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火曜日

彼女の笑い声が廊下に響いている。その楽しそうな笑い声に嫌悪感を抱いているのは、きっと私だけだろうなと思う。

この職場には、毎週火曜日にヤクルトレディが来てくれるのだが、健康のためにとヤクルトを購入していく人が結構多い。奥さんに頼まれて購入する人もいるくらいだ。
今日も「こんにちはー」という明るいレディの声で、ぞろぞろとみんな席を立ち始める。彼女も同僚と話しながら楽しそうに列に並ぶ。私も例外なく、今日は何を購入しようかと席を立った瞬間、電話が鳴った。
取引先から、来月に行われるイベントの案内が来ていないとの連絡だった。送付先名簿を確認しながら、確実に送ったことを確認する。しかし先方は無いと言う。前の支店長が本社に異動になり、そのまま案内状を持って行ってしまったらしい。それはそっちの過失でしょと思いながら、謝罪する。再送するため、新しい支店長名を伺い、封筒に印刷をかける。午後、郵便局に持って行けば市内なら明日には届くか。そう考えている間にも、購入依頼や注文書の作成、その他問い合わせなどがどんどん入ってくる。

「ありがとうございましたー」
景気の良さそうな声がフロアに響き、レディが帰っていった。
ああ、結局今日も購入できなかった。わざわざ追いかけて購入する気力もない。もういいや、という投げやりな気持ちが大きかった。

「だめですよー、もっといっぱい食べないと!美味しいものたくさん食べて、好きなことしないと!」

彼女の笑い声が響いている。同僚と楽しそうにしている様が手に取るようにわかる。カラフルにデコられたジェルネイルを見せびらかしながら、ブランド物の服に全身を包み、席に戻ってきた。堂々と歩くその姿は、まるでバリバリのキャリアウーマンだ。手帳の整理をしながら、先ほど購入したであろうヨーグルトを優雅に頬張り、私と目が合うとにっこり微笑む。

「美緒ちゃんはヤクルト買わなかったのー?」

「あ、ええ。買いませんでした」

「だめだよー、乳酸菌は大事なんだからー」

ありがとうございます、と一応微笑んだが、うまく表情筋を動かせなかった。しかし、彼女は満足したように手帳に向き直り、スマホで誰かとメッセージのやり取りをし始めた。
仕事をしなければ給料を得られない会社という組織の中で、仕事を任せられないがために何もせずに過ごす彼女は、精神を病み、リハビリ出勤をしているはずの先輩だった。何もせずとも来るだけで褒められ、仕事をしなくても通常の7割の給料を支給される。仕事はしないけれど、プライドはとても高く、自分が出勤できないことの言い訳をずいぶんとしている。
この職場も彼女には甘い。もう4年ちかくまともに出勤できていないが、仕事をしなくても給料を支払われるこの環境で、辞めたいとなるわけがないだろうとも思う。こちらから辞職を進めることはパワハラになるからと、人事部も何も言わない。


午後、案内状発送のために郵便局に行く。外出する旨を上司に伝えると、15時からミーティングをするという。

「承知致しました。それまでには戻ります」

いってらっしゃーい、と彼女の間延びした声を聞いて、苦笑いした。ちらりと目線をやると、まだスマホに夢中なようだった。
なぜ、こんなに働いているのに、この人よりも給料が低いんだろう、と辛くなった。


帰社し、デスクに戻ると書類が溜まっていた。承認作業をしなければ、注文が滞ってしまうことや、支払い処理も進めなければ、月末処理に間に合わなくなるため、なるべくなら手元に書類を滞留させたくない。15時まであと少しだったが、せめて振り分けだけでもしようと書類に手を掛けたところで、すかさず彼女が話しかけてきた。

「美緒ちゃん、ミーティング遅れちゃうよ。それは後回しでいいからさ」

「え、ああ。はい、今行きますんで、先行ってください」

「今すぐしなきゃならないことじゃないなら、それは後でもできるよね?」

面倒なので関わりたくなかったのだが、こうなるともうだめだ。舌打ちが出そうになる。心が波立つのが嫌だから、なるべく穏便に済ませたかったのに。

「ええ、大丈夫ですので、先行ってください。部長には言ってあるんで」

そう言い放ち、彼女には目もくれず書類を整理し始める。15時になる10分前、余裕で間に合う。何も知らないくせに、何もしてないくせに、こんなときに先輩面しないでほしかった。

ミーティング中も、とても辛い時間となった。私が話しているのに、なぜかことごとく彼女が話題を持って行く。このプロジェクトは私が進めてるもので、こうなった経緯や課題、懸案などはそれまでの経過を見ている人しかわからないだろうと思うのだが、目立ちたいのか、構ってほしいのか、過剰な相づちを打ちながら自分の正しさを大きく主張してくる。

「このままじゃ、業者さんの方に迷惑が行っちゃうんじゃないかな?それはうちとしても本望じゃないよね?」

軽く爪を弾きながら、彼女は私に問う。

「いえ、それは業者とも摺り合わせた上で決まったことですし、その分こちらも譲歩してる部分があるので、大丈夫なんですよ」

そう説明しても、自分の意見が通らなかったことが気にくわないのか、膨れて黙ってしまった。

彼女が「仕事」と呼んでいることは、私たちが面倒なことを大半行った上で発生する、面倒ではない処理を行っているに過ぎない。なのに、そんなに大きな顔をされたら、こっちだってたまったもんじゃない。本当に、こんなこと言いたくはないが、このときばかりは辞めてもらいたいと心から願った。

「○○さんが意見くださったおかげで、視野が広がりました。ありがとうございます」

そう言って、目を細める。私は今、きれいに笑えているだろうか。

くるんとカールした睫毛に縁取られた彼女の瞳を見つめながら、きれいに手入れされたロングヘアーをつかみ上げて切り落とし、色とりどりの指先は一枚一枚丁寧に爪を剥がしては粉末状に砕いてお茶と一緒に煎じて飲ませることを妄想する。

それくらいはいいでしょう?と微笑みながら、目で訴える。

「なに、わかってくれた感じ?」

そうして何にも気づいてない彼女は、この会社で一番幸せな人なのかもしれないと思った。

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