5月16日に見た落ちのない夢の話

妻と小説家の展示にやってきた男。
変わった展示で、壁に小説家が直筆で半紙に書いた短編小説が所狭しと並べられており、その一つ一つの作品の前に感想ノートが置かれている。男は、小説家は字が汚いものだと思い込んでいたため、案外達筆な事に一目置き、そしてどの短編も案外落ちが効いていて面白いことに関心を抱いた。感想ノートには短いが心のこもった感想を書き綴る。
一方男の妻は「うーん」「わからない」など一言の感想ばかりを書いていた。男は我が妻ながら少しセンスの無いところがあるなと呆れる。

暫くすると、妻が一つの展示の前で立ち尽くしている。いや、よく見ると肉付きのいい女が作品の前に座り込んで妻に話しかけていた。

「鈴がね、92回落ちたんですのよ、奥さん」

そう言って、座り込む女の手元にはキーホルダーに付いているような鈴が一つ。会場のつるつるした床にころがっている。それを女はカリカリと床を引っ掻くようにしながら取ろうとしていた。妻は困惑した様子で女に話しかける。
「ええ、ええ。でも。どうして92回?」
妻は冷や汗をかいていた。肉付きのいい女は立ち上がり、妻の手の上に鈴を置いた。が、すぐに妻はそれを取り落とした。するとまた肉付きのいい女が座り込み、カリカリと地面を引っ掻くようにしながら鈴を取ろうとする。
「鈴がね、92回落ちたんですのよ、奥さん」
「ええ、ええ。でも。どうして92回?」
何かがおかしい。女が鈴を取り、それを妻に手渡し、妻がそれを落とす。そうして二人して同じ言葉を繰り返す。
男は気味が悪い光景だなと、妻に声をかけようとした。すると遮るように竹のようにひょろひょろと細い男がやってきて、肉付きのいい女に何か話しかけている。するとすーっと肉付きのいい女がその場から離れていった。
男は引き戻すように妻の肩を掴む。すると先ほどまで冷や汗をかいていたのが嘘のようにケロッとした様子で男の顔を見た。
「あら、あなたどうしたの?」
「どうしたって、お前」
すると横から先ほどの竹のように細い男が話しかけてきた。
「こんにちは、私はこの展示を行なっている小説家です。本日は来てくださってありがとうございます」
小説家が男に話しかけると、妻はすうーっとその場を離れ、また半紙に書かれた短編小説を読み、手前に置かれたノートに「独創的ね」「よくわからなかった」などと書き連ねた。
妻の元に男が向かおうとすると、小説家が先ほど男が妻にそうしたように、男の肩を掴んだ。男はますます気味が悪かった。
小説家は続ける。
「あなた方は先ほどから僕の作品、いちいち全部に感想を書いてくださっていますね。奥様は…まあ、いいとして。やあやああなたはセンスのあるお方だ」
小説家は感想を全部読んで回ったらしい。男の書いた感想も…口ぶりから察するに男の妻の書いた感想も。
男は血の気を少し引かせながら小説家に軽く頭を下げた。
「すいませんね。連れが失礼を」
「いや、いいんですよ。今回の展示は何で知ったんです?」
「知ったといいますか…妻が行こうと私を誘ったんです」
「なるほど、そう考えると奥さんもそう悪い人じゃ無さそうだ」
小説家は愛想のいい笑みを浮かべた。
「どうです旦那さん、この後一杯」
「いや、初対面ですし、妻が居ますので…」
「このビルの92階にオープンした居酒屋がいいところでね」
「92階。それはそれは…」
はて、ここのビルは高いものの92階まであったかな。
鈴の音がなる。
ふと男が振り返ると先ほど妻と話していた肉付きのいい女が立っていた。片手の指先に先ほどの鈴を摘んでいる。赤色を塗り込んだ口元をにたにたと歪ませていた。
「いいんですね、よござんすね。先生も、あなたも、92回で。92回も」
そう言って小説家を見ているのか男を見ているのか分からない表情で棒立ちをしている。
小説家は女に声をかけた。
「トモミくん、いいんだよ。それで。僕も彼も、君も。92かいで」
92かい。特に意味が無さそうな数字だ。
男は妻を見る。妻は特に男に興味も留めず、少女のような目で壁の作品を眺めて、ノートにまた一言だけ「なし」と感想を書いていた。

男はふとある事に気づく。それに気づくと男は顔がかっと熱くなるような、血の気が引くような気分になり、足早に妻の元に近寄り、手を取り会場の出口に走った。妻は困惑していた。
「100番まであるのに」
残念がる妻を引き連れ会場を後にする。
去り際に入り口上に飾られた会場の大看板を見るとその展示会は92回目らしかった。

妻が先ほど見ていた作品の展示番号も92だった。


#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

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