電力は微々たるものだけど、精度はそれこそ厳密に計算してある。素粒子一個よりも小さな空間に向かってエネルギーを押し込めるから、場を破壊して光るんだよ」
「それで過去に行けるって言うの?」
「ああ、この時間というのは場が層のように連続して積み重なったものだから、破壊してめくればいいんだ。この光る線で空間に円を描く、その大きさで場がめくれる大きさも決まるんだよ」ガモフは言いながら、さらに腕を大きく動かした。十センチおきぐらいに線の中により大きく光る粒のようなものが現れ、数珠つなぎになった。ガモフは目の前に大きな扉ほどの光る輪を作った。「このくらいの大きさでちょうど一年分の場がめくれあがった。これを通って向こうへ行くと一年前の自分になる。つまり時間旅行さ」
「こないだ読んだマンガで時間旅行は出来ないってあったぞ。ほら、タイムパラ・・・、何だっけ?」
「タイムパラドクス。過去に戻って自分の親を殺したらそもそも自分はいないだろって仮説だな。だからこの装置は厳密な意味ではタイムマシンじゃない。ただの人生やり直し機さ。過去の自分に未来の自分を重ねるだけだから、自分のいない過去には行けないんだ」
「過去の自分に重ねる?」
「さっきも言ったけど、物質なんてものは存在しない。あるのは情報だけだから上書きすることなんて簡単なんだよ」
 僕は頭がくらくらしていた。ガモフはそんな僕に構うことなく、その装置の使い方を教えてくれた。けれど、僕はまだどこかでは疑っていた。どっきりカメラみたいなものが頭に浮かんであたりを見回したけど、僕らだけしかいない小学校の校庭だった。それでも僕は「なんで君はこんなことを僕に言うの?」と聞いていた。
「君には世話になったからな。だからこの装置はあげるから、君が過去に戻って人生をやり直したくなったら使ってくれ。新型を作ったんで、これはもういらないんだ」
 ガモフはそう言って鉛筆削りを僕の手の中に押し込めた。そして「じゃあな」と言いつつ、光の線で出来た輪の中をくぐり始めた。するとガモフの身体は輪の中で見えなくなり、最後に僕に向かって振っていた手も吸い込まれると、光の輪もすうっと消えてなくなった。当然、ガモフの姿はどこにもなかった。
 その後どうしたかって? どうもこうもない、ただ黙って社宅の家に帰ったよ。手渡された鉛筆削り型タイムマシンを自転車の前籠に入れて声もなく、いや驚きのあまり声も出せなかった、その後三日ほどね。そりゃそうだ、一人の人間が目の前からかき消すように消えたんだ。頭がどうにかなりそうだったよ。でも僕は次第にガモフのことは忘れていった。なにしろ小学校を卒業して中学に入るという一大イベントが間近だったし、中学は五つの小学校から集まった生徒で出来ていたから友達関係の新たな構築や、部活動もあったり、それにもちろん勉強も大変だったし、消えて行ったガモフのことはだんだんと小さなものになっていった。中一の夏休みの直前、誰かが「そういえば、ガモフはどこのクラスだ?」と言ったんだけど、僕が「あいつは転校したよ」というと、皆は「へえ」と言って、それだけで終わった。そう、これがガモフの求めていたものだった。誰からも注目されず、気にもとまらず空気のような存在でいること。彼が言うには小学生を何度もやり直しているのは、子供の方が世間から目立たない地味な存在でいられるので都合がいい、ということだった。
 ただガモフから貰ったタイムマシンのことはたまに手にして動かすことはあった。ケースの内部には三本の針のような細い棒が三角錐のように突き出ていて、その三点がぶつかる点で光の線が生まれていた。ハンドルを回し、光の筋が何もない空間にしばらく残って、十分ほどで消えていくのを眺めていることはよくしていたが、その光で輪を作り、中に飛び込もうなんて気はおきなかった。一体どうなるものか判ったものじゃないからね。タイムマシンは僕の机の上にずっと置いてた。鉛筆削りそのものとしても使えたからだ。
