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「『なにもない』じゃなくて『なんでもない』なんですね」

水瀬にそう言われたとき、なぜか胸がぎゅっと苦しくなった。ふと口から出てしまった本音を、こぼさずにすくい上げてくれた気がして少し泣きたくなった。


外回りから帰ると、デスクの上には新たに積み上がった書類で山が出来ていた。その横では上司に媚びを売る奴らが、一生懸命に部長を持ち上げては下品な声で談笑している。
こんな茶番、飽きもせずによくできるよなと毎回思う。笑い声が耳に障って吐き気がする。
自分が汗水垂らして信頼を勝ち得た企業に、横から入ってきた部外者がいい顔をするのが仕事だというのなら、俺がしていることって何なのだろう。
自分の手柄だと言わんばかりに、鼻高々と語るその姿の、なんと卑しいことか。これ以上この空間に居続けることが耐えきれなかった。
ふと顔を上げると、目線の先に水瀬がいた。周りの雑音が徐々に薄れ、ざあっと雨音が聞こえてくる。彼は窓の外を眺めながら、忌々しく空を仰いでいた。雨が嫌なのだろうか。いじけたような少し子どもっぽい横顔に、ふっと笑みがこぼれる。

「水瀬、ちょっとコーヒー付き合って」

「あ、はい」

感情が表に出づらいのか、いつも真面目な顔をして俺の後をついてくるが、その背後にはぶんぶんと振られた尻尾が見えるようで可笑しい。最近ようやくわかってきた、彼の一面だ。

どこにいこうかと歩いていたところ、暗い廊下の先に白く光が差していた。ドアにくり抜かれた四角い窓が、どんよりとした空を映し出している。屋上に近いせいで遮る建物が何もない。ちょうどいいかもしれない。今はなるべく人が来ないような場所に行きたかった。
ドアを出た先は、なんてことない裏手の屋外階段だった。雨もかからないため、休憩するにはいい場所だ。靄がかかっていた視界が少しひらけたような気がした。

「珍しいですね。皐月さんがコーヒーなんて」

確かに、いつもカフェインを摂取するならお茶か紅茶を好んで飲んでいた。

「なんかあったんですか」

そう水瀬に聞かれて、正直焦った。そのまっすぐな瞳を見つめ返すことができない。
「なんでもないよ」と笑ってごまかしたのに、全然騙されてくれない。こういう水瀬の鋭さにどきっとする。

「さ、そろそろ戻るか。これから三好さんのところに謝りに行かないとだし」

やはりコーヒーは苦手だ。後味がずっと残ってさっぱりとしない。

「え、なんで皐月さんが」

「上司の尻拭いも楽じゃないよね」

「……どこまでクズなんだよ」

例えそれがその上司に向けた言葉だとしても、申し訳なさと不甲斐なさでいっぱいになる。
わかっている。どんなに努力したところで、この会社は俺という人間を認めない。そんなクズみたいな会社に勤めている俺も、大概クズだと思っている。

「三好さんのところ、俺も行きます」

「え、水瀬はいいよ。仕事結構回されてたでしょ」

「いえ、大丈夫です。一人じゃ寂しいでしょう」

空になったコーヒー缶に雨粒が落ちた。ポン、と軽快な音が響く。

「寂しくないよ。なにそれ」

「一緒に怒られましょう」

「うーん、まあいいか。じゃあ一緒に行こう」

口では渋々了承したものの、内心嬉しかった。この会社の中で、自分と同じところでファイティングポーズをとってくれる、この後輩の存在がどれほどありがたいことか。

「ありがとうございます。では、車準備してきます」

「うん、追っていく。先方に電話だけして行くから」

「はい。では、裏口に付けておきます」

「ありがとう」

去りゆく後ろ姿を見つめる。ありがたいことだ。自分を慕い、信頼してくれる人がいるということが、自分の人生の財産になるということを、水瀬を通して学んでいる。


三好企画に謝罪に伺うと、営業所長は申し訳なさそうに「皐月さんが謝ることなんてないのに」とかえって頭を下げられた。

「三好さんには、大変失礼なことをしたと思います。申し訳ございませんでした」

「皐月さんも、大変ですね。うちは皐月さんがこうして来てくれただけでもありがたいと思っていますよ」

そんなふうに言ってくれることがありがたかった。「お互い、苦労しますねえ」と言った所長の言葉に、感謝する以外なかった。


とはいえ、残業は確定だった。後始末をしない上司の尻拭いを、せめて今日中に終わらせたかったからだ。外は未だに雨模様だ。帰る頃には止むだろうか。
水瀬も残業らしいが、席にはいない。どこぞで休憩でもしているのだろう。本当は早く帰らせてあげたいのだが、自分のことすらままなってない状況で申し訳なく思う。
ふう、と一息ついたところで、総務課の槙田が声を掛けてきた。

