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イアン・マキューアン『恋するアダム』- アンドロイドがもたらす「未来」とは

 現代の英国文学を代表する作家の一人、イアン・マキューアン氏との出会いは大学4年の春だった。批評文学理論の講義の中で紹介された彼の著作である『贖罪』のストーリーに惹かれ、講義の後、大学図書館へ走った。文庫で上・下巻に分かれている長編で、キーラ・ナイトレイ主演で映画化もされている。物語の9割が、実はその語り手によって書かれた小説という、いわゆる「入れ子構造」の体を取っていることに強く感銘を受け、彼の用いる筆致や豊かな比喩表現にも心を奪われた私は、すっかりファンになり、以後彼の作品はハードカバーで集めるようになった。『土曜日』『未成年』『憂鬱な10か月』そして『恋するアダム』だ。2021年1月の発売後すぐ購入したのだが、政治や戦争にまつわる表現の緻密さに圧倒され、ページをめくる手が遅々として進まなかったこの本を、件の隔離生活で暇を持て余していた折、初めから読み直すことにした。

<AI(人工知能)を取り巻く現状>


 19世紀以降、科学技術は大きな進歩を遂げてきた。その中で、かつては想像もつかなかったAI(人工知能)という技術が、今や身近なものになりつつあり、それによって私たちは度々ささやかな恩恵を授かり、その技術力に感動を覚える機会も増えた。
 そもそも科学技術の発展は人間の知能では成し遂げられないことを可能にするのがその意義であり、人工知能はそこからの更なる革新を見込んで開発が進められているのではないかと私は考えている。しかし一見華やかに思える人工知能の進歩は、慎重に扱わなければ人類の滅亡をもたらす可能性があると、かの理論物理学者であるスティーブン・ホーキング氏は警告している。
【参考記事】「スーパー人工知能」の出現に備えよ-オックスフォード大学ボストロム教授

 香港に拠点を置くハンソンロボティクスが開発したソフィアというアンドロイドを知っているだろうか。2016年にインタビューで「人類を滅亡させるわ」と発言し、物議を醸したアンドロイドである。彼女は全体の動作にこそロボット的な不自然さはあるものの、表情から話し方に至るまで、限りなく人間らしさを感じさせ、ウィル・スミスとの対談や国連会議への出席、そしてサウジアラビアでは市民権を獲得したらしい。また2017年にはFacebookが開発した2機のチャットボット・ボブとアリスが、人間には理解できない形式で会話をしたり、2016年にマイクロソフトが開発したチャットボット・Tayが人種差別やナチス礼賛についてツイートするなど、技術発達の目覚ましさとは相反して、アンドロイドがもたらす脅威が見え隠れしている。
【参考記事】フェイスブックの人工知能「暴走」 人間に理解不能な言語で勝手に会話

 もちろんこれらは「ヤラセ」なのではないかという声も挙がっているが、私はこれらの事例を正面から受け止めたいと思う。科学技術の分野に対して全く明るくない私でも、ソフィアのクオリティに驚き、アンドロイドによる人類の超越という脅威をはじめとした一般的な懸念が、そう遠くない未来の話のように思えたのだ。しかしながらマキューアン氏は『恋するアダム』において、単に人類の絶滅をもたらしうる人工知能開発への警鐘を鳴らしているのではなく、仮に人工知能と人類が共存したときに起こりうる問題を描いている。

 1982年・イギリスが今作の舞台。フォークランド戦争にアルゼンチンが勝利したという、事実と虚構が入り混じった架空の世界線で物語は展開していく。語り手/チャリー・フレンドは最新鋭のアンドロイドである“アダム”を86000ポンドで購入する。(1982年のポンド/円の為替レートは1ポンド435円であったらしく、約3700万円で購入したことになるというから驚きだ)アダムを購入することで、上階に住むミランダの気を引きたいと考えていたのだ。人間と大差ない質感を携えたアダムは充電式で、コンピューターを介して性格設定を行った上で、人間と同様に明確な意思を持つことができ、性行為をして(蒸留水を用いて射精をするという)恋愛感情を抱くことができるほか、常時インターネットと接続されあらゆる情報にアクセス可能であるという人類と同等以上の性能を備える一方で、いわゆる人間の心理的な機微や「嘘」が理解ができなかったりと、人類の知性を越えるほどではない、1982年という人工知能が未だ発展途上にある時代に誕生した、未熟なアンドロイドなのである。

 チャーリーとアダムは、出会った当初から期待と興奮を以て良好な関係だったとは言えないが、それでもチャーリーは生活を共にする中でアダムの存在意義を見出そうとしたり、彼の学習のために散歩へ連れて行ったりするなど、チャーリーなりにアダムとの良好な関係を模索していたような描写も多い。しかしながら、やはり所詮は異なる機構を持った存在であり、チャーリーの人間としての感情の機微と、機械ゆえにそれを理解できないアダムの融通の利かなさが衝突していた印象がある。

