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「痴情」 志賀直哉 感想文

「俺が正直に話しているのだから、許すのが当たり前だろう」という夫の声が聞こえて来そうだ。

この正直さに妻の心はやられていくのだ。
「山科の記憶」でも、妻はいつも遠慮ぎみに振る舞う。
この妻は、本当に愛されているのか。
家庭を壊さないということは、果たして妻を大切にしていることなのだろうか。

「嘘が念入りになる」という表現は志賀作品にみつけたことのある言葉である。念入りになればなるほど、妻の苦しみは、想像すればする程に更に深まって行く。夫の愛情をつくづく疑ってしまう。

妻の嫉妬は本物で、夫(志賀先生)を心から愛しているのが読み取れるだけに、女と別れられないと仄めかす夫の優柔不断さと、女との関係を語っている、「新鮮な果物の味」というくだりにはゾッとしてしまった。
これが志賀先生の文章の上手さからなのだろうか。やはり妻の立場に立ってしまうので、大変おぞましかった。

「ご自分が散々人をだまして置いて・・・」p.274
とうとう腹に据えかねた本音の妻が切れてしまうシーンで、こういう修羅場が夫婦にはよくあるものであるが、妻の言い放った一撃がとてもすっきりしてしまった。やはり本音で話すこと、ある時は大揉めに揉めることが必然だ。

引用はじめ

「胸や髪に一ぱい雪をつけた妻が二間ほど離れた所に立ち、泣き出しそうな顔で何か小声で言っていた。妻は一と晩の間に眼に見えて衰えていった」
「厚いショールから出ている引詰に結った小さな頭の遠去かって行くのを見ると、如何にも見すぼらしく、哀れに思えた」新潮文庫 p.276

引用おわり

本当に愛している人の、哀れさや見すぼらしさは、私なら文章にすることは絶対にないだろう。愛する人のそのような姿には、ただ自分が胸を締め付けられるだけで、大切な人の惨めさは、人前には晒せない。

それらを小説家は晒す。
私小説とは覚悟をもって書かなげければならない。半端な気持ちではやはり作家にはなれないのだと思い、妻をとても不幸に感じた。

ここに何作か続いた夫婦の様子は、妻の愛情の方が夫のそれよりも、本当であると感じ、とても切なかった。

妻以外の人を愛してしまい、身を滅ぼしてしまう人間と、うそぶいて「家庭は壊さない」と言う人間は、どちらが自分を欺いていないのだろうか。

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