『迎え火』/孤伏澤つたゐ

この間三浦海岸に行った。品川~三浦海岸の往復切符とコーラ、海の家利用券、LINEMUSICのクーポン券の4つがついた大変お得なチケットで神奈川のはしっこまで行き、スクール水着じゃない水着を久しぶりに着て、それなりに旺盛に遊んだ。8月といえど今年は雨ばかりだ。その日も天気はにごった灰色のくもりで、ぱらぱらときまぐれに雨を降らせては私が買ったかき氷を溶かしていた。

近くのファミレスでおゆうはんを食べた後、花火をしよう、と言って、夜の浜辺に近づいた。ひかりのない真っ黒な海はひたすらに潮騒だけをならしていて、色味はがらんどうなのに質量として確かにそこにあるのが分かる。

夜の海は奇妙な恐ろしさをたたえていた。

おばけが出そうだとか泳いだら死にそうだとかじゃなく、その圧倒的な存在の大きさに、ただただぞっとした。私の生物としての本能が「こいつにはかなわない」と、ひたすらに警鐘を鳴らしていた。打ち上げ花火をするために少しだけ海に近づくのすら怖かった。

私は海のある地方都市に生まれたけれど、私の知っている海は工場排水で汚れた、灰色のアスファルトでしっかりと整備されたそれだ。あるいは、水族館で見れる豊穣の空間。きっと本当の海を知っている人、それこそはちことりりからしたら、私が心を寄せて感動する水族館の海はにせもので、うそっぱちで、侮蔑の対象になるのかもしれない。

『迎え火』は、貧しい漁村に生まれたはちこの目線で語られる。同い年のりり、海豚のように番う双子の男の子、線香の匂いと老人。痴呆の繰言のような念仏。全部が全部ゆっくりと衰退に向かう中で、はちこは老人達の期待に答え双子と子供をつくることもしなければ、りりのように海女にもならず、漫画家としての日々を送っていた。はちこが唯一「村の人間」らしくするのは、県の無形文化財として認定されている盆の行事のときだけだ。都会への誘いを断り、己自身も村に残る理由を明確にしないまま、ただ盆祭の役目を全うするために、毎年儀式用の浴衣に身を包む。

「はあちゃん、はあちゃんと老人たちは私を呼んで、えらいねええらいねえとくちぐちに言う。方言で、つらいとか苦しいという意味だったけれど、まるで背筋をのばしなににも頼らずに歩ける私を、誉めているかのようだ」と、ただ淡々と思うはちこは、果たして海を制する人間なのだろうか。

海女や漁師。うみでうまれたひと。そういう人たちはみんな、私の思う豊穣の海ではなく、もっと圧迫感のある、そら恐ろしい、いのちそのものを湛えた海と上手に付き合って、日々を暮らしている。仕事柄失うことの多い指は、まるで海に対する半強制的な捧げ物みたいだ。

中学校もろくにいかず、互いを舐めあって生きている餓鬼のような双子。やせた体は貧しい漁村そのものだ。2人にしかわからない言葉をささやきあうのは排他的な田舎そのものだ。かれらはかれらに生きる村そのものだ。だからきっと彼らの中にもそれぞれの海があって、彼らはお互いに性欲を以って彼らの海を泳ぎあい、海に潜む命を凝視する。彼らは海そのものがゆえに、互いに互いを捧げあっているのだろうか。

わたしは綺麗に整えられた海か、ひとの生産の為に使われる機械的な海しかしらない。だから夜の海で垣間見た、いのちそのもの、何か言葉にしがたい「生」につきまとう執着や重さを、はちこをはじめとする漁村の人々は常に凝視しながら生きているのだと思うとぞっとする。海はこわい。それを知りながらも海にもぐるなんて私にはできない。私が海に入れたのは、海の恐ろしさを知らないからだ。

はちこは知っている。知りながらも恐れない。恐れていないが海にはもぐらない。ならばはちこは、果たして海を、その存在を、いったいどういうものとして己の中で消化しているのだろう。


8月31日まで期間限定で公開しているらしいので、今読んでおくべきだと思う。おすすめ。







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