オットー_ネーベル

【通信講座】 小説「破片」 講評②


この作品のなかで最高の芸術的達成を示しているのは
まちがいなく第二回「トウコと千代」です。
今村夏子『こちらあみ子』のようなテイストを志向しているのだと思い、
かなりの水準で実現しているとも感じましたが
全編を通読して
主要なプロットがミステリー的趣向だったということにおどろきました。
(『こちらあみ子』未読でしたらぜひ読んでみてください)
 
描写の濃淡、文体の完成度、
キャラクターのリアリティー、あらゆる点で
第二回は第三回以降と異なるスタイルです。
私は「トウコと千代」のやりとり、関係性が主題となって提示され
その変奏としてのトウコを中心とした人間関係が展開されると予想し、
たのしみにもしていたのですが
完全に意表をつかれました。
 
ミステリー的趣向を強化するのであれば
この第二回は不要であるか、極端に省略しなければなりません。
その後の展開に関係しない事物、キャラクターは
ミステリー的趣向の「伏線とその解決」というルールを混乱させ
一貫性のあるプロットの邪魔にしかならないためです。
 
論理的に正当性のない偶然の事件でストーリーを進行させてはなりません。

そこへ二十歳程の清潔そうな女性が自転車で通りがかった。男二人は顔を見合わせ、瞬時に決断した。
支払いもせず、扉を勢いよく閉めて出て行ったのでその拍子に茶棚から幾つかの瀬戸物が落ちた。千代の茶碗が四つ五つに割れてしまった。

このようなシーンの変わり目で作者の恣意的なプロット操作が見えると
非常に興ざめします。
 
読者として、私は
ミステリー的趣向にはまったく興味が持てず
トウコ以外の生命を持たないキャラクターたちの空虚な会話は
生き生きとしたトウコの活動を阻害するものとしか思えませんでした。
聡志、喜久多の書き分けさえあいまいで
行動理念、価値観の一貫性が見えず、貧弱なミステリー的プロットに従属している死んだ人間です。
特に喜久多はいかなる内面も共感、把握できず
存在自体が不気味で、その説明じみたセリフには不快感さえおぼえます。

「なあ、聡志。トウコちゃん時々さ、ただのオウム返しじゃなく、本当の言葉を話すのを聞いてるか? 千代さんの茶碗が壊れた時、正太郎さんに『直してくれますか』って言ってただろう。そのあと、俺たちに抱き着いてきただろう。人に触られるのが嫌なトウコちゃんが、俺たちに抱き着いてきただろう。あれは、本当のトウコちゃんの気持ちじゃないのかな。
 お前だって、僕だって、きっと本当の気持ちを表すことなんて、人生でほとんどないんだ。周りの人に合わせて生きてるから。それが社会だからな。
 だけど、今日の聡志は、僕が見たことのない聡志だ。初めてみた聡志の感情だ。それがお前の本当の気持ちなんだろう? 本当の気持ちって、見えるものなんだなと、気づいたんだ。お前と、一緒にいたから、気づいたんだよ」
「トウコの考えていることを理解しようとするのは、一枚の写真を見ているのと同じなんだよ。トウコの目線に立って、トウコの見ているものを見たいという衝動がそこにはある。一枚じゃわからないから、何千枚、何万枚と、トウコを切り取ってみる。
 けれど、それらを並べかえたり、パターンを読み取ろうとしてみても、それはトウコを知るという方法とは、少しずれているのかもしれないよ。似ているけれど、少し違う。少し違うということは、時が経てば経つほど、たくさんの仮説で溢れてしまって、結局よくわからなくなってしまう。だから人は、何か確証となる、事実を求めてしまう」

後者は父親のことばですが
口をふさいで、だまらせたくなります。
一般的にミステリー的趣向は
「謎」によってストーリーの進行に注意を向けさせるためのものですが
私がこの作品でもっとも、そして唯一
興味があるのはトウコです。
第二回であれほど魅力的に描かれたトウコが
ミステリー的趣向の小道具のひとつにすぎなかったというのは
本当に残念で、かなしくなります。
もっとトウコのことを知りたい。
 
作者の構想、意図がどこにあるのか
どのようなテイストで一貫性のある作品を構築するのか
よく分からないことが最大の欠陥だと思います。
「戦後派」のような、「第三の新人」のような「破片」という
作品の全体的テーマの象徴となりえていない
思わせぶりなだけのタイトルも
作者の表現したいところをあいまいにしているのではないでしょうか。
 
私は読者として
第二回の文体で書きはじめ、書き終えることを強く希望します。

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