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救ってくれる他人がいない俺を肯定してくれた「すずめの戸締まり」感想

俺にとっての2011年3月はちょっと違っていた

当時、19歳で高専4年生の終わり頃だった。実家から徒歩30秒の所にある父方のじいちゃんの家。物理的な近さもあってガキの頃からじいちゃんばあちゃんとはよく遊んでいた記憶がある。
特にじいちゃんはよく遊んだ。
仕事でいない親父の代わりにキャッチボールをしてくれたことは今でも覚えている。
そんなじいちゃんが2010年辺りから入院を始め、そして、3.11の前後。亡くなった。
当時のmixiの日記を遡ってみると、18日に無事葬儀が終わったと書いていた。3.11から1週間後のことだった。
だから世間様は当時、東日本大震災でてんやわんやしていたが、長崎にいた俺からするとまさしく対岸の火事だったし、どちらかというと、19年間もずっと近くにいて「俺が二十歳になったら一緒にお酒を飲もう」と約束していたじいちゃんが死んだことのショックの方が何よりも大きかった。
そこから11年。俺も家族も普通に生きている。

はじめに
「すずめの戸締まり」のネタバレが入っているのでまだ観ていない方はご注意を
ちなみに俺はネタバレ好きなので、ネタバレ観てから映画観るタイプ
すずめの戸締まりは11日のレイトショーだったのでネタバレとか観る前に観た

震災ネタをすることに心配していた自分

だから、劇中も震災のどうのこうのってよりも「10年以上経過したからってこんなあからさまに震災ネタするのって大丈夫なん?」という心配の方が強かった。
ストーリーに入り込めなかったとかそういうわけではない。
お話は普通に面白かったし。
確かに冒頭の小すずめが歩いているシーンの船が建物の上に乗っているの観たとき「あれ?これってやっぱあれ(東日本大震災)か?」って思ったのは覚えてる。
とはいえ、あからさまにそれを言及することはないやろ、と軽くみていた。

だからこそ、すずめが当時の日記を振り返るときに3.11のページで黒塗りにしている場面の時は「おーまーじか」となった。
マジでちゃんと震災を扱うんか。

そうはいっても、記事冒頭の通り、俺からすると震災は割かし他人事として感じていたので「まあ10年も経ちゃあそういうのもやるか」ぐらいで止まっていた。
多分このまま何もなく進んでいたら「良い映画だったけどまあ、普通やな」で終わってたかもしれない。

だけど、終盤「生と死は常に隣り合わせ」というセリフで感情が揺さぶられた。
ここら辺のシーンで、俺は震災をネタにした作品をフックとして、2011年の3月のじいちゃんが死んだ時のことを思い出した。
そして、ようやく自分事のような感覚で映画を観られるようになった。

自分自身を救う展開が俺のことを肯定してくれたかのように思えた

で、俺はてっきり東北の扉にて、死んだ母ちゃんに出会って、すずめが乗り越えて終わり! というオチかと思っていた。
でもそんなことはなくて、映画の冒頭で小すずめが会っていたのは、今のすずめだったということがわかった。
結局、すずめがその歳になるまでに普通に生きて、乗り越えてきたんだね。というオチだった。

俺はこのオチでこの作品が最高に好きになった。
パンフレットだったか、特典の冊子だったかで監督は「自分を救ってくれる他人に誰しもが出会えるわけではない。だけど、少なくとも自分自身には出会える」と言っていた。
俺はこれが嬉しかった。

常々思っていたのだ。
どうして、物語の主役達はああも都合良く人が集まり、都合良く救われたり助かったりするのだろうか?
それってズルくないか? と。
ならば、救ってくれる他人に出会わなかった者達は一生、主役にもなれずに終わるのではないかと? それっておかしくない?
自分のためにベクトルを向けて救ってくれる他人がいるのなら、それは全ての人に存在するべきなのに、どうして名前のある主役達にばかり集まるんだ?

いや、もちろんそうじゃないとお話が進まないってのもわかる。でもそうはいっても、色んな作品を観てきて、いつもこのことだけは解せない自分がいたのだ。
そして、どの作品もそのことに関しては全く触れない。
「救ってくれる他人や助けてくれる他人はいて当たり前だろう?」と。

だからこそ、この作品の「自分を救ったのは自分でした」というオチは本当に嬉しかった。
これが、母ちゃんでも草太さんでもがすずめを助けたとかだと普通の話だなーで終わっていた。でもそうじゃなかった。
自分の物語は自分でけじめをつけるのが一番なんだ。
誰かが救ってくれるなんてのは幻想なんだから。

じいちゃんが死んだ時のショックも悲しさも別に誰かが救ってくれたわけじゃなくて、長い年月で俺が勝手に俺を救って立ち直ったし、いつだって俺はそうだった。
何かあっても助けてくれる隣人はおらず、長短はあれど結局は自分で自分を救って今までを過ごしてきたのだ。
この作品はそれを肯定してくれたかのように思えた。

俺はよく見る「〇〇は私の恩人です」という話があまり好きではない。
「俺には救ってくれた他人はいたけど、お前はそんなのいないもんなww」と言われているようだからだ。

どの物語もそう。
主人公の近くには常に友人がいて、ヒロインがいて応援してくれるモブがいて、ピンチの時に駆けつけてくれる仲間がいる。
ズルいし、こすい。そんなのは現実にはない。あまりにもフィクションが過ぎる。
どんな困難も結局は仲間がいてくれたから的な友情パワーによって解決してしまう。
俺が「鉄鍋のジャン」が好きなのはそういう所かもしれない。
ジャンは何があっても常に嫌われ続けていても、自分自身で自分を助け続けていたから。

だから、俺はこの作品が「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締まり」の3部作の中で一番傑作で好きだと思った。
救ってくれる他人がいない俺を肯定してくれたかのように思えたから。


キャッチボールをする相手がいなくて、いつも壁にボールを投げていた俺のボールを受けてくれたのは、じいちゃんだった。
帰りが遅い親父の代わりに暗くなるまで俺のボールを受けてくれたのは、じいちゃんだった。

だから、俺にとっての2011年の3月は東日本大震災の年じゃない。俺の大好きだったじいちゃんが死んだ年だ。

今年の年末は3年ぶりに長崎に帰る。コロナとかで中々帰ることができなかったからだ。
3年ぶりに墓参りもしよう。

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