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よろめきながら踊るように

2021年のセルフ人体実験の記録。
大した仮説はないけれど。

これまで、消費的な行動が嫌いだった。というより、何に対しても依存性や受動性、支配的なものを感じとると、すぐに距離を置いてしまう癖があった。一つのサービスを使うにも、どこかの誰かに自分の欲望や行動を操作されていないかと警戒してしまう感じ。この強い自律精神、というより単なる逆張りマインドを持っていると、必要最小限な「実際的な欲求」だけに囚われて、世界に対する感受能力が衰えてきた気がする。支配的なものから脱して自由を求めていたはずが、そこはより狭く囚われた世界だった、というオチ。なんだか風刺的だね。

まぁオチがついてよかった。というより、オチなければ「貧しき身体」を振り回しながら、「何をやってもなんか違う」、リアリティの薄い世界で生きていくことになっていた。感性は遺伝と環境だよ、とよくツッコまれるが、あくまでこれからの創造の余地の話がしたい。

「自分の手でつくること」に足りないもの

「自分で何でもやる」というDIY精神は、消費社会への自分なりの希望の見出し方だった。確かに「自らの手でつくること」が自分に何かをもたらしてくれる実感はあった。産業や政治ではなく、「自分たち」こそが世界に意味を与えるのだ、というアナーキーな態度と共に、自分の手を動かしながらモノをつくる中で、新たな自分の一面を発見していく体験の可能性にこそ魅力を感じていた。芸術家が、制作によって本人の意思を超えていくように、手を動かす過程の場面に応じて「新しい自分」が生成されていくのは確かだろう。しかし、その振れ幅は、世界と交感してきた豊かな身体があってこそ。これまで経験によって自分の中に溜め込まれたレファレンスが少なければ、アナロジカルに繋がるものすらない、と思う。

「思わず」や「自ずと」の豊かさのために

つくることによる中動態的な自己拡張が一つのキーとは思うのだが、さらなる要素、レファレンスを増やすとはどういうことなのか。これは事例や知識を持っているとかではなく、どれだけ自分が壊れる/壊される経験をしてきたか、ではないかと思っている。例えば、人の話を聞くことでも、作品を見ることでも、自分に何かが入ってくるのを迎え受ける。解釈とか受け止める、ではなく、自分が崩れ、取り込み/取り込まれ、同化する/してしまうということ。もちろんそれは、ものすごく怖いことでもある。けれども「自分が自分であること」に固執して、固定化した価値観や「これが幸せよ、幸せなはずよ」という自己暗示と共に生きるぐらいなら、不安定でゆらぎのある世界で、新しい自分を立ち上げ続ける方がマシである。そこに自分の意思を超えた「思わず」や「自ずと」の豊かさがあるのではないか。

陥り、狂いの追体験

話は変わるが、2021年もたくさんの映画を見た。中でも暗い鬱っ気のある映画が好きで、そこには、どうしようもないことと共に生きていくあらゆる生が描かれる。鬱や性癖、信仰、衝動。いろんな「陥り」の追体験をした。「自分」の人生をはみ出し、そうでしか生きられない不可能さに忠実に生きる姿が、例えそれが、憐れで虚しく、社会的な悪であっても、自分にとっては魅力的に映るのだ。そして、その狂気をエンジンに表現する映画監督たちも然り。まあ、そんな究極の陥りは「求めてはいない」のだけれど。

脱・脱消費からその先へ

映画に限らず今年はいろんな人やカタチに触れた1年だった。消費をやってみた、というより、消費しないことを止めた、と言える。2020年のミニマル島生活とは一転、ある程度自由のきく金を握ることで、消費的かどうかの枠組みは一旦外し、映画を見たり、文章に触れたり、モノを買ったり、展示を見たりした。良いコートを来て街を歩けば楽しいし、ふらっと寄った本屋で惹かれたものは持って帰れる。これまでシャットダウンしていた世界に対して身体を開く、そんな当たり前のように思えることも、自分にとっては大きな出来事だったように思う。その中で「何かが自分に入ってくる」ことを迎え受け、そこからどうしようもなく突き動かされる「恋愛のような衝動」を求めていた。

もちろん、それだけでは不十分で、小さな揺らぎを増幅するために、表現者が置かれていた環境や時代背景を辿ったり、彼らが触れてきたものに触れたりもした。彼らを突き動かしたものは何なのか、なぜこんな表現が生まれたんだろうか。理解しようという試みから、彼らの人生を取り込む/取り込んでしまうような体験へと変化させていく。何かの表現がその人をつくり、その人が次の表現を生む。そうした連鎖的な共同性に、しっかりと自分の身を置くかが、テーマなのかもしれない。自分の内から捻り出す、のではなく、何かにちゃんと影響されながら自分が表現し、それがまた誰かの表現を生み、それが自分を作っていくような関係。「自分の手でつくること」に足りないものはこれか。確かにできていない。

表現-表現のあいだで

今働く会社が取り組む内容は、個の限界を感じていたからこそ、そのスタンスと実践からの学びは多い。すごく大きく言えば、何かを媒介した「人から人への働きかけ」とも言える。人が人を作ってしまう。だからこそ、自分をカタチづくる可能性を秘めている、と感じていた。

でもこれを「人→カタチ→人」という切り取りかたとするならば、求めているのは「カタチ→人→カタチ」という、カタチが人を作り、その人がまたカタチにしてしまうような連鎖なのかも?と思っている。それは表現主体の公共性?とでも言えるだろうか。この連鎖の中に自分の身を置き、自ずと「感覚と思考」「解体と構築」が循環しながら、身体を更新し続けられる気がする。新たな身体への誘惑の中に、自分と誰かを放り込んで、共に不安定な世界へ降りていきたい。

P.S.
誰かが「人生は長い長いノリツッコミのようなものです」と言っていた。これからも「一旦ノッてはツッコむ」を繰り返していきたい。

2022.1.1

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