「お前まだいたのか」

「槙田もね」

槙田とは同期で、お互い立場は違えど、よく愚痴をこぼしながら飲みに行ったりもした。この部署に配属になってからは、飲みに行くことすら少なくなったが。

「お前のとこの部長、なんとかなんねえのか」

「なんとかなってたらこんなことになってないよ」

まあそうだよな、とお互いため息をつく。いつものように、異動しろだとか上司がすることじゃないだろとか言っているが、言ったところでどうにもならないとわかってしまってからは聞き流すことにしている。

「どうぞ、槙田課長。皐月さんも」

水瀬がカップを手にして戻ってきた。アールグレイの良い香りが湯気とともに漂ってくる。

「なんだ、水瀬も残ってたんだな」

コーヒーじゃないのか、という槙田の呟きに水瀬が少しむっとしたように見えて、かわいく思えた。
肌寒い夜に、温かい紅茶はありがたかった。水瀬から受け取り、ふと気づく。槙田が来ていることを彼は知っていただろうか。顔を見るが、なんでもないように見つめ返してくる。
きっと、これは俺と水瀬の分だった。

「なんですか?」

「いや、なんでもない」

感心すると同時に愛おしく思えて、くすぐったい気持ちになった。
心根の優しいこの後輩に、俺は何を返せているだろうか。何をしてやれるだろうか。

紅茶を飲んで落ち着いたのか、槙田はあっさり帰って行った。うるさいのがいなくなったからとデスクに向かうが、一旦切れてしまった集中力は戻っては来なかった。気がつけば22時を過ぎており、そろそろ空腹に耐えきれなくなってきている。ぐぐっと上に伸びをしていると、水瀬が帰り支度を済まして帰ろうとしていた。どうせ帰るなら一緒に、と俺も片付け始めたところで「帰りの身支度30秒以内」というミッションを課せられた。

「え、30秒?ちょっと待って」

慌てふためく俺を見て、くつくつと笑っている。いたずらっ子みたいに笑った顔は年齢よりも幼く、これが彼の本当の笑顔なのかもしれないと、それすらも微笑ましく思ってしまった。

「よし、行きましょうか」

「水瀬が30秒とか言うから、すっかり慌てちゃってばかみたいだ」

涼しい顔をしてドアを閉めた水瀬をむっと睨む。すみません、と言った彼の口元も少しむっとしていて可笑しかった。

「いや、別に良いけど。水瀬でも冗談言うんだな」

「俺をなんだと思ってるんですか」

普段あまり冗談を言うタイプではないと思っていたから、ここ最近は水瀬という人間を知ることができてなんだか嬉しい。

外に出ると、湿気を含んだ空気が身体にまとわりついた。今年の夏はまだ始まったばかり。7月とはいえ夜は気温が低くなり、息を吸うとひんやりとした外気が肺に溜まる。この時期が一番過ごしやすくて好きだ。
夜のビル街は賑やかだったが、我が社屋はその外れのほうにあるため、都会の喧噪とは少し離れていた。車の通る音や飲食店の明かり、歩く人の話し声とネオンサイン。そのはるか頭上から、月明かりが何にも遮られることなく光を注いでいる。

「雨、止んでよかったな」

呟くように言い、光の主を仰ぎ見る。真っ暗な孤独の中、厳然とそこに在ることが、きっと今も昔も人の心の支えとなってきた。俺にとってもまた、変わらない日常に差した光が彩りを持たせてくれた。
ちら、と隣にいる水瀬を盗み見ると、目を細めながら、ぎゅっと眉間に皺を寄せていた。

せめて俺は、水瀬にとって、いい影響を与えられる人間になりたい。こいつが、希望を持って生きていけるように、なんでもしてあげたいと思う。それは、先輩と後輩という感情の垣根を越えているようにも思うし、親心のようなものからきていると捉えることもできる。しかし、それがどこからくる感情であったとしても、もうなんでもいいと思った。

「帰りましょうか」

マイペースに歩き出した彼の隣に並ぶ。

「そういえば、駅前にまた蕎麦屋できるらしいですよ」

「え、これで6店舗目じゃない?」

特別なことなんて何もない。だけど、こんな他愛のない話にすら色が付いていく。
水瀬という男について、月と言うよりは太陽と表現したほうが的確だろうか。日に照らされ、あらゆるものの色が明快に縁取られていくように、彼の光は彩りをもたらし、乱反射する。そのプリズムに魅せられて、明日もまた、色づいていく日常を生きていきたいと願うのだ。

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