「対話」主義?

フィンランド発祥といわれる統合失調症へのアプローチ方法と言われる「オープン・ダイアローグ」。それなりに精神科医療や当事者研究といわれるものに遠からずの地にいる自分としては、数年前いや10数年前から耳にしている、が、実はあまり興味のわかないコンセプトの一つだ。
今年、大きく動き始めて、人のつながり、SNSの拡大をやってみると、さらに近づいてきた感じがある、と、同時に、特に「対話」主義とも言われる人たちが身近にも多くおられることに改めて気がついた。ダイアローグは日本語に訳すと「対話」になるので、そういった「対話」について多くの関心を寄せておられる人たちということにしておこう。

ところが、私にはまだそのことに対してのブームがやってこない。私は自分が納得できない、勉強し切れていない言葉を使うが苦手なので、いまだ「対話」をつかうことができていない。

そもそも、フィンランドの精神医療の分野の治療法の「オープンダイアローグ」はともかく、対話とはなんなのだろうか。会話と対話はどう違うのだろう。そもそもの疑問がいまだにある。調べてみると、二つの資料がでてきた。

前者はビジネスマナーの教本?後者は、中学校の学校長の講話だそうだ。
また、わかりやすく平田オリザさんは、こう言っている

劇作家の平田オリザさんは、二つの言葉ついて次のように定義しています。 「会話」=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。 「対話」=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。 あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

寛容になるためだとか、対話は意味のあるコミュニケーションだとか、でてくるのですが、


①心理的な意味での他者とのコミュニケーションについて

②内的な同族的コミュニティではなく、他/外のコミュニティとの交流のための方法論

大きく分けるとその二つのために、あえて、会話の中に、特だしで「対話」というものをコンセプト化しているように感じます。と同時に日本での語られ方が道徳的であることにも気がつきます。

上に引用した学校長講話の中にこんな一文があります。

そして「議論」「討議」は、discussionとなり、語源的には、percussion(打つ、揺さぶる)やconcussion(脳震盪)と同じで、例えるならば「戦い」となり、相手を説得し、勝ち取るというイメージになり、対話とは少し異なります。

対話は「共感」だと続けられます。

どうも、ここに私のひっかかりがあるようです。そう「共感」を求める姿勢。そして、~SSIO を戦いに例えてしまう。文化といってもいいのでしょうか、その姿勢。

まだまだ、勉強をしていかないといけないようです。

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