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横顔

敬愛する野田洋次郎さんが幼少期の写真を挙げていた。
そこに写る父は洋次郎さんだった。

羽根は大きく 結び目は固く
なるようにきつく 結んでいてほしいの
夢はここに 想い出は遠くに
気付けばそこにあるくらいがいい

楽曲提供した「蝶々結び」を聴くと
僕は父を思い出す。

父と最後に連絡を取ったのは8年近く前だ。
父は健在だが、僕は母子家庭だ。

母はバツ2だ。
父と結婚をして離婚して、また父と結婚してまた離婚した。僕は厳密にいつからいつまで結婚していたのか知らない。この先もずっと知らない。

幼稚園生か小学校低学年か、別居をしていた父の元に車で母と母の友人と行ったことがある。
僕はひとり車で待っていた。どれくらい時間が経っていたのだろう。涙を拭う母と友人が帰ってきた。
父の元には女性がいた。
僕は見ていない。説明も受けていない。
車の中の会話で察したんだ。

それから何年だっただろう。
気がつくと父と共に暮らしていた。

父は土木作業員だった。
一度だけ現場に連れて行ってもらったことがある。
「すぐ終わるから、ちょっと待ってろ。」
僕はトラックの中で1人待っていた。
父は測量して、交通標識の看板を手際よく取り付け、
黒板に記録を書き込み写真を撮っていた。
手際の良さに「すごい。」と声を出していた。

父の事を書いた俳句でおーいお茶の佳作を受賞した。
「お父さん 大きい背中に 憧れる」
自慢できる父ではない。でも好きではいた。

中学生になって、両親の喧嘩は毎晩続いた。
母の部屋と父の部屋、それに僕の部屋。大体は部屋越しで喧嘩する。父は一度、僕の前で母に手を出した。
僕が止めようと割って入り殴られた。
母は憤慨していた。僕は父を睨みつけていた。
父は申し訳なさそうにしていたが謝りはしなかった。
その夜は静かだった。
そんな日は決まってゴイステの銀河鉄道の夜を聴いた。
飛び立ってしまいたかった。

それからも毎晩続いた。
僕は部屋に閉じこもってクッションを殴っていた。
申し訳なかったんだ。
僕がいなければ今頃2人は別々の生活を送っていた。
僕のために2人は一緒に住んでいたんだ。
説明は受けていない。察したんだ。

一度だけ「いい加減にしてくれ。」と
怒鳴って壁を思いっきり殴ったことがある。
ピタッと止んだ。
その夜も静かな夜だった。
きっと誰も寝ていなかったのに。

関係を繋ぎ止めていたのは野球だった。僕は背がすごく低かったので、プロ野球選手への夢はどこかで諦めていた。でも両親は応援してくれた。そして家族の関係を唯一結ぶ野球を辞めることが出来なかった。

高校に進み寮に入った。
そして、東京の大学へ進学し、東京で就職した。
一度だけ父からお願いされ、野球を教えに行ったことがある。父は仕事をやめ野球のコーチをしていた。
僕は迷ったが、高校の友たちが一緒にいってくれた。
今どうしているかは知らない。

僕も父親になって3年が経つ。
父を結婚式には呼ばなかった。母を思ってだった。

息子が僕の幼少期の写真を見て自分だと言う。
「これはね、パパだよ。」息子は首を傾げてまた自分だと言った。息子が寝た後に父の写真を見た。
僕も自分だと思った。

黙って引っ張ったりしないでよ
不格好な蝶にしないでよ
結んだつもりがほどいていたり
緩めたつもりが締めていたり

痛いほど刺さる歌詞だった。
僕と父との思い出は不格好だった。
お互いの存在が首を締め合ったことも数多あった。
保護者の欄に母の名を書く度に父を教室で恨んだ。

それでも今はきつく、きつく父には僕の記憶を結んでいてほしい。これから僕が大きな羽を広げるために、
きつく、きつく足元を持っていてほしい。
切り離せないのなら、
思い切り踏み登って飛び立ってみせる。

次はいつ父の事を思い出すだろう。
僕は解けた自分の記憶を少しだけ眺めてまた縛り直す。そして写真を物置の奥にしまう。

心の中ではもう少し手前にしまっておいてもいい歳になれたのかもしれない。
上げる際に写真が一枚落ちてしまった。
拾い上げた写真の父が僕を見ている。
僕に横顔がそっくりだった。

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