 僕はその後もごく普通の中学生、高校生として生活していた。タイムマシンのことなど誰にも話すことなく、いたって平凡、目立つことなど何もなかった。ただ高校三年の九月にあったある事件の時まで過去に遡ろう、なんて気持ちは微塵も芽生えなかった。その事件というのも変な話なんだ。ある日、仲の良かった友人の二本松って奴が僕に相談を持ちかけてきた。当時、僕がいた美術部の女子部員の栄子って女の子のことが好きになった、お前、それとなく伝えて様子をみてくれないか、っていうんだ。面倒くさいなと思ったけど、しつこく頼むんで断りきれなかった。そして部室で二人でいる時に栄子に聞いてみたんだよ。そしたら彼女は目に涙を浮かべて部室から出て行ってしまったんだ。しばらくすると彼女の友達の女の子が五人ばかり部室に入ってきて、僕に突っかってきた。彼女たちはマシンガンみたいに僕のことをなじりはじめた。口々に「あんたってサイテー」って罵るんだ。どういうことかというと、栄子は本当はあなた、つまり僕のことが好きだったのに、その気持ちを踏みにじるあんたってサイテーというわけさ。
 なんだそりゃって思ったよ。それまで僕は栄子に嫌われているって思ってたからね。彼女はいつも僕のことを避けているような気がしていたから。そんなわけで僕は周囲の女子から総スカンみたいなことになった。それだけならまだしも、二本松の方も僕の悪口を言いまくるようになって、なんだか僕の評判はガタ落ちだった。今になって振り返ればそんなことで悩むなんて馬鹿馬鹿しいけど、当時の僕はすっかり落ち込んだ。軽いうつ病みたいな感じになった。そんなわけで机の上の鉛筆削りを手に取ったんだ。
 ガモフが輪の中に消えていく直前、タイムマシンの原理を話してくれたけど、僕は必死になってそれを思い出した。なるべく自分との重なりを確実とするため、必ず自分がいる場所を選んで過去に戻った方がいい。だからガモフは卒業式の日の学校の校庭と場所を決めていたのだが、僕の場合、一番確実なのは自分の部屋のベッドだった。だから僕はベッドの上でハンドルをからから回した。光の筋が空間に残ると、腕を動かして輪を作った。半年前に行ければ充分だったからガモフが作ってみせたものより半分ほどの大きさにした。一ヶ月も遡れば済むのだけど、それだと輪が小さすぎてくぐれそうもなかったんだ。さすがに少し怖かった。でも当時の僕はそれだけ切羽詰まっていたんだ。目をつぶり輪の中に飛び込んだんだ。
 気がつくとベッドの上で寝ていた。窓の外は暗かったし、小さな室内灯がついているだけのいつもの自分の部屋だった。時計は二時を指している。僕は部屋をそっと出ると、居間に行き新聞入れをあさった。新聞の日付は四月十九日だった。しかし僕は九月までの記憶をしっかりと持っていた。つまりそれがガモフの言っていた過去の自分に未来の自分を上書きする、ということだった。
 はっきり言うけど、過去と未来の二人の自分に別れたなんてこともなかった。僕はあくまでも一人だった。それなら四月の時点で九月の自分になってなければ変じゃないか、と思うだろうが、そのあたりの仕組みまでは説明できない。きっと時間の流れは一方通行じゃなくて、そこから遡ったりして情報をやり取りできるのだろう。そうとしか考えられない。
 そんなわけで過去に戻ったものの、二本松が例の件を持ち出してくるまでまだ時間があった。その時に彼の頼みを断れば済むのだろうけど、それも変に恨まれそうだった。だから僕はどうしたかというと、五月になった頃、自分から栄子に告白していたんだ。君が好きだ、付き合ってくれってね。すると栄子は頬を真っ赤にしてこくりと頷いたよ。
 過去に戻る利点はそれだけじゃなかった。僕はすでに高三の授業の大部分を受けていたし、内容もほとんど頭に入っていた。大掛かりな復習をしていたわけだから、僕の成績はそれまでよりかなり上がったよ。学年のトップテンぐらいにまでなっていた。これじゃあ、ガモフが僕らのことを見下していたのも当然だ、というか気持ちがよく判った。だから僕は調子に乗って志望校のランクも上げて受験に挑んだ。かなりいい調子だったよ。自己採点でも思った以上の点が取れていた。けれど、僕は志望校には不合格だった。どういうことか判るかい? 考えられることはただ一つ、僕はマークシートを一つずつズレて塗り潰していたんだ。
