『いつか怪物になるわたしへ』/おかき大明神

読書感想文、というか、有名なnoteの感想文。

暇つぶしに開いたTwitterに流れてきたもので、何気なく読んだけれど、この文章を読んだおかげで今こうしてキーボードを叩いている。今私が、正社員という身分を手に入れてから考えるようになったこと、自分自身の変化とか、そういうの全部。書きとどめておくほど価値のあるものでも時間を割くものでもないと思って、つらつら通勤電車で考えるだけだったけれど、何年か後のわたしには、この文章が必要かもしれない。

職場のお局様。考えが凝り固まってしまった人たち。自分を気持ちよくさせるもので箱庭をつくり、群れをなし、悠々と広大な社会の波を泳ぐ人々。そういう、世の中にありふれた人を、『山月記』を手掛かりに読み解き、内省した文章だ。

「絶対にためになるから読んで」と、押し付けることはできない文章だと感じた。きっとそれでは本当の意味でその人のためにはならない。自分の意志で選択して初めて、この文章を読んだことになる。わたしは自分の意志でこの文章に触れてよかったと思うし、願わくば、私の周りにいる優しい人たちが、この文章を選択して、”読む”ことができたらと思う。

話は変わるけれど、わたしは仕事ができる。

突然何言ってるんだこいつってなるけれど、仕事ができると評価される理由ははっきりしているのだ。締め切りを守れるだけで、事務の世界では評価がぐんと上がる。与えられたものの期限を確認し、どのくらいでできるか自分の力量を鑑みて判断し、本当は3日で終わるけれど保険をかけて(悠々と進めたいので)一週間はかかりますねぇなんとかなりませんか?みたいに掛け合う。多分みんな息をするようにしている。とりわけ同人誌を出したりする生産的なオタクは、この能力が鍛えられているから。

業界のこと、仕事のこと、あらゆるものに対して勉強熱心なのはそれがわかれば「書ける」ようになるからで、「書く」ことを下手なりに続けてきた結果、逆算の能力がつき、時間を意識するようになり、与えられた議題に意見を言えるようになった。私の場合、小説を書き続けることが生きる目的で、アンパンマンの言葉を借りれば書くためにうまれて書くために生きて、書くことがアイデンティティで、自我で、虎なんだと思う。それが評価されるかどうかは別として。

『いつか怪物になるわたしへ』では、自我の目覚めは一般的に25歳だと書かれている。わたしはまだ24だから、まだ目覚めていない可能性は十分にある。それでも現段階で結論をだすならば、わたしの虎が生まれたのは、きっと19歳。大学に入ってからだ。

小さいころから文章を書き続けていたけれど、本格的に書くことをはじめたのは、高校2年生の時からだ。短編賞に応募することからはじめて、一年以上かけてようやく長編もかけるようになって、大学も文学への道を進んだ。その時の私は、「今に見てろ」という思いで創作をしていた。

けれど、あの大学のあの学科は、幸か不幸か私の創作を肯定してくれるひとしかおらず、受け入れられることはあたたかく居心地がよくて、わたしは飢えた精神をなくしてしまった。認められることがきっと書くことへの原動力で、書き続けられたのは自責の念があったからで、でも、時間と優しい友人、先輩、師を手に入れたから、高校生の私の虎はおなか一杯になってしまった。厭世的でどこか周りを見下して、お前たちの理解できないでっかいことをやっているんだという高校生の私が抱えていた虎は、とても良い形で救済された。一方で、書くことが絶対的に正しいという新しい虎を、知らず知らずのうちに遺していったんだろう。

だってわたし、いま、会社の人たちのことを「文化的でない」と思っている。わたしがいる会社は、びっくりすることに坂口安吾を知らず、本も読まず、酒と風俗と子供のはなしにあふれている。同期に「彼氏とどこでデートするのか」と聞かれて「映画とか美術館だよ」と返したらひどく驚かれたことがある。恐ろしいのは、それを汚らわしいと思うのではなく、「偉くなってワークライフバランスを整えて時間の猶予をつくったら酒と女以外にも趣味が増えて文化レベルがあがるんじゃないか」なんておこがましいことを一瞬でも通勤電車の中で考えてしまったわたし自身だ。

わたしは自分自身に甘いので、ふりかかる嫌なことつらいこと全部、書くことの材料にすることでなんとか耐えてきた。今体験しておけば、いつかきっと書く時の財産になるからって。いろんな嫌なことを覚えておけば、目も開けたままになるだろうって。それを知らない人たちは哀れだって。でも、書くことを支柱にするあまり、書くこと自体が、それを中心にものを考えること自体が、自分自身を凝り固まらせているんじゃないか。

