【短編小説】ディストピアの足音
「今野先生。実験終了です」
ブザーが鳴った後、男性の声が聞こえてきた。
今野明久は、実験室にいた。広々とした実験室は、白い壁と大きな窓ガラス、そして10人は余裕で着席できる長方形の白いテーブルが置かれているだけだ。今野はそのテーブルの長い辺のちょうど真ん中付近に置かれた椅子に座っていた。
今野は、外見からはサングラスと見分けがつかない形状のゴーグルをしている。それ以外で特に何か装着しているようには見えない。テーブルに唯一置かれた椅子に座って前方を向いているだけだ。椅子は、高級なレストランで使われているような、座り心地の良さそうな適度な硬さのクッションと豪華な装飾で彩られている。
今野が、口を指さした。
「はい。もう出していただいて結構です。まず、サングラスを外して前のテーブルに置いてください。そして、センサーフィルムを舌から剥がしていただいて、テーブルの小皿に置いてください」
今野は頷き、指示に従った。そして、白衣を着た男性と女性が実験室に入ってきた。今野の反対側の床下から、長時間座るという前提では作られていないような椅子が自動で迫り上がってきた。二人は緊張した顔で椅子に座り、今野と向き合った。
「今野先生。この度は実験にご協力いただき大変感謝しております。改めまして、私、この実験の責任者である、主任研究員の小杉新一と申します」
「私は、この実験の理論と実験全般を担当しております、北田明菜と申します」
二人は、実験の前に今野と軽い挨拶をしてはいたが、今野の到着が遅れたため、正式な挨拶という儀式を踏んでいなかった。
「今日はいい経験をさせてもらったよ。いや、この技術はすごいね」
開口一番、今野の大きな声が実験室に響いた。
「ありがとうございます。料理研究家の今野先生にそういっていただくと安心します」
小杉はほっとしたような表情となった。
「実際のフレンチのフルコースと比べていかがでしたでしょうか。銀座にある有名なフランス料理店で実際に出されているコース料理からデータを取得しました」
北田の表情からも硬さが取れたようだ。
「舌にセンサーフィルムを貼っているから、その感触がマイナスといえばマイナスだが、味だけじゃなく口内と鼻腔に広がる香りも再現されていて、総合的な味わいという点でも本物と遜色ない。それに、サングラスのゴーグルで料理が高精細に映し出されて、実際に食事をしているような感覚を覚える。一つ聞きたいのだが、視覚だけじゃなく、実際に咀嚼している感覚も経験できるのはどうしてだ?あと、満腹感もある」
「北田さん。説明をお願いします」
「ご説明します。今野先生に装着いただいたサングラスは、直接脳に信号を送ることができるようになっております。その信号で脳が咀嚼したように錯覚するのです。満腹感もそうです。満腹中枢を信号で刺激し、血糖値が上昇したように錯覚させます」
「なるほど。この技術が一般に使えるようになったら、世界各国の料理を手軽に経験できたりできるかもな。あとは、ダイエットにも役立つか」
「あ、はい。その応用も一つなのですが・・・」
北田が小杉の方を見ながら言葉を濁した。
「ん?何かあるのかな?」
「協力いただいた今野先生ですので、お話しします。実は、この技術は国が協力に推し進めているもので、目的は生活保護費の抑制なのです」
北田が小杉から話を引き取った。
「・・・。もしかして・・・。」
「ええ。国は、この技術があれば、生活保護世帯の食費分の保護費をもっと抑制できると考えています」
「しかし、これは料理を仮想で楽しむだけで栄養は全く取れないよね?」
「はい。栄養の方は、1日分の栄養とカロリーが取れるサプリメントがすでに開発されています。生活保護世帯にはこのサプリを提供するようです」
「食事は栄養を取るだけが目的ではないから、この技術も必要だということか」
「はい。おっしゃるとおりです。このサングラスとシートを使えば、いつでも食事を楽しめますし、満腹感も味わえます。」
「しかし、家族や親しい人との団欒は味わえないのではないか?」
「今はまだ無理ですが、サングラスのシステムアップデートで対応する予定です」
「そうか。サングラスとシート、そしてサプリを新たに作って提供するとなると、結構費用がかかるような気がするが・・・」
「一応、大量生産しますので費用は下がっていくことかと思います。国は、この技術を民生利用にも解放し、利用料を取ることも考えているようです。」
「そうか。もっともらしい説明なので納得するしかないが、何かひっかかるな。何かもっと狙いがあるのじゃないか?」
「・・・」
「誰か話したりしないし、記事で書いたりもしないから」
「わかりました・・・。本当の狙いは、食糧危機への対応です」
「そんなに切迫しているのか?」
「はい。世界経済が発展し、アフリカ諸国、南アメリカ諸国のGDPも飛躍的に増加したため、食料が取り合いになっています。日本はまだなんとかなっていますが、数年経てばどうなるか」
「食料を手に入れられない人が出てくる可能性が高いと」
そう言って今野はため息をついた。
「そうなると、食料を割当てないといけません。この技術を導入すれば、その割当てが難なくできると考えているようです」
「つまり、お金が一定程度稼げる人でなければ、実際の食事をすることもできなくなるということか」
「ええ。そうですが、先生もさっき経験されたように、全てにおいて実際の食事の体験と同じですから、満足感の点からすると実際の食事をするよりもいいかもしれません。栄養はサプリで取れますし、食事のしすぎで健康を害したりすることもなくなります」
「そういわれればそうだが、なにかすっきりしないな」
「あとは慣れだと思います」
渋い顔をする今野に対して小杉は言い切った。
「先生、この後も違う実験がありますので、今日はこれくらいで。実験について調査をお願いします。調査と言ってもネットでアンケートに答えてもらうだけです。アンケートの回答を確認したら謝礼をお支払いします」
北田が腕時計を見ながら退席を促した。
「わかった。私の端末にアドレスを送っておいてくれ。じゃあ」
そう言いながら立ち上がった今野は実験室から出て行った。小杉と北田は立ち上がって今野を見送った。
「小杉主任。あれの説明で納得してくれますかね」
北田は、そう言ってもう一度椅子に座った。
「どうかな。ただ、北田さんは演技もうまいな」
そう言いながら小杉も着席した。
「え。そうでしたか」
北田が嬉しそうに答えた
「ああいう奴には、それっぽい何かを教えてやらないと何を言いふらすかわからないからな」
「でも、この実験の真の狙いはわかってないと思いますよ」
「そうだな。それがわかるような人間じゃないよな。実際の料理と遜色ないことがわかればいいだけだから。あいつを使った甲斐はあった」
「でも、万が一気がついていたら・・・」
「心配するな。さっきの実験で、今野の脳に仕掛けを埋め込んだ」
「仕掛け?」
「今日の実験に関連することを喋ろうと脳が判断したら、今日から1年前までの記憶が消去されるんだ」
「あら、怖い」
北田が笑った。
「あのサングラスで自由に人の脳をコントロールできるようになる。国はそれが狙いだからな」
(終わり)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?