 まったく絶望したよ。というか自分の馬鹿さ加減が許せなかった。一人で怒りを抑えられなくてもう一度タイムマシンをからからと回した。今度は一年分の輪を作って飛び込んだんだ。もちろん成功したよ。丸々一年戻ったから、高校二年の一月になったけどね。僕はそしらぬ顔で三回目の高校三年生をはじめた。五月に栄子に告白するのも忘れずに、そつなく毎日を過ごし、今度は学年のトップスリーの学力だった。そして志望校のランクもさらに上げ、無事に合格したんだ。
 それから今まで何度か、いや中学や高校の頃よりもずっと多くの、過去に遡ってやり直したい、という場面に遭遇したよ。でも、すんでのところで思い止まった。やっぱりどこかでズルいような気はしていたんだ。だからギャンブルとか、株とか、そんなものに利用することもなかったな。体験してみれば判るけど、光の輪をくぐる瞬間、過去に行けずに自分が消えてしまうんじゃないかって恐怖もかなりあるよ。だから大学を卒業する頃には押入れの奥に押し込めておいたんだ。
 でも今から半年前にタイムマシンは壊れちゃったんだ。ちょうど引っ越し作業をしていてね、奥さんが、——いや、栄子じゃないよ——押入れの奥の段ボール箱を引っ張り出した時、中にあった例のタイムマシンが弾みで飛び出して床の上を転がったんだ。透明のケースが外れて何回転もしたからヤバイって思った。するとやっぱり三角錐の棒が三つともねじ曲がっていた。僕は何度も真っ直ぐに伸ばし、三つの頂点が重なるように調節したけど、駄目だった。何度ハンドルを回しても光の筋は出来なかった。そりゃそうだ、素粒子一個よりも小さな空間に照準を合わせるなんて出来るわけはない。ガモフの手でなければね。
 すっかり落ち込んだ僕を見て奥さんがオロオロしちゃってね、誰かに貰った大切なものだったの? って聞くわけさ。でも僕はいい機会だと思って捨てたんだ。もう二度と過去に遡ろうなんて気分は起きないと判ってたし、もしガモフが目の前に現れて「直してやるよ」と言っても断ったろうな。いや、小学生じゃないよ。奴は同い年だから、今この瞬間もどこかで同い年のガモフはいて、何かの研究をしているんだろう。彼が繰り返し遡っていたのは小学六年生の時間だよ。そこを何度もなぞっていたんだ。だからこの話を君にしたのも、君は同い年って言ったろう? だからもしかしたら、小学六年の時、変な奴がクラスに転校してこなかったかと思ってね。それで話してみる気になったんだ。もちろん名前はガモフなんかじゃない別の偽名だと思うけどね。
 知らない? まあ、そうだろうな。でも僕は思うんだ。僕と同学年の奴全員に、それこそ日本中の全員に聞けばきっと奇妙な転校生に心当たりがある奴に出会えるんじゃないか、とね。目的? ああ、それは僕も疑問だったし、直接ガモフに聞いてみたよ。光の輪をくぐる直前のガモフに「君は何のためにこんなことをしているの?」って。するとガモフはこんなことを言ったんだ。
「この世界は出来すぎている。何もかもが整いすぎている。素粒子や重力にしたってそう、あやういバランスの上にうまい具合に釣り合っているから、辛うじて成り立っている。スカラー場にしたってそう、だから僕はこの世界はやはり誰かが作為的に作り上げた仮想世界なんだと思う」
「誰かって、神様ってこと?」
「神様とは思わないけど、そう呼ぶしかないな。創造主と言ってもいい。判りやすく言うなら、この僕らの世界、宇宙そのものは熱帯魚が入った水槽なんだ。そして創造主は水槽の外からただ中を覗き込んでニヤニヤしている。決して中の魚に餌を与えることはない。だから僕が目指しているのは、その水槽をぶち破って創造主に文句を言うことさ。お前、調子に乗るなよってね。なんとか世界の最小単位を破るところまでは来たんだけど、その先はまだ長いな」ってガモフは言ったんだ。そして彼は消えて行ったのさ。
 時間の流れが一方通行でないのなら、ガモフは僕と別れたあともずっと研究を続けているんだろう。そしてそれはどんどん積み重なっていく。だから僕は時々考えることがあるよ。ガモフはいつか目的を達するかもしれない。いつかこの世界の殻を破って神様に文句を言ってるかもしれない。でも、どうだろう? もしそんな日が来たら、きっとこの世
                            (了)


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