『イルカ』よしもとばなな/文春文庫

沢山の凧を想像して欲しい。それらは自由に飛んでいるようにみえて、実は遥か下でたったひとりのおじいさんがその三千の凧を操っている。空から見た凧はてんでばらばらの動きをしていて、まるでひとつの独立した生き物のように自由なのに、確かに底の底でだれかに操られている。おじいさんの手に握られた3千本の糸。凧と凧は、見えないところで、ぎりぎりの奥深くでつながって1つになっている。

ところでそれを、どぼんと海に落として欲しい。太陽の光で薄い水色の海を泳ぐたくさんの凧と、真っ暗の深海で凧をたぐるおじいさん。

それがわたしの中にある心とか、人とか、神様とかいう存在の構図だ。

『イルカ』は私が何年か前に近所のブックオフで買って、それから半分ほどよんでずっと放置していた。最近なぜかお気に入りのブックカバーに『イルカ』が挟まっていて、私は「昔の私が読もうとして、でもブックカバーをかけたところで満足しちゃったんだな」と思いながら、面倒くさい卒論の現実逃避でぺらぺらと本をめくった。これどんな話だっけ、ああそうだ、内縁の妻が居る恋人と、小説家の主人公の話だ。覚えてたのはこれだけ。

恋人となんやかんや会った後、主人公の「わたし」は女性の駆け込み寺でご飯を作るお仕事に就いて、そこで会った不思議なマミちゃんという女性に救われて、偶然おなかに宿ったいのちと何ヶ月かを共にする。全ては甘やかで、聡明で、ばななさんらしい淡々とした文体で、けれど清潔なシャツのように整えられながら描かれる。

ハラハラもドキドキもしない。ただ何か、おじいさんと凧の間に横たわる何千メートルもの海のどこかにあるような、根源的な何かがエッセンスとしてちりばめられている、そんなおはなしだなと思った。

こんなにつらつらと書いているのにどうして私がお話に対する考察とかあらすじをもっとちゃんと書かないかって、それは私が、今このタイミングで、この本を、まったくの偶然で読んでしまったことに、ばななさんがこの話にこめた根源的な「何か」の作為を、感じずにはいられなかったからだ。

この間の日記にも書いたけど、今わたしはすこしからっぽで、私のことを好きでいてくれる人の電話だけを頼りにして生きている。朝の、すこしだけはなして、いってらっしゃいを言うだけの、数分しかない会話。夜は今日会ったことととりとめもない雑談と猥談を織り交ぜて、けれどかならず「いつもありがとうね」とお互い言ってから、電話をつないだまま眠りに落ちる。朝4時ごろ、ふと目が覚めると、電話越しにいびきが聴こえるのがおかしい。

それだけがここ最近の全てだった。けれどそれだけで心はまったく元気になって、起こるかもわからない未来のことを当たり前に信じてしまっている。きっと私はいつか子供を生んで育てるのだなと、疑問も嫌悪も感じずに、ただ運命が決まっているように最近の私はすんなりと思う。きっと高校生の頃のわたしがいまの私を見たら「不確定な未来を語ってのぼせあがっているのは相手にも自分にも不誠実だ」なんてよくわかんねぇことを言うんだろうな。

主人公の「私」は、妊娠を知った後無意識にヒールを避けたりぬるいお湯につかったりするのを「私でもない、赤ちゃんでもない、なにかが私の奥底から私をコントロールしている」と感じている。

私の奥底にも同様に、なにか絶対的なものがあって、それらが母親になることを受け入れた私と、母親になるまでの書いた『イルカ』を引き合わせたのかもしれない。

奥底に居るものは何かわからない。主人公の「私」にとって、おそらくそれはイルカだったのだろう。じゃあ私はどうなんだろう。「おじいさん」はこれを読んでくれている人にわかりやすく伝えるための記号でしかない。凧の操り主は人によって様々で、それは自分自身でしか知覚ができない。大人かもしれないし、子供かもしれない。犬かもしれないし、もしかしたらおとうふとかかぼちゃかもしれない。

考えてみれば、今までどうしようも無い飢餓感を感じていろいろなお話を生んで育ててきた私が、なにか命を持ったあたたかい、実体を持つものを嫌えるわけがないのである。

またいつもどおりまとまらないけど、この本を読んで、その静かに淡々と希望に満ち満ちている感じに満足して、泣いたりする人がいれば、わたしはきっとその人と仲良くなれると思った。

おしまい。



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