不思議なことにお金をもらうようになると性欲もなくなるし結婚もしたくなくなる。わたしの周りには子供が好きな人が多いけれど、わたし自身は現時点では特にほしいとも思わないし、妊娠で仕事ができなくなるのは面倒くさいなぁ、なんてことを考えてしまう。子供をみると涙が出ることも少なくなり、アンパンマンで号泣していた不安定な頃のわたしは賞与によって救われてしまった。現金なやつめ。それでも不思議なもので、レストランでおもちゃをぶちまけてしまった子供にはしゃがんで拾うのを手伝うし、社員さんの子供を暇つぶしでゲームセンターに連れて行ったりするし、子供を前にすると自然と言葉遣いが優しくなる。体は母性を覚えていて、気持ちは追いつかないまま、子供ができたら彼にまかせて自分が大黒柱になろうなんていっちょまえなことを、具体的な計画として考えている。

自分が産休に入ったら、この物語を書くんだ、と、決意を秘めているわたしはなんだか非常にみじめだ。

でも、一方で、絶対にこれは妊娠しているときにしか書けないと直感的に思うわたしもいる。じゃあ、書くために産むの?少子高齢化の中求められる責任を果たすため?そんなのはあんまりにも、産まれてくる子に失礼だ。産まなきゃ、という意思の元産まれてきた子、欲しいと思われて産まれてきた子、何も考えてなかったけどできちゃった子。書きたいわたしといつか相対するかもしれない生命に対して誠実でありたいわたしと。頭の中はいつだって混乱してぐちゃぐちゃで、だから通勤中は空気がうすい。

”書く”ためになる、というわたしのアイデンティティは、あらゆることに対して能動的になれる一方で、それ以外を徹底的に否定する虎にもなる。絵や文章をかかないコスプレも写真もしない、推しのグッズを集めるタイプの人たちに対して「なんで?」と思ってしまうのが良い例なんだろう。だれがどこに楽しみをみつけて、何のためになんて、人それぞれで文句を言えるわけないのに。酒と女を知ろうともせずに否定する権利はない。

お金は数字で、数字は証拠だから、わたしは自分自身に対する会社からの評価で世の中の生き方を知った気になっていたんだろう。このスタイル、書くことを中心に据えてきた結果社会での評価も上々で、ならばこの状態を維持しながら生きていこうか、なんてことを賞与明細を見ながら考えていた。わたしはわたしを、進んで凝り固まらせて怪物にしようとしていた。書くことをはじめとした生産的な趣味を持つことがよいと考える性格が濃縮されたらどんなふうになってしまうのか。それが社会の、仕事の上でも発揮されたらどうなってしまうのか。そう思うと、怖くなる。

数字の世界、簿記にだって目に見えない価値をあらわす「のれん」という勘定科目がある。『いつか怪物になるわたしへ』の終盤、臆病者だけが行ける旅路は、その目には見えないのれんを得ることなのかもしれないと感じた。そういえば私は大学を卒業するとき、少し怖かった。学生という身分を失うことではなく、学びの機会が減ってしまうことに。自分の考えが刷新されず、新しいものに触れなくなるのが怖かった。そう思うと、学ぶことーー系統だった学問以外でもさまざまな価値観に触れることを含んでーーというのは本当に誰に対しても救いになるし、私にとっては、”書くため”を抜きにした学びや友達との会話を手放した時こそが、怪物化の第一歩なのかもしれない。

学習には痛みが伴う。前にノートでめっちゃこわい工場長について書いたけれど、今でもあの言動は肯定できないけれど、あの体験は必要だったと思う。それはつらい体験を書けるからではなくて、ただ、なんとなく、あれがなければもっと調子に乗っていただろうな、という、ブレーキ的な意味でだ。でもわたしは、自分がかけられた性格否定にもとれる言葉を後輩たちが浴びるのは絶対に嫌なので、工場長のことは絶対に許さない。許さないけれど、どこか感謝もしている。

繰り返し言うけれどわたしはやっぱり自分に甘くて、死んだ後天国と地獄と中国どれがいい?って言われたら天国じゃなくても最低無熱天でお願いします~といってしまうような人間だ。

さっきさらりと自責の念で創作を続けたって書いたけれど、その時の私は親の罪は子の罪的な考えを中心に持っていた。自分の血に受け継がれたあらゆる悪いところを善い行いをすることで先回りして根絶しようとしていた。それが目覚める前にって。自分を自分でいいこって思いたくて、「いいひとならこういうことすんのかな」っていうことを、できうる限りでやってきた。心にも思ってないことをすることに罪悪感を覚えながら。

でも、いま、「はて?」と思いながらも好きでもない他人の子の粗相を片づけたりとか、グロテスクな見た目の先輩と雑談をしたりとか。そういうの全部、しつこく見栄を張り続けた結果良い行いが心の前に体に染みついちゃって、自然とそういう振る舞いを覚えたのだとしたら。それは、なんだかんだすごくいいことなのかもしれないし、体に善行を染みこませておけば、とりあえず社会上での怪物化の抑止力にはなるかもしれない。

いつかそれが、本音の、心からの行いになればいいなぁ。小銭貯まるのが嫌だからっていう理由で募金箱にお金をぶち込むのを、いつか本当に、どこか遠くにいる被災されたひと、飢えた子供たちのことを思いながらの行動になればいいなぁ。

そんなことをとりとめもなく考えた。

またまとまらない。でもすっきりしたので、おわり。



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