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空が一面白く光っている。遠くの方では重たそうな雲が黒く垂れ下がって、ひどく心地が悪い。見えない重力に押しつぶされそうな気分だ。上空に溜まった湿気が今にも落ちてきそうな天気。そういえば傘を持ってきていなかったが、職場に着くまで持つだろうか。

行き交う人と賑わう大通、スイーツ店の前の行列と待ち合わせる男女の群れ。その全てが耳障りで、全てが自分とはかけ離れたところにあるように思えた。

「水瀬」

皐月さんが俺を呼んだ。心地のいいハスキーな声が耳をくすぐる。その先を辿って、数歩先の彼を追いかけた。視界に色が戻ってきて、目の前が急に鮮やかになる。

「どうした」

大丈夫か、と彼の手が頬に伸びてきて、俺の頬をつねる。目尻を下げて笑う皐月さんは、さながら菩薩のように慈悲深い。
給料も上がらず、実力よりも上司に気に入られる奴らだけが認められるという、クソみたいな会社の中にあって、皐月さんは唯一の汚れ無き救いだった。誰に認められなくとも誰よりも仕事をし、上司にいびられようとも後輩を大切にする、そんな希有な人どこにもいない。

「すみません、何でもないです」

つねられた頬をさすりながら、俺はこの人の後輩で良かったと噛みしめる。ただ、誰よりも仕事ができるのに、その実力が認められていないことが自分のこと以上に悔しかった。

職場に戻ってくるなり雨がはらはらと降り始めた。窓縁に当たる雨粒が、外界の景色を閉じ込めてその小さな世界が合わさり、つながっていく。
途端、下品な笑い声がフロア内に響いた。どいつもこいつも、まともな奴がこの職場にはいない。俺が心を正常に保っていられるのは、皐月さんのおかげに違いなかった。
舌打ちをしながら、黒く重たい空を忌々しくにらみつける。常に何かに憤りを感じていた。
ブラインド越しに外を眺めていると、皐月さんが横に並んだ。

「水瀬、ちょっとコーヒー付き合って」

少しかすれた声で小さく囁き、ブラインドを指で弾いた。廊下に方に歩いて行く背中を追いかける。相変わらずじめじめとした空気感。彼は、淀んだ掃き溜めみたいなこの場所に、一輪咲く蓮のようだった。

「珍しいですね。皐月さんがコーヒーなんて」

「ああ。まあ、なんとなくね」

いつも選ばないコーヒーを、なんとなくで選ぶだろうか。

「なんかあったんですか」

「なんでもないよ」

「『なにもない』じゃなくて『なんでもない』なんですね」

「ああ、間違えた」

そう言って、皐月さんは力なく笑った。明らかに疲れていた。
そんなんじゃあんた、まるで隠せてないよ。俺に出来ることがあるのなら、何だってしてあげたいって思うんだ。あんたのために何が出来るんだろうって、いつも考えるよ。
いつも、もらってばかりじゃだめだと思うから、今度は俺がもっと、この人が寄りかかっても安心して任せられるくらい強くなりたいと思った。

夜になっても、雨は降り続いていた。
いつものことだが、残っているのは俺と皐月さんだけ。皆、さりげなく仕事を皐月さんに回して早々に退社した。いい歳して、人間としても中途半端とは救いようがない。
皐月さんの横顔を盗み見る。顔色は悪くないようだ。昼間は笑ってごまかされたが、彼の立場上、上と下の板挟みになっているのは見ていても辛い。
何かしてあげたくて、給湯室で紅茶を入れてフロアに戻ると、総務課の槙田さんが来ていた。

「お前のとこの部長、なんとかなんねえのか」

「なんとかなってたらこんなことになってないよ」

二人は同期らしい。気心知れた仲、という言葉が当てはまりそうだ。皐月さんも砕けた口調で話している。昼間の、契約の件だろうか。

「一応、先方には頭下げて収まったし。結果オーライ」

「上司のミスを部下が被ることのなにが結果オーライなんだ。お前異動した方が良いよ」

「異動したとしてもお前の部署には行かねえからな、槙田課長」

皐月さんは、そう言って皮肉っぽく笑った。だが、槙田さんの言うことは一理ある。本来だったら、もっと昇進していいはずなのに。

両手に握った紙カップからじんわりと熱が伝わる。アールグレイが湯気とともに香って、皐月さんの姿がゆらゆらと白に紛れた。
本当は皐月さんと2人で飲もうと思っていたが、仕方ない。

「どうぞ、槙田課長。皐月さんも」

「なんだ、水瀬も残ってたんだな」

コーヒーじゃないのか、という呟きは右から左にスルーする。

「ありがとう。…あ、水瀬」

皐月さんが何かを言いかけたが、何故だか少し嬉しそうに「なんでもない」と言って紅茶を啜った。ほっとしたような表情をしている。緩む口元を見て安心した。

槙田さんは一頻り話した後、ひらひらと手を振りながら去って行った。
なんだか集中力が途切れてしまい、一気に疲労が押し寄せてくる。もう、今日はこのくらいにして明日に回そう。空腹でいるうちはいいが、きっとご飯を食べたら動けなくなる。

「そろそろ失礼します」

「ああ、俺も終わるから。一緒に出よう」

皐月さんも一段落付いたのか、背もたれに寄りかかり、伸びをしている。

「わかりました。では、帰りの身支度してください。30秒以内で」

「え、30秒?ちょっと待って」

鞄にノートパソコンを詰め込み、ばたばたとジャケットを羽織ると、セキュリティセットをするためにあちこちの施錠を済ませて、また俺の前に戻ってきた。こんな冗談無視すれば良いのに、律儀に従ってくれるこの人がいとおしいと思ってしまう。

「よし、行きましょうか」

消灯をしてドアを閉めると、皐月さんがむっとした顔でこちらを睨んだ。

「水瀬が30秒とか言うから。すっかり慌てちゃってばかみたいだ」

「それは…すみません」

「いや別に良いけど。水瀬でも冗談言うんだな」

「俺をなんだと思ってるんですか」

冗談というか、俺の一言に振り回されているあんたを見るのが好きなんだ。
なんて、そんなこと言えるわけがない。

皐月さんに対するこの思いが、単なる上司への尊敬の念なのか、人間としての愛なのか、それとも恋慕の情なのかわからない。その全てなのかもしれないし、むしろ何にも当てはまらない気もしている。

外に出た途端、湿った空気がまとわりついた。
濡れて黒く染まったアスファルトに、あらゆる光が反射している。疲れた身体にはそれすら眩しく感じ、目の奥がズキズキと痛む。

「雨、止んで良かったな」

隣に並ぶ彼が、緩やかに笑った。
相づちを打ちながら空を見上げると、つられたようにして皐月さんも同じように顔を上げる。

白く光る月が、何にも染まらず平等に光を注ぎ、地上の全てを照らしていた。
眩しいのに目が離せない。
俺にとっては、彼もまた。

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