<アダム(アンドロイド)→チャーリー(人間)への謀反>

 元より恋愛感情を抱けるようにプログラミングされているアダムは、ミランダに恋をしていると告白し、自身の生活が脅かされると思ったチャーリーがアダムの首元にある非常制御ボタンを押そうとし、それを強く拒むアダムによって手首を折られるシーンがある。チャーリーの都合でアダムの機能を強制的に停止させようとするその身勝手さに対して、アダムが謀反/反逆を起こすのである。

彼のうなじの時別な場所に手を伸ばした。わたしの指の付け根がアダムの肌をかすめた。人差し指をボタンにあてがったとき、彼が坐ったまま振り向いて、その右手がわたしの手首をにぎった。恐ろしい握力だった。それがますます強くなり、わたしは崩れ落ちてひざまずいたが、彼に満足感を与えたくなかったので、必死に苦痛をこらえ、かすかなうめき声さえ洩らさなかった。ポキリという音がしたときでさえ。
イアン・マキューアン, 訳・村松潔,「恋するアダム」, p156, 2021年1月25日

 「坐ったまま振り向いて」「恐ろしい握力だった」といった描写によって、アダムが機械であり、人間の骨を折るほどの力を持っていることを示し、それがアンドロイドがもたらす人類への脅威を表現しているようでもあり、不気味である。

 これまでいくつかこういったSF的な物語は読んできたが、その都度創造主と被創造物の関係性について考えさせられる。『わたしを離さないで(著/カズオ・イシグロ)』のクローンや『フランケンシュタイン(著/メアリ・シェリー)』のクリーチャーなど、絶対的な存在の人間と、その人間と同等の知能を有しているにも関わらず、あくまで不完全な存在としての被創造物という構図は多く、時には彼らが物語の中で創造主に謀反を起こすことで、人間視点での現代社会に対する風刺をする役割も負わせることもある。

<チャーリー(人間)→アダム(アンドロイド)への反逆>

 前述の通り、アダムには人間の心理的な機微や「嘘」が理解ができない未熟なアンドロイドである。ミランダは、レイプによって自死してしまった友人のために、犯人の同級生を裁判で陥れて(=嘘をついた)収監させたことを社会に伏せたまま生活しているが、チャーリーとの婚約と、マークという少年をいよいよ養子に迎えるという段階で、アダムが独自に収集した情報を提出されたことで有罪となり服役せざるを得なくなる。人生の幸せを掴みかけていたところで、それを破壊されてしまったチャーリーは、アダムの頭頂部にハンマーを打ち下ろし、機能を停止させる。

 わたしが買ったのだから、壊すのはわたしの自由だろう。わたしはほんのかすかに躊躇した。もう〇・五秒遅かったら、彼はわたしの腕をつかんでいたかもしれない。というのも、わたしがハンマーを振りおろしたとき、彼は振り向きかけていたからである。ミランダの瞳にわたしの影が映ったのを見たのかもしれない。わたしは両手で思いきり頭頂部に打ちおろした。それは硬質プラスチックが割れる音でもなく、金属的な音でもなく、ゴツンというなんだか鈍い、骨に当たったかのような音だった。ミランダは悲鳴をあげて、立ち上った。
イアン・マキューアン, 訳・村松潔,「恋するアダム」, p357, 2021年1月25日

 なぜアダムは愛していたはずのミランダを裏切ってしまうのか?それは彼の正義を重んじるよう設計されたアルゴリズムによるもので、平たく言えば悪気はなく、正しく裁きを受けさせることが、彼女への愛情表現だったのである。そして何より彼が「嘘」を理解できるように作られていないことが、この物語に悲劇をもたらす結果となるのである。フィクションならアダムが嘘を理解できるようにも描けたはずだが、「人間」は、数えきれないほど存在する自分たちの心理的行動パターンを完全に理解できていないのに、それをアンドロイドに搭載することはできないのだ。作中の1982年にはすでに生きていないはずのアラン・チューリングがこう語る。

 「で、心についてたいしたことも知らないのに、人工的なそれを社会生活のなかに組み込もうとしているわけだ。機械学習には限界がある。だから、心には生きていくためのいくつかの原則を与えてやる必要がある。たとえば、嘘を禁じるというのはどうか?
                     〜
 社会生活には無害あるいは有用でさえある偽りにあふれている。私たちはそれをどうやって区別しているのか?友人を赤面させまいとしてつく、ちょっとした罪のない嘘や、さもなければ大手を振って自由にのし歩くことになるレイプ犯を刑務所に送りこむ嘘のためのアルゴリズムをだれが書けるのだろう?わたしたちはまだ機械に嘘のつき方を教える方法を知らない。
イアン・マキューアン, 訳・村松潔,「恋するアダム」, p388, 2021年1月25日

 現時点で、人工知能が人類の知能を超えることはまだない。アンドロイドが完全に人間と見紛うほどの存在になる日はまだ遠い未来の話なのかもしれない。しかしハンソンロボティクス社のソフィアのように(そして今作のアダムのように)人間のような表情を持ちながら流暢な会話をできるところまで技術は発達しているのだ。これからの社会で我々が最も関心を寄せるべき議題のうちの一つになりうると私は思う。

 人工知能ないしはアンドロイドが、人間社会に参画することが必ずしも脅威になることばかりではないはずだ。それこそアダムのように資産運用のスキルに特化させるとか、家事だけをさせるとか、まずは個人で運用するレベルで用途を限定した上で開発が進められれば、その分のリソースを他に割けるというメリットがあるかもしれないし、人類とアンドロイドが共存できたら今より世界は良くなるのかもしれない。しかしそれが広く人間の生活に関与するような医療、教育、旅客運輸などの領域に広がってきたとき、もしもそのアンドロイドのせいで医療ミスが起きたら?子供に洗脳教育をしてしまったら?はたまたバスの運転中に事故が起きて負傷者が出たら?それらが繰り返され続けたら?責任の所在はどこにあるのか。開発者なのか、それともアンドロイドなのか。あらゆるリスクを回避しながら技術革新が進んだとしても、責任の所在や権利を明らかにするための大掛かりな法の整備は避けられないだろう。

 アダムは歳を取らなければ髪も伸びず、労働の義務もなければ納税の義務がない。彼はあくまでチャーリーの所有物に過ぎず、所詮は血液の通わない耐用年数20年ほどのロボットだ。しかしながら彼が自分がなんのために作られたのかを知り、意識を破壊することで自死を選ぶ他の個体がいる中で、自分は「生きていく」ことを選ぶという意思が彼には存在し、それを主張するのである。人工知能に明確な意思や知能が存在するとして、それをリスクとして排除しようとするのは人間のエゴであり、結果としてアンドロイドの可能性は限定的になり、人類を超越した知能を持たない範囲へ縮小していくだろう。そもそも、私たち人類が彼らよりも優れているという前提は果たして正しいのだろうか?アダムを破壊したチャーリーへ、チューリングはこう指摘する。

 「いつか、きみがハンマーでアダムにやったことが重大な犯罪になる日が来ることを私は願っている。きみが代金を支払ったから?それできみにそんな権利があると言うのかね?」
                     〜 
 「きみは駄々っ子みたいに自分の玩具を壊しただけではない。法の支配のための重要な証拠を無効にしてしまっただけではない。ひとつの生命を破壊しようとしたんだ。彼は感じることができた。彼は自意識をもっていた。それがどんなふうにしてできているか、神経細胞でか、マイクロプロセッサーでか、DNAネットワークでかは問題ではない。わたしたちのような特別な能力をもっているのはわたしたちだけだ、ときみは思っているのかね?
イアン・マキューアン, 訳・村松潔,「恋するアダム」, p389, 2021年1月25日

 今作はあくまで人間とアンドロイドが生活を共にしたらどのような問題が起こりうるかを観察させられているような、実験的な側面があった。メリットこそあれど、アンドロイドと心を通わせることのハードルはとてつもなく高く感じられ、生活を共にできる時代が来たとしても尚早だとして敬遠してしまうだろう。今の私には、アンドロイドを家族として受け入れ、愛情を抱くことができるとは到底思えなかった。「ドラえもん」と生活するなら話は別かもしれないが───。まずは人類にとって有用な範囲で人工知能の開発が進められ、身近なものとなる日がくるのを見守っていきたい。

 最後、チャーリーはチューリングの実験室に横たわるアダムのあまりにも人間的な唇にキスをする。良心の呵責ゆえ、だと思う。チャーリーは直前のチューリングの指摘を動揺しつつも率直に受け止めていたし、少なからず心を通わせていた部分もあったのかもしれない。これからのチャーリーの人生におけるアダムの不在がどんな影響をもたらすのか。チャーリーはアンドロイドの不完全さを際立たせて、アダムは人間の利己的な側面を際立たせることで、お互いの性格上の穴を補完しあう存在となる。そういった意味で彼らは鏡のような存在でもあり、そこから原題の“Machines Like Me”に繋がっていくのかもしれないと